阿弥陀如来は日本仏教世界に於いて最もポピュラー(popular)
人間は大日如来の境地に到達する
阿弥陀仏の梵語名に付いては諸説言われるるが「無限(Amitā・計測不能すなわち∞)・寿命(yus)」の合成語で無量寿 如来・Amitāyus buddha(アミターユス ブッダ)即ち永遠の生命とする説と、無量光 如来・Amitābhabuddha(アミターバ ブッダ・bhaは光)限りない光明とする「阿弥陀如来」は音訳である、(a=否定接頭語+ ・mita=ミタ、量る=無尽蔵の量 ・ābha=アーバ=光明 ・āyus=アーユス=寿命)異論もあるが意訳を「無量寿如来」とされる説が強い、因みに寿命は∞とも言える阿僧祇劫(asaṃkhyeya)と言われる、
阿弥陀信仰に関する一説に、ミトラ教に於けるアミターバ(Amitābha)を源流としており中国に於いて完成を見たと言う記述がある(久慈力・現代書館)、ミトラ教(Mithraism)とは、古代ローマで流伝した太陽神ミトラスを主神とする密儀宗教であると言う、密儀宗教とは古代ギリシャに於けるヘレニズム(Hellenism)を主体とした宗教である、その他阿弥陀は ・ゾロアスター教のアフラマズダ、 ・ヴェーダ聖典の太陽神、・梵天、・ユダヤ教等々の影響を受けていると言う説もある、閑話休題、阿弥陀の呼称に付いてAmitāyus及びAmitābha共にゾロアスター教のアフラ マズダー(ahura-mazdāh)が源流と宮崎哲也氏は言う、要するに無量光如来・Amitābha (アミターバ)(アミターバ)と無量寿如来・Amitāyus(アミターユス)の関連は不祥で異なる存在の可能性を言う説もある、またの本生譚(Jātaka)や
阿弥陀如来の名に関する梵語経典であるが無量寿経ではAmitābha(アミターバ)即ち無量光が用いられている、阿弥陀経ではAmitāyus(アミターユス)
顕教に於いては阿弥陀如来が正式名称であるが両界曼荼羅の中台八葉院や成身会等に無量寿如来の呼称で存在している、同尊とするは異説もあるが阿弥陀如来と無量寿如来の呼称について密教に於いては修行のマニアルでもある「無量寿如来観行供養儀軌」に無量寿如来根本陀羅尼が説かれている為に無量寿如来が呼称されている様である、要するに密教では即身成仏すなわち現世利益を説き極楽等の浄土を説かない為と思われる、因みに密教に於いては「清浄金剛」「蓮華金剛」などの密号で呼称される事がある、密号とは密教に於ける結縁灌頂に使用される呼称を言い金剛号・灌頂号等とも呼ばれる、無量寿如来とは密教に於ける阿弥陀如来の尊名と解釈しても良い様である、頼富本宏氏は密教に取り込まれて極楽浄土との関連は粗失われていると言う、そこで密教は尊名を音訳から意訳にすり替えたえないのかも知れない。
大無量寿経に言われる法蔵菩薩時代に四十八の誓願(praṇidhāna
プラニダーナ)を成就させて如来と成った、阿弥陀如来の本願(pūrva-praṇidhāna プールヴァ・プラニダーナ
阿弥陀如来は極楽浄土の教主である、「南無阿弥陀仏」日本に於いては「念仏」の代名詞と言えるほど衆生に溶け込んだ如来である、彫刻、絵画を印刷し仏壇に置かれた家庭内の本尊像を加えれば他の仏像を遥かに凌ぐ膨大な数量になる。
阿弥陀如来の依経となる浄土三部経の中での阿弥陀如来、無量寿如来に使い分けであるが、大無量寿経では概ね「無量寿」が使われ「無量光」が一回である、観無量寿経では「阿弥陀」と「無量寿」は併用される、阿弥陀経に於いては「阿弥陀」が使われ無量寿が一回使われている。
極楽浄土に往生する為の行として、天親の「浄土論」に「五功徳門」即ち五種の行が示されている、*礼拝門(阿弥陀仏を敬い拝む)。 *
無量光如来説は古代インド佛教界で言われた永遠の仏陀とする説であり、後説は光背等からゾロアスター教(注8)の影響を受けたとされる、梵語のAmitābhāは光で無量寿光となる、因みに中国に於いては請来当初で後漢の頃は意訳の無量寿仏と呼ばれたが唐の時代になり阿弥陀如来と呼ばれる様になったとされる。
阿弥陀如来と無量寿如来の呼称に付いて「大無量寿経」に於いては阿弥陀と言う用語は用いられず無量寿が殆どで無量光が一度使われている、「観無量寿経」に於いては阿弥陀と無量寿が併用されている、また「阿弥陀経」に於いては無量寿が一度で後は総て阿弥陀が呼称されている。
阿弥陀如来の呼称の由来については阿弥陀経に於いて釈尊が多くの菩薩たちの前で十大弟子の上足、舎利弗に仏の光明(ābhā)は十劫の間、
仏教の発祥地インドに於ける阿弥陀信仰について1977年インド・ガンダーラと共に仏像発祥地として双璧であるマトウーラの寺院跡から阿弥陀如来の西暦105~106年造像と思われる台座(マトウーラ博物館蔵)が発見されるまでインドに於ける阿弥陀如来の単独信仰は疑問視されていた、またガンダーラに於いて阿弥陀三尊と見られる石像が発見され更にアジャンターなどの石窟の転法輪印像の阿弥陀如来説もある、しかし以後独尊での造像はなく南漸(上座部圏)を含めて比較的マイナーな如来である、東漸のエリアでも密教の興隆以後は単に五仏の西尊として造像されている程度である、但しシルクロードに至り敦煌あたりには観無量寿経を
