阿修羅(あしゅら)

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インド神話に於ける戦闘の鬼神である、帝釈天を棟領とするーヴァ軍団(Deva)に敵対し軍勢を率いて戦いを挑み敗れている、梵語のアスラ (asura) の音訳とされ、阿素洛王との記述もある、インドではアスラが悪神を意味し帝釈天(インドラ・śakro devānām indraindraと阿修羅の闘争はインド文学のテーマとなった事が多い、仏教では悪神が釈尊の説法を聞いて仏門に帰依したとされる。
阿修羅の発生は古くBC数千年以上に到る、ペルシャの拝火教(ゾロアスター・注1に於いてはアフラ・マズダーすなわち主神である、密教の最高神である大日如来と出自が同じか若しくは発展形ともされている、しかしインドに渡りデーヴァ神(注3の善に対して悪神の代表として顕わされている、帝釈天と戦った鬼神とも言われており、敗れて死ぬが必ず蘇り戦闘を継続しているとも言われる、インドの聖典リグベーダには特に悪神に扱われていない、六趣の中間に位置する様で茫洋として不詳な箇所が多く、輪廻の転生先から外れる事もあるとされる。

梵語・asuraの音訳で意訳は「非天」とされ阿素羅・阿須羅・阿素洛などの文字も充てられる事がある、梵語に於ける頭文字のAはインドに於いては否定詞である事から悪神にされたたとも言う、一例を挙げれば不動明王に於いてはAcalanātha(アチャラナータ)の意訳であるがAは比定詞でcalaを動きと訳される。   

中国に於いてはシルクロードの西玄関口、即ち漢字文化圏の西端である敦煌(とんこう)莫高窟(ばっこうくつ)の第249注5に存在し、日本では法隆寺五重塔の塑像が最も古く北面に涅槃釈迦像を囲んで十大弟子等と共に八部衆の一人、すなわち釈迦如来の拳属の一尊として六臂で第三臂を広げて存在している、次いで聖武天皇夫妻の願望による「金光明最勝王経・夢見金鼓懺悔品」も基に造像された興福寺の像が古く最も著名である、2009年の春東京国立博物館で行われた「国宝阿修羅展」には幅広い年代から九十五万人(一日平均一万五千人)近い拝観者を集めた程に人気である。
阿修羅像は釈迦涅槃図の中にも三面六臂で描かれるケースが多い、京都の三十三間堂二十八部衆の一尊の国宝像がある、また胎蔵界曼荼羅の最外院に二臂で描かれている。

六臂には合掌印・火や水の頗胝(はてい)(かぎ)刀杖(とうじょう)等を所持するとされるが定まってはいない、尚六道輪廻の内、天・人・阿修羅を三善道と言う。

阿修羅の形像は漢訳経典には種々姿形が記述されている、胎蔵界曼荼羅・外金剛部院には二臂像があり、赤色身で右手に剣,左手は拳の像が説かれる。また三面六臂で青黒色の記述もあるが現存する作品は義軌とは不一致が多い。

阿修羅の仏教に於ける地位は比較的低く日本にある尊像は、千手観音の眷族(二十八部衆)釈迦如来に従う八部衆興福寺に甘んじている、・天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道すなわち六道説に於いては三善道の後尾に位置している。 
阿修羅を扱った文芸作品は多くあり、「阿修羅の如く」向田邦子や宮沢賢治の「春と修羅」等などがあり、香川県の民謡には「コンピラふねふねシュラシュシュシュシュ」と歌われている、古くから重量物の輸送機具を修羅と呼ばれたと言う。  


日本人には広隆寺の菩薩半跏像宝冠弥勒と共に耽美の世界に浸ることが出来て最も人気の高い彫刻像に興福寺阿修羅像がある、2009年東京国立博物館で行われた「国宝阿修羅展」の入場者は九十五万人に近いとされる驚異的な人気であった。
懺悔鎮魂の殿堂と思惟される西円堂に安置されていた像である、阿修羅像には光明皇后安宿媛(あすかべひめ)がモデルではないかとの幻想にかられる、光明皇后と兄弟の家系
(注4すなわち光明子と藤原四家の願望が内包されているのかも知れない、阿修羅像の三顔の内右側には皇位継承権を持つ大津皇子・長屋王等のライバルを打倒する顔であり、左側は甥である広嗣の乱や四兄弟の天然痘による死等の重なる災害を見る苦悩の顔である、正面(真顔)は懺悔の経典・金光明最勝王経に縋り、悲田院や施薬院を設立して一門の安寧を願う姿と見るのは乱暴であろうか、阿修羅から発せられるオーラから常に人間の心が内包されている。
金子啓明氏は古来よりインドに於いては仏に敬意を示す儀礼として、仏を仰ぎ見ながら右周りに三回巡るとされる、左回りは禁止されている為に興福寺の阿修羅像の場合も右回りを想定した造像向かって右を若く、左は年長ににされている。
  
 

