梵語名をśubhakrasiṃha(シュバカラシンハ・善無畏)と言い、王族か貴族階層の生まれで、
出家の後に達磨シッタに師事し、輸波迦羅(ゆばから)と呼ばれる事もある、インドのナーランダー寺で三論・華厳・唯識を含む顕密両教を修める、特に密教の碩学となる、617年長安に移り三密行すなわち「身」「口」「意」を用い中期密教を興隆させる。
三密とは大日如来を己の中に取り入れる事を「入我我入」と言い加持とも言う、入我我入の仕様書に
①入我我入観(身密・印を結び姿形で仏になりきる)
②正念誦(口密・真言を称え仏を真似る)
③字輪観(意密・心で仏を真似る)がある。
716年長安に入り、玄宗皇帝の保護を受け西明寺などを拠点に「虚空蔵求聞持法」を漢訳する、724年には洛陽に於いて弟子の一行と共に「大毘盧遮那成仏神変加持経」すなわち大日経を漢訳し、その中で弟子の一行と共に大毘盧遮那の意訳として大日如来と言う呼称を体系化して採用する、但し大日如来の呼称は数回の使用のみで毘盧遮那の呼称が大勢を占めている。
密教を中国に伝えた「伝持の八祖」の第五祖に加えられている、因みに伝持八祖とは「付法八祖」から実在しない大日如来すなわち毘盧遮那と金剛薩埵を除外して・龍猛・龍智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果・空海を言う、日本への渡来伝承があるが信頼できる資料は存在しない。
その他の漢訳に初期密教経典の範疇に入る「
明王は如来や菩薩の顕密混淆ではなく完全な密教尊である、梵語のvidyārāja(ヴィドヤーラージャ)を明王と訳したのは善無畏であり広めたのは弟子の一行である。
2009年11月30日 20012年10月20日 2017年2月15日更新