大無量寿経に依れば阿弥陀如来の出現には無限と言える過去に「
東大寺には法蔵菩薩が思惟している阿弥陀五劫思惟像(室町時代)がある、また師が世自在王である為か密教に於いて「観自在王如来」と呼ばれる事もある。
大無量寿経に阿弥陀如来の出現経過(誓願)が説かれており、大乗経典に一番多く登場する如来である、人間が高邁な覚りの境地即ち有余涅槃(注16)に達するのは限りなく困難な事であり死に対する絶望的恐怖感から思考されたのが阿弥陀如来と言える、歎異抄・十五條は言う「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと。もてのほかのことにさふらう。即身成仏は真言秘教(真言密教)の本意、六根清浄はまた法華一乗(天台宗)の所説、四安楽の行の感得なり。これみな難行上根のつとめ----」と言う、因みに大無量寿経では「十二光仏」とも呼ばれて「無量光」「無辺光」「
法蔵菩薩時代に「世自在王如来」の教えを受け五劫(注6,7参照)と言う無限に近い間修行して本誓、すなわち四十八の誓願(無量寿経)をたて行願を行い如来となったとされる阿弥陀を信仰する事により救われようとの考えから成立したものである、因みに本願とは梵語でプールバ、プラニダーナ(pūrva-praṇihāna)と言い宿願、誓願などと和訳されるが漢訳は「願」であり固いと言う意味を持つ。
法蔵菩薩の誓願は漢訳では二十四願であるがその後の魏訳では四十八願(康僧鎧訳)に増やされている、阿弥陀四十八願の内特に十八願を王本願と言い四十八願総てを網羅していると言えるが、十八番(王本願)は初期の訳支婁梼讖訳(漢訳)、支謙訳(呉訳)、菩提流支の唐訳には存在せず康僧鎧の訳にのみ存在すると言う。
阿弥陀信仰はインドでは論理的には世親(vasubandhu、ヴァスバンドゥ)により確立された様で、「他土仏信仰」(注2)の嚆矢的な如来である、二世紀頃には西北インド方面から阿弥陀信仰は成立しており釈迦についで古い佛の一つと言える、しかし当地では現在阿弥陀と確認できる独尊での阿弥陀如来像は無い、ただし前述の1977年にBC156刻印の阿弥陀佛とされる台座がマットウラー地方に於いて発見されている、現存するのが台座に限られるのはイスラムに破壊されたのでは?と中村元氏は言う、同じ頃インドのヒンズー世界では阿弥陀信仰と同様な崇拝行為、すなわちビシンヌへ帰依(śaraṇa・さらなん)する趨勢が興っていた。 (密教の五佛の一尊即ち無量壽仏として存在するが七世紀まで戻る。)
我が国には曇鸞や善導達(中国の浄土信仰)により確立された阿弥陀信仰は六世紀後半から七世紀初頭頃に伝わり弥勒信仰と混合された形で信仰された、種類としては来迎図・観音菩薩と勢至菩薩を従えた三尊形・浄土変相図((1)浄土曼荼羅参照)の主尊・九品印像などがあり、これ等の多くは観無量寿経と浄土信仰の比喩とした「
代表例として奈良時代には浄土をイメージした法隆寺金堂壁画(六号壁・昭和24年火災にあう)や橘夫人念持佛等がある、平安時代には和様即ち定朝様を確立した平等院像や三千院の三尊像など多く造像された、12世紀後半になると定朝様式から脱皮した運慶による淨楽寺の三尊像や快慶による浄土寺像等が秀作と言えよう。
天台宗に於いて円仁の五台山念仏を加味した浄土信仰の色彩の強い不断念仏が栄えた、定行三昧法に必要な阿弥陀堂の中で上品上生の像、更に鎌倉時代にはいろいろな来迎絵など佛教美術的にも大きな貢献をしており国宝・重文指定の文化財は最高の数にのぼる。
源信は往生要集に於いて現世を回避し来世に往生する方法として阿弥陀如来を念仏する臨終の作法を説いた。
中でも最重視したのは阿弥陀如来を観想する法と臨終の時に来迎を念ずる法を説いた、因みに観想方法には「
源信の登場以後浄土信仰は貴族社会に深く滲透して定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる、阿弥陀堂からは迎講即ち阿弥陀来迎図が誕生する、主たる堂宇は平等院鳳凰堂 ・法界寺阿弥陀堂 ・白水阿弥陀堂 ・浄土寺や巨大な仏壇・中尊寺金色堂等がある、これらの阿弥陀如来の印相は定印が結ばれている。
阿弥陀信仰は法然の専修念仏により大衆にも受け入れ可能となり広く信仰される、本尊が毘盧遮那佛や十一面観音の寺に於いても南無阿弥陀仏を称え合掌する人々を多く見かける。
念仏イコール南無阿弥陀仏となる原因として阿弥陀如来は薬師如来等のように秘仏にならず,あらゆる人々の前に姿を現し臨終の際に極楽浄土への来迎を約束するのも大きな要因であろう、但し秘仏とされる意味合いが不明であるが善光寺などは絶対秘仏(注15)であり奈良・称名寺の