国宝 阿修羅像

蓮華王院 二十八部衆)  木造彩色 玉眼 切金文様 164.8  鎌倉時代

興福寺   (八部衆)    脱活乾漆   153,0            天平時代

法隆寺  五重塔北面   塑像                      天平時代 




1ゾロアスター教 とはユダヤ教キリスト教仏教に多大な影響を与えた教えである中国名を拝火教またの名を祆教(けんきょう)とも言う、 一神教の触媒的とも言える宗派で預言者ザラシュトラ(zarathu(v)tra)即ちギリシャ風呼称ではゾロアスターが受けた神託を嚆矢とする、但し一神教の先駆と言えるがアフラ・マズダーに従う七人の善神等々複数の神が存在する。
BC7
世紀頃~BC3世紀頃に現在のイランの東北部で発生し、サーサーン王朝が国教に認定しペルシャ文明の根幹を形成した宗教で世界最古に属する宗教と言える、経典は「アヴェスター(avest
ā)」であるがペルシャ文明は口伝であり記録を残したのは古代ギリシャ人とされる、またavestāの語意も不詳である、閑話休題ゾロアスター(ザラスシュトラ)のドイツ読みはツァラトゥストラ(zarathustra)と言う。
最高神・アフラ・マズダー(ahura-mazdāh アヴェスター語) の名からマズダー教・サルベージに善行を重視する事から善教・また松教とも言われ当寺のイランを席巻した、一神教信仰の嚆矢とも言える教義を持ち現在の世界三大宗教に儀礼や哲学に多大な影響を与えていたが、七世紀後半からイスラム教に席巻されたが、インドに亡命した人々により儀礼や儀式などヒンズー教に引き継がれた部分は多い。
善悪に二極化し善即ち光の神アフラ・マズダーと悪神アングラマイニュとを対比させて成立した。
善意・良心・道理を重要視した行動を示す、火を象徴として宗教儀礼に用いる事から拝火教とも呼ばれる、ただし祭祀や儀式で火は必ず燈るが礼拝の対象とはしていない、古代からユダヤ教、キリスト教に大きな影響を与え仏教に於いても阿弥陀信仰や不動明王等の火炎光背や、密教で重要視される護摩の火はゾロアスター教が源流とされる、またイスラム教シーア派にも影響があるとされる。
もう一つ世界宗教の源流と言えるものに前述した善悪・光闇を峻別したことにある、以前の神はギリシャ神話にもある様に善悪二面性を有していたがゾロアスター教以後の宗教は神と悪魔即ち善悪が分けられた。 
活動期はBC2000年紀ごろからBC76世紀など諸説があるが定かではない。11世紀初頭イラン高原で詠まれた挽歌「火を()がみし者と な言ひそ 聖き神崇めし 輩なりせば」(足利惇氏、詩訳 ・ゾロアスター教史・青木健著より)
現在新たな入信者の門を閉ざしておりインドボンベイを中心に世界(オセアニア・英国・ドイツ・シンガポール)に教団組織が見られるが定かではない、約17万人の信徒を持つ。


2ーヴア神  ヴエーダ聖典に於いて現世のご利益を与える神とされる、雷神すなわちインドラ(帝釈天)であり、聖天には多くの賛歌が詠われている。  

 

 


3 、興福寺阿修羅像の作者は将軍・万福の作とされるが万福の出自は不詳。 

4、 光明皇后の家系  藤原摂関家
(五摂家) 鎌足を祖とし不比等に引き継がれ長く朝廷を支配した一族で歴代天皇の外戚を続け日本史の中でも藤原時代の名称まで残し天皇家に次ぐ名門。
不比等の子供達の系列から凄惨な確執を繰り返した後10世紀(藤原時代)には光明皇后の兄弟で藤原武智(むち)麻呂(まろ)の南家に対して藤原房前(ふささき)の北家が覇権を持つ、当初は近衛家と九条家が覇権を競っていたが鎌倉時代に幕府の力で五摂家に別れる、近衛基実から・近衛家・鷹司(たかつかさ)家、 九条兼実(かねざね)から・九条家・二条家・一条家となり摂政関白を独占する、中でも近衛家が覇権を所持していたが頼朝追討宣旨で失脚し九条家と覇権を分け合う。
また藤原姓は橿原市高殿町付近の地名からともされる。
傍系に久我・醍醐・今出川・姉小路・山科・花山院・広幡・三条・西園寺・徳大寺・難波・飛鳥井・冷泉・坊城・日野・烏丸・大炊御門・中炊御門・観修寺等があり本来は全て藤原姓である。
五摂家による禁裏支配制度は後醍醐天皇の御世を除き明治維新まで継続した、1884年に華族令により廃止になり五摂家は華族筆頭として公爵位を授けられた。藤原不比等とは鎌足を父に宮廷歌人額田王と同一人とも言われる鏡王を母に持ち大宝律令・貨幣経済・成文法等を導入して藤原一門の千三百年にわたる栄華の礎を築く。

注5、
敦煌莫高窟  中国四大石窟に敦煌莫高窟、雲岡石窟、龍門石窟、麦積山石窟、があり、他にも大足石窟、キジル石窟(ウイグル)など中国に於ける広大な地域に存在している。



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200941日 2014年2月1日 2017年8月30日 2018年3月31日更新

 



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