鎌倉時代以降多く造像された善光寺の阿弥陀三尊像すなわち善光寺式三尊像が著名であるが、我が国に二百組以上存在する様である、代表例を挙げると * 甲府善光寺、 * 向徳寺(埼玉県嵐山町)、 * 鎌倉市円覚寺、安国寺(広島県福山市)、* 福島県いわき市等が挙げられる。
阿弥陀信仰の広がりは平安時代に編まれた「
ここで脱線するが、秘仏に付いて一言、秘仏を所持する寺院は真言宗、天台宗系が多く浄土宗(真宗を含む)、禅宗系には少ないと言われている、秘仏は密教系に多く如来では薬師如来があり、菩薩では観音菩薩群が多く、明王や天群は全般に秘仏が多い、中でも真言宗に偏り象頭で抱擁しあう聖天(歓喜天)は大方が秘仏である。
因みに南無阿弥陀仏の南無とは梵語のナマス(namas)orナモー(namo)の音訳で帰依します、敬礼、お任せします、等と訳せる。
「観無量寿経」に拠れば百千万億の夜、摩天の閻浮檀金色の如く、身の丈六十万億那由他恒河紗由旬、仏眼は四天海水の如く--、光明は普く十方世界を照らし‐‐‐等など説かれている。 恒河紗=ガンジス河の砂の数 那由他=千億、数の単位 由旬=距離の単位 約四十里
阿弥陀如来の印相(ムドラー mudrā)や坐像立像の違いは時代や信仰形態の変化により変わり施無畏与願・転法輪・(説法印)、九品往生論が成立して・定印・来迎印がある、説法印像は天平時代以前に多く焼失した法隆寺の壁画も説法印である、定印(上品上生)は藤原時代から鎌倉前期に多い、そして来迎印像は鎌倉時代中期以後になる、因みに上品上生印を最高の往生を占めすと言い「力端印」とも言う。
梅原猛氏は「阿弥陀像は、奈良時代では主として説法(転法輪印)
時代と共に信仰された如来には変遷がある、日本に於いては主に釈迦如来が請来されてから薬師如来に移り阿弥陀如来となるが、中国に於いては北魏の時代に釈迦の後継者と考えられた弥勒が信仰を集めたが唐の時代に阿弥陀信仰に移る、弥勒信仰は各地で阿弥陀信仰に時の経過と共に凌駕される、原因として釈迦は自土仏であり、弥勒も実在した可能性があり下生して自土仏となる、自土仏の場合元来は普通の人間であり他土仏(阿弥陀・観音)よりも荘厳さを体感しにくい為との説がある、また釈迦は理智・哲学の仏で馴染み難くサルベージ理解が難解なのに対して弥勒は中間にあり、阿弥陀や薬師は御利益の仏で救済がダイレクトである、また弥勒の場合は長い時間軸にあり待てる余裕はないが、阿弥陀如来は空間軸にある為に来迎にはワープ(warp)するのか、時間と距離を超越してリアルタイムに現れる為であろう、阿弥陀如来の場合は奈良時代頃から浄土に於いて説法していたが、平安時代頃に観想するに適した定印を結ぶ姿になる、これに付いて和歌山県立博物館長・伊東史朗氏は金剛界曼荼羅の五智如来(五智如来は阿閦如来の注2参照)の無量寿如来からの影響を指摘されている、鎌倉時代には浄土信仰の興隆に合わせ来迎印を結ぶ、さらに立像になり来迎はスピードアップするが、後に阿弥陀信仰は尊像の重要視が薄れて六字名号や十字名号の時代になる。
末法時代が到来すると信じられた平安前期より鎌倉時代にかけて貴族たちにより阿弥陀の造像は盛んに行われた、この時代信仰面に於いても美術関連に於いても阿弥陀如来を除外して語る事は出来ない、現在国宝等に指定されている仏像はこの時代のものが阿弥陀を中心に多くを占める、これは源信・法然・親鸞・一遍等の念仏・浄土教の流れと一致する、すなわち平安時代までは観無量寿経の観想(観佛)をベースに造像されるが法然・親鸞以降は立像で来迎印が主体を占めている。
大無量寿経の三輩九品往生段(注24)に於ける九品印は観無量寿経の14~16観からとられたと思惟される、この印形は近世に日本で作られたもので形態化すべきではないとする説がある。
ただ平安時代中・後期には九品印(特に上品上生と来迎印)の阿弥陀如来は多く製作された、この時代の仏像・佛画は阿弥陀如来関連を除いて語る事は出来ない、阿弥陀如来も密教に取り込まれると大日如来の眷属的な地位の格下げされて印象も定印となる。
観無量寿経にある阿弥陀九品来迎院の内で上品とは大乗に値遇するゆ為に遇大と言い、上輩生想と言われる、中品とは小乗に値遇する為に遇小と言い、中輩生想と言われる。、下品とは一生に悪を造作し無間の非法の為に遇悪と言い、下輩生想と言われる、因みに巷間に於いて上品とか品が好いと言われるのは九品来迎院から採られたタームである、後に密教が如来無量寿すなわち阿弥陀如来を取り込に「禅定印」を結ぶ、また平安後期になると来迎印を結ぶ事が多くなる。
阿弥陀像の異型として宝冠阿弥陀如来は密教的な色彩を持ち紅玻璃色阿弥陀と呼ばれる絵画や前述の五劫思惟阿弥陀(東大寺)、宝冠阿弥陀如来に耕三寺(広島・快慶作)一乗寺・伊豆山浜生活協同組合(静岡)などがある、五劫思惟像は全国に十尊程存在し東大寺・勧学院、東大寺末の思惟山、五劫院などが知られている、この二尊には作風の相違が観られるが浄土五祖の第三祖善導作で俊乗房重源に依る請来との伝承がある。
また脇持に観無量寿経をもとにした観音菩薩・勢至菩薩を脇持とするが、他に地蔵菩薩・竜樹菩薩を加えて阿弥陀五佛や来迎を目的として25菩薩を従えた仏画も存在する。
稀有な例として即成院(泉湧寺塔頭)では阿弥陀如来坐像が彫刻で二五菩薩を従えている、二五菩薩を眷属とする聖衆来迎図の源流に「阿弥陀五〇菩薩」があり敦煌千仏洞の壁画がこれに相当する。
阿弥陀三尊像に付いて山折哲雄著”法然と親鸞”(中央公論社)から引用する、法然の幼名勢至丸と華頂山の勢至堂の関連から勢至菩薩の生まれ変わりと観る、弟子の親鸞には恵信尼の夢を観音菩薩として「観音、勢至の二菩薩が揃踏みをして、阿弥陀如来の両脇をかためる、------法然像と親鸞像を軸とする阿弥陀三尊信仰の誕生---」との記述がある。
著名な阿弥陀三尊像に *法隆寺(伝橘夫人念持仏) 阿弥陀坐像・観音勢至立像 飛鳥時代 *三千院(往生極楽院阿弥陀堂) 阿弥陀坐像・観音勢至跪坐 平安時代 *仁和寺(金堂) 阿弥陀坐像・観音勢至立像 平安時代 *清凉寺(霊宝館) 三尊坐像 平安時代 *中尊寺(金色堂)阿弥陀坐像・観音勢至立像 平安時代 *浄土寺(浄土堂)三尊共立像 鎌倉時代。
阿弥陀三尊に於ける脇侍の逆配置(右観音菩薩、左勢至菩薩)は仁和寺、浄土寺など密教寺院に存在する様で「阿唎多羅陀羅尼阿嚕力経」「観自在最勝心明経第九品」などの「密教系経典には右観自在・左大勢至とす」云々の記述がある。
その他逆手来迎印を結ぶ像は少ないが、浄土寺の他に京都の「清浄華院」の国宝の絵画(絹本著色 三幅・四明普悦筆の銘)、唐招提寺」、「聖衆来迎寺」、「悲田院」(泉涌寺塔頭)、「東京国立博物館」にある。
現在我が国に1997年現在国宝十八尊(浄瑠璃寺の八尊含む)を含む三百五十一尊の重要文化財指定の尊像が存在する、日本に存在する重文指定以上の如来像では阿弥陀如来が一番多く、仏教の祖である釈迦如来に対して国宝で二倍以上、重文指定で三倍に近い、因みに最古の阿弥陀像は東京国立博物館にあり山田殿と刻まれた法隆寺献納仏である三尊像である、因みにインドに於いて阿弥陀像と確定されるのは僅一尊である。
国宝重要文化財の中に於ける阿弥陀如来像の分布に於いては滋賀県65尊 ・奈良県53尊 ・京都府51尊と続く。
また梅原氏の指摘される阿弥陀の信仰による変化について重文以上の像に於いては平安時代に造像された坐像は73.5%に対して鎌倉時代の坐像は20%である、立像については鎌倉時代の作が73%に対して平安時代は20%であり浄土に対する信仰上の変遷により、坐像から立像に変化し死者を極楽浄土へ来迎する姿が多くなる。
また絵画に於いて阿弥陀如来は観無量寿経をベースに描かれており関連指定作品は多く存在する、 国宝に和歌山・蓮華三昧院(高野山) ・阿弥陀三尊像 和歌山 ・有志八幡康十八箇院(高野山霊宝館)と知恩院の二五菩薩来迎図 ・京都国立博物館に山越阿弥陀図 ・禅林寺の山越阿弥陀図 ・法華寺の阿弥陀三尊童子像があり、その他50点にも及ぶ重要文化財指定がある,現在の寺院に於いて阿弥陀如来は極楽浄土へ来迎に引接(注18)されると言う信仰から、薬師如来等と異なり不可視的シチュエーション(situation)に置き呪を演出した秘仏扱いは稀で多く開放されており例外を除き自由に拝観できる処が多い、因みに秘仏は密教系寺院に多く存在する、稀有なケースに三尊像の間に声聞像二尊を置かれた押し出し像が東博にある、また東博や奈良市西紀寺町の璉城寺には阿弥陀如来像で鎌倉時代の裸形像の本尊が置かれている。
浄土宗七大本山の一寺である京都市の清浄華院に中国天台の浄土思想を代表する絹本著色阿弥陀三尊画が国宝に指定された、普悦の筆になる傑作で逆手来迎印(注19)を結ぶ。
阿弥陀如来に従う二五菩薩は恵心僧都の「往生要集」に記述されており ・観音菩薩 ・勢至菩薩 ・薬王菩薩 ・薬上菩薩 ・普賢菩薩 ・法自在王菩薩 ・獅子吼菩薩 ・陀羅尼(総持)菩薩 ・虚空蔵菩薩 ・徳蔵菩薩 ・宝蔵菩薩 ・金剛蔵菩薩 ・金蔵菩薩 ・光明王菩薩 ・山海慧菩薩 ・華厳王菩薩 ・衆宝王菩薩 ・月光王菩薩 ・日照王菩薩 ・三昧王菩薩 ・定自在王菩薩 ・大自在王菩薩 ・白象王菩薩 ・大威徳王菩薩 ・無遍身菩薩 を言う、これらは絵画で占められるが彫刻像は御寺泉涌寺の山内塔頭の即成院(京都市東山区泉湧寺山内町)に安置されている。
阿弥陀五佛と言う呼称がある、金胎房覚禅(1143~?年)の「覚禅鈔」に阿弥陀法下「五尊曼荼羅」と言う書がある、唐に法照流五会念仏の常行三昧法から採られたとされる、阿弥陀如来に観音・勢至・地蔵・龍樹の四菩薩で尊構成されている、他に唐伝記から引用した「阿弥陀五十二菩薩像」は敦煌千仏堂で見られるが、日本に於ける阿弥陀二十五菩薩の原型と言われている。
阿弥陀如来信仰の普及は佛教本来の教義を根幹から変更しキリスト教的な宗教に変えた、佛教は本来修業等により覚りを開き釈迦如来の領域まで到達を目指す宗教であった、これは初期教団内に於ける呼称で証明できよう、田上太秀氏に拠れば釈迦も高弟たちに阿羅漢 (アルハット arhat)と呼ばれたとされ、また釈迦も弟子の内でも優れた人には阿羅漢と呼んだという、また優れた弟子達には仏陀(buddha)とも呼んだと言われる(仏像散策・東京書籍)。
阿弥陀信仰の他力本願により主従関係が固定されキリスト教的に変わる、キリスト教に限らず一神教に於いては如何に善行を重ね覚りに至ろうが、聖人にまでは到達する事が出来ても主との主従関係は絶対不変である。
立川武蔵氏は大日如来、阿弥陀如来等の大乗仏はペルソナ(persona)即ち人格を備えていると言う、因みにペルソナはキリスト教の三位一体の尊格に通じるとされる。
日本では「お念仏」を唱えると言えば漢訳の「南無阿弥陀仏」である、冒頭でも記述したが語源は梵語のnamo
amitāyus及びnamo amitābhaにあたる、namo(南無)は帰依するでāyusやābhaは寿命・光にあたりaは否定詞である、南無も宗派により「なむ」「なも」と発音が違う、臨済宗で「なむあみだぶつ」とは聞こえないが「なむおみとうふう」即ち南無阿弥陀仏である、多くの老若男女がお参りにきた寺で本尊が大日如来でも毘盧遮那仏や観音菩薩の寺でも南無阿弥陀仏と唱えられている。
密教は阿弥陀如来も両部曼荼羅に取り込んでいる、但し西方浄土の教主ではなく妙観察智を担当して大日如来の眷属的な扱いである、呼称も無量寿如来・阿弥陀如来が無造作に使用されている、両部に於ける主な相違は胎蔵曼荼羅では通肩であり金剛界では偏袒右肩である、因みに妙観察智とは総てを正しく観る智慧と言える。
浄土真宗では本尊は阿弥陀如来であるが仏像や絵画は重要ではない、墨筆で阿弥陀の名前を
1,高岡大仏 阿弥陀如来15.85m(1907年)富山県高岡市大手町11-2 2,勢山社 安祥院
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主な阿弥陀如来 表内は国宝 ●印国指定重文 報身佛
寺 名 |
仕 様 |
時 代 |
法隆寺(橘夫人念持佛) |
銅像 三尊(施無畏・与願印)中尊33,3cm |
白鳳時代 |
坐像 木造漆箔 三尊像 中尊90,0cm |
平安時代 |
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立像 木造漆箔 三尊像 中尊178,2cm |
藤原時代 |
|
浄瑠璃寺(九尊) |
坐像 木造寄木造 中尊来迎印 224,5 脇持定印 140平均 |
藤原時代 |
平等院(鳳凰堂) |
坐像 木造寄木造 283,9cm |
藤原時代 |
坐像 木造寄木造 280,0cm |
藤原時代 |
|
高徳院清浄泉寺(鎌倉大仏) |
坐像 銅像 1138,7cm 121t |
鎌倉時代 |
広隆寺(講堂) |
坐像 木造漆箔 263,6cm |
平安時代 |
浄土寺(兵庫県) |
木造 立像 三尊 中尊530cm 脇持371cm 観音右、勢至左の逆配置 逆手来迎印 |
鎌倉時代 |
坐像 木造 三尊 |
藤原時代 |
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臼杵市 |
磨崖佛 |
平安時代 |
三尊像 中尊64,7cm 脇侍68、0cm |
平安時代 |
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三尊像 中尊48.9cm 脇侍73.0cm |
平安時代 |
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清浄華院(京都市) |
絹本著色 三幅 2012年4月20日内定
四明普悦筆の銘 逆手来迎印 |
南宋時代 |
禅林寺 |
山越阿弥陀図 絹本著色 |
鎌倉時代 |
知恩院 |
阿弥陀二十五菩薩来迎図 絹本著色 |
鎌倉時代 |
京都国立博物館 |
山越阿弥陀図 絹本著色 |
鎌倉時代 |
願成就院 |
木造漆箔 142.0cm 運慶作 2013年2月27日答申 |
鎌倉時代 |
●大行寺 木造 漆箔 粉 溜
82.1㎝ 鎌倉時代 快慶作 京都市下京区仏光寺通高倉東入西前町380
●達身寺 木造漆箔 227.1㎝ 藤原時代 木彫仏の原郷 兵庫県丹波市清住259
●興福寺(国宝舘)坐像 木造彩色 玉眼 225,7cm 鎌倉時代
●東大寺(観学院) 五劫思惟 坐像 木造漆箔 106,0cm 室町時代
●東大寺(俊乗堂) 阿弥陀如来 立像 木造金泥 玉眼 98,7cm 鎌倉時代 快慶作
●東大寺 木造漆箔 106,0cm 平安時代 (五劫思惟弥陀 ・五月十日観学院開扉)
●五劫院 五劫思惟像 木造 漆箔 長髪 124.2㎝ 鎌倉時代 8月1日?17日開扉 五劫院 ℡ 0742-22-7694
●元興寺(極楽坊)坐像 木造漆箔 160,5cm 藤原時代
●喜光寺 坐像 木造漆箔 223,0cm 藤原時代 (奈良市菅原町508) 薬師寺別格本山
●広隆寺(霊宝舘)立像 木造漆箔 132,7cm 藤原時代
●長岳寺(天理市・初の玉眼嵌入)坐像木造 三尊 143,0cm 鎌倉時代
●浄土寺(兵庫))立像 木造漆箔 266,5cm 鎌倉時代 快慶作
●金剛峯寺 木造漆箔 88,9cm 平安時代
●歓喜寺 坐像 木造彩色 68.9cm 室町時代
●大泰寺 坐像 木造漆箔 105.5cm 平安時代
●願成就院 坐像 漆箔 142,0cm 鎌倉時代 運慶作 (静岡県伊豆の国市寺家83-1)
●浄楽寺(横須賀市芦名3‐30‐5)坐像 三尊 木造寄木造 141,8cm 鎌倉時代 運慶作
●円覚寺 坐像 三尊 銅像渡金 42,4cm 観音32,8cm 勢至33,3cm 鎌倉時代
●戒光寺(京都) 立像 木像 彩色 玉眼 542.4cm 鎌倉時代
●四天王寺 坐像 木造 三尊 49,8cm 藤原時代
●観世音寺(福岡県筑紫郡大宰府町)木造漆箔 坐像
●遺迎院 坐像 木造切金文様 玉眼 98.9cm 鎌倉時代 釈迦如来と共に快慶作 (京都市北区鷹ヶ峯光悦町9)
●月輪寺(右京区嵯峨)坐像 木造漆箔 168,8cm 平安時代
●阿弥陀寺(京都) 木造漆箔 70,6cm 藤原時代
●真正極楽寺(真如堂) 木造 漆箔 108.4cm 藤原時代 康尚作の可能性(定朝の父) (京都市左京区極楽寺真如町)
●当麻寺(本堂)伝紅玻璃阿弥陀(ぐはり)坐像 木造漆箔 104,0cm 藤原時代
●知恩院 立像 木造粉溜 98,2cm 藤原時代
●称名寺 坐像 木造漆箔 85,9cm 藤原時代
●法隆寺 坐像 銅像 鍍金 64.6cm 鎌倉時代
●法隆寺(夢殿) 木造漆箔 34,2cm 平安時代
●法隆寺(伝法堂) 三尊 脱乾漆 119,0cm 159,0cm 157,1cm 奈良時代 ●木心乾湿像 三尊 120,2cm 157,3cm 169、0cm 二組
●法隆寺(三経院) 木造漆箔 79.9cm 藤原時代
●法隆寺 三尊 木心乾漆 勢至 118,8cm 阿弥陀如来坐像 87,7cm 観音 127,3cm 奈良時代
●吉田寺 坐像 木造漆箔 225.8cm 藤原時代 奈良県生駒郡斑鳩町小吉田147
●醍醐寺 木造漆箔 86,4cm平安時代
●医王寺 木造彩色玉眼 70.9㎝ 尭円作 鎌倉時代 (京都府綾部市梅迫内谷)
●大悲願寺 木造漆箔 阿弥陀如来 89,4cm 脇持、千手観音54,8cm, 勢至菩薩60,6cm 鎌倉時代 (東京都あきる野市横沢 134)
●延暦寺 立像 木造金泥 玉眼 97,4cm 鎌倉時代
●富貴寺(大分)木造彩色 85,3cm 平安時代
●白毫寺 坐像 木造漆箔 136,3cm 藤原時代
●円成寺 坐像 木造漆箔 141,0cm 藤原時代
●当麻寺(三尊)坐像 木造漆箔 220,5cm 86,2cm 104,0cm 藤原時代
●西大寺 坐像 木造漆箔 平安時代
●二尊院 立像 木造漆箔 78,8cm 鎌倉時代
●慈恩寺(亀山市) 木造漆箔 161,2cm 平安時代
●随身院(京都)木造漆箔 86,1cm 平安時代
●月輪寺 木造漆箔 87,6cm 平安時代
●考恩寺(大阪)木造漆箔 138.8cm 平安時代
●法金剛院(花園扇野町) 坐像 木造漆箔 224.0cm 藤原時代
●醍醐寺 二尊 坐像 木造漆箔・銅像鍍金 藤原時代
●岩船寺 坐像 木造漆箔彩色 284,5cm 藤原時代
●禅林寺(永観堂)・みかえり阿弥陀如来 木造 77.0cm 鎌倉時代
●即成院 木造 漆箔 彩色 223.6cm 藤原時代 25菩薩を79.1cm~96.7cmを従える、 但し15尊は江戸時代の補作
●松尾寺 木造漆箔 玉眼 89.3cm 鎌倉時代 快慶作 京都府舞鶴市字松尾532 西国三十三所29番札所
●光林寺 立像 木造漆箔 81.8cm 鎌倉時代 快慶作 (奈良県葛城市疋田392-1)
●太山寺 坐像 木造金泥 漆箔 275.1cm 鎌倉時代 (兵庫県神戸市西区伊川谷町前開224)
●蓮光院初馬寺 坐像 木造古色 84.8cm 平安時代 真言宗御室派 (三重県津市栄町3-4)
●五劫院 木造漆箔 124,2cm 鎌倉時代 (五劫思惟弥陀) (奈良県奈良市北御門町24)
●西方院 立像 木造漆箔 約100cm 鎌倉時代 快慶作 (奈良市五条町424) 唐招提寺の塔頭
●専修寺 坐像 漆箔玉眼 87.5cm 鎌倉時代 (大阪市此花区西島町6-63)
●浄瑠璃寺(滋賀) 銀造 7.6cm 鎌倉時代
●西来寺(滋賀県八幡市千僧供町3991) 木造漆箔 玉眼 97.5cm 藤原時代 天台真盛宗
●仏性寺(滋賀県野洲郡中主町乙窪191) 木造漆箔 281.5cm 藤原時代 天台真盛宗
●西教寺(滋賀県大津市坂本町3210) 木造漆箔 278.8cm 藤原時代 天台
●浄厳院(滋賀県近江八幡市安土町慈恩寺744) 木造漆箔 273.5cm 藤原時代 他に 阿弥陀聖衆来迎図 絹本著色
●願興寺(岐阜) 木造 164.2cm 藤原時代
●願興寺(岐阜) 木造漆箔 玉眼 82.5cm 鎌倉時代
●中尊寺 三尊像 木造漆箔 彩色 中央壇 阿弥陀62,3cm 脇侍74,2cm
●中尊寺・坐像 金色堂 三尊 267,9cm 平安時代
●証菩提寺 三尊 木造漆箔 中尊112.5cm 脇侍105.0cm位 鎌倉時代 (横浜市戸塚区上郷町1864)
●浄楽寺(横須賀市芦名2433) 三尊 木造漆箔 中尊141.8cm 脇侍178.0cm位 運慶作 鎌倉時代
●浄光明寺(鎌倉市扇ヶ谷2-12-1) 三尊 木造漆箔玉眼 中尊141.4cm 脇侍約106.0cm 鎌倉時代
●興福院 三尊 木心乾漆 阿弥陀89.1cm 坐像 ・脇侍75.4cm・76.1cm 半跏像 天平時代 (奈良市法蓮佐保町)
●善明寺(東京都府中市本町) 鉄造 174、0cm 98,0cm 鉄造最大の阿弥陀
●泉福寺(埼玉県桶川市大字川田谷2012) 木造漆箔 88.8㎝ 鎌倉時代
●等覚院(埼玉県東松山市大字古凍536-1) 木造漆箔 87.6㎝ 藤原時代
●八幡神社(東京都府中市白糸台1-1) 銅造 47、0cm 鎌倉時代
●八幡神社(東日野市百草867) 銅造 39.4cm 鎌倉時代
●大悲願寺(東京都西多摩郡五日市市横沢134) 木造漆箔 中尊89.4cm 千手54.8cm(定朝様) 勢至 60.6cm 鎌倉時代
●等覚院(埼玉県東松山市大字古凍536-1) 木造漆箔 87.6cm 平安時代
●泉福寺(埼玉県桶川市大字川田谷2012 東叡山勅願院) 木造漆箔 89.3cm 檜割矧造り 鎌倉時代(1262年 弘長2年)
●善明寺(滋賀県愛知郡湖東町横溝1659) 木造古色 277.2cm 平安時代
●善明寺(滋賀県愛知郡湖東町横溝1659) 木造彩色 133.2cm 平安時代 快俊作
●石馬寺(滋賀県神崎郡五個荘町石馬寺823) 木造漆箔 274.0cm 平安時代
●専修寺 立像 木造 著色切金文様 仏足文 約80,0cm 鎌倉時代 (三重県津市一身田町2819番地) 2008年指定 伝快慶作
●真木大堂 木造漆箔彩色 211.0㎝ 平安時代 (大分県豊後高田市田染真木1796)
●甲斐善光寺 三尊像三組 (銅像・中尊147.2 観音95.5勢至95.1、鎌倉時代)(木造・中尊140.6 観音139.1勢至139.7、藤原時代)(木造・中尊138.8 観音156.3勢至153.0、藤原時代) (甲府市善光寺町3-36-1)
●東壽院 木造漆箔玉眼 97.0cm 鎌倉時代 快慶作 (岡山県瀬戸内市牛窓千手)
●大日寺 木造漆箔 112.1cm 桧寄木造 体内に1226年の銘文 鎌倉時代 (鳥取県倉吉市桜354)
●安楽壽院 木造漆箔 87.6cm 藤原時代 京都市伏見区竹田内畑町
●安楽壽院 阿弥陀二十五菩薩来迎図(阿弥陀聖衆来迎図)
●大圓寺 坐像 木造 漆箔 玉眼 233.2cm 鎌倉時代 津軽の代表仏 (青森県南津軽群大鰐町)
●円福寺 坐像 桂一木造 漆箔 86.5cm 鎌倉時代
(新潟県魚沼市佐梨433)
●東観音寺 木造漆箔 138.5cm 平安時代 (豊橋市小松原町字坪尻14)
●勝久寺 坐像 木造漆箔 85.8cm 鎌倉時代 天台真盛宗 (三重県津市一身田町)
●弥勒寺 立像 木造170.5cm 平安時代 (三重県名張市西田原2888)
●蓮光院 木造古色 84.8㎝ 鎌倉時代 (三重県津市栄町3-4)
●願成寺 木造漆伯 玉眼 三尊坐像 中尊240.9cm 観音125.7㎝ 勢至133.0㎝ 鎌倉時代 会津大仏 脇侍は大和座り (喜多方市上三宮)
●願成寺 木造漆伯 三尊 中尊146.0cm 観音、勢至171.㎝ 133.0㎝ 藤原時代 (韮崎市神山町鍋)
●壇王法林寺(京都市左京区川端通三条上る法林寺門前町36 ) 熊野権現影向図 絹本著色 H114.0:w51.5㎝ 鎌倉時代
●正念寺 絹本著色 H85.1cm:w40.cm 截金彩色 室町時代 (神奈川相模原市緑区名倉3967)
●乗蓮寺 木造金泥 玉眼 77.9㎝ 鎌倉時代 (三条市東裏館1-14-3)
大御堂寺 立像 79.0cm 製作年代不詳 親鸞の委託により快慶作の可能性 (愛知県美浜町野間東畑50)
法光寺 木造128.7cm 鎌倉時代 東大寺南大門仁王像吽形像と同所材使用 (山口県徳地町)
●長安寺 木造漆箔 86.7㎝ 藤原時代 (新潟県佐渡市久知河内)
●無量寺 木造古色 130.3㎝ 鎌倉時代 (久留米資本k町83)
●専念寺 木造漆箔 玉眼 97.0㎝㎝ 鎌倉時代 (久留米草野町草野258)
●観世音寺 木造漆箔 玉眼 219.7㎝ 鎌倉時代 (福岡県太宰府市観世音寺5丁目6−1)
●観世音寺 木造漆箔 古色 167.3㎝ 藤原時代 (福岡県太宰府市観世音寺5丁目6−1)
●金剛頂寺 木造坐像 88.0㎝ 平安時代 (高知県室戸市室戸町元乙523) 四国八十八か所26番札所 等々
●安楽寺 木造漆箔 玉眼 坐像 68.6㎝ 鎌倉時代 説法印 菅原道真の菩提寺 (高知市堂ヶ島町5-3)
●豊楽寺 木造古色 131.5 ㎝ 藤原時代 檜一木造 (高知県長岡郡大豊町寺内314)
●保安寺 木造漆箔 阿弥陀139.1 ㎝ 観音82.4㎝ 勢至79.7㎝ 藤原時代 (愛媛県八幡浜市五反田)
●大寶寺 木造漆箔 68.5 ㎝ 藤原時代 (愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生2-1173-2)
●大寶寺 木造漆箔 135.7 ㎝ 藤原時代 (愛媛県松山南江戸町)長期間薬師如来 として信仰されていた。
●明導寺 城泉寺 檜寄木造漆箔 玉眼 中尊87.3㎝ 観音勢至105.0㎝ (熊本県球磨郡湯前町)
●海徳寺(大浜大仏 浄土宗西山深草派)檜寄木造 278.0cm 平安時代 伊勢神宮寺本尊を廃仏毀釈の時に移転 愛知県碧南市音羽町1-60
●真言律宗元興寺 坐像 木造 彫眼漆箔 157.1cm 平安時代
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●本山慈恩寺 木造 漆箔 52.1cm 藤原時代 (山形県
●善光寺 両脇侍 銅像鍍金 中尊 42.4cm 観音 30.5cm 勢至 30.2cm 一光三尊形式 鎌倉時代 鎌倉時代
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moa美術館 木造漆箔 中尊86.3cm 脇侍 55cm 藤原時代 (静岡県熱海市桃山町26-1)
●新光明寺 立像 99.5cm 鎌倉時代 (静岡市伝馬町11-3)
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●長谷寺 木造 古色 86.5cm 藤原時代 (静岡県下田市田牛156)
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●高蔵寺 木造 漆箔 280.3cm (宮城県角田市高倉字寺前)
●観音寺 木像 41.8cm 藤原時代 (宮城県気仙沼市本町1-4-16)
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●勝行寺 木造 漆箔 玉眼 187.9cm 鎌倉時代 (岩手県花巻市鍛治町64)
●等覚院 木造 漆箔 87.6cm 藤原時代 (埼玉県東松山市大字古凍5361)
●泉福寺 木造 漆箔 88.8cm 鎌倉時代 (埼玉県桶川市大字川田谷2012)
●鳥居観音 木造 漆箔 198.0cm 藤原時代 (埼玉県入間郡名栗村大字上名栗3198)
●泉福寺 木造漆箔 中尊84.3cm 脇侍107cm (埼玉県比企郡滑川村大字和泉1681)
●向源寺 銅像 鍍金 中尊47.3cm 脇侍33cm 鎌倉時代 (埼玉県比企郡嵐山町大蔵635)
●光明寺 銅像 金泥塗 48.5cm 鎌倉時代 (埼玉県児玉郡上川村大字新里1828)
●西光寺 木造 漆箔 中尊91.5cm 脇侍 104.0cm (埼玉県南埼玉郡宮代町大字東410)
* 阿弥陀如来に従う”聖衆来迎”する二十五尊の菩薩名・観音菩薩 ・勢至菩薩 ・地蔵菩薩(衆宝王菩薩) ・普賢菩薩 ・虚空蔵菩薩 ・薬王菩薩 ・薬上菩薩 ・法自在王菩薩 ・獅子吼菩薩 ・柁羅尼菩薩 ・徳蔵菩薩 ・宝蔵菩薩 ・金蔵菩薩 ・金剛蔵菩薩 ・山海慧菩薩 ・光明王菩薩 ・華厳王菩薩 ・月光王菩薩 ・日光王菩薩(日照王菩薩) ・三昧王菩薩 ・定自在王菩薩 ・大自在王菩薩 ・白象王菩薩 ・大威徳王菩薩 ・無辺身菩薩 の25菩薩であるが、呼称に差異がある
* 聖衆来迎とは浄土の菩阿弥陀如来と共にに臨終を迎える死者を迎えに来る事を言う。
*五劫思惟の阿弥陀像を安置する寺院は五劫院(奈良) 十輪院(奈良) 大蓮寺(京都) 西向寺(京都) 道成寺(和歌山) 淨真寺(東京)等である。
鎌倉大仏に付いて1896年(明治29年)に英国籍から日本国籍を取得したラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)即ち小泉八雲は「東洋的微笑」と評した。
*鎌倉大仏に付いて1896年(明治29年)に英国籍から日本国籍を取得したラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)即ち小泉八雲は「東洋的微笑」と評した。