毘盧遮(舎)那仏は奈良時代に於ける
梵語名すなわちsanskrit(サンスクリット)語のvairocana(バイローチャナ・光り輝く)の音訳で毘盧遮那であり、意訳を広く光を照らす事で「
毘盧遮那如来は大乗仏教に於ける典型的な如来である、釈迦如来は悟りを開いたが歴史上の人物である、大乗哲学が熟成と共に如来としては仮設な人物とされる、要するに根本佛は不滅な存在でなければ為らない、そこで崇拝儀礼として最後に登場したのが毘盧舎那であり密教では大日如来となる。
毘盧遮那は覚りをシンボライズした法身仏であり智慧と慈悲とを無辺に照射する如来とされる、但し三身を超越した姿、即ち大海の如く広い智慧
後述するが密教(Tantrism)(注8)では意訳すると、これに mahā=大、または
華厳経では廬舎那仏は宇宙に対して輝く象徴であり姿形は無い筈である、しかし現実には衆生に対して視覚作用に訴える必要があろう。
毘盧遮那の顕教像と密教像の相違として挙げれば顕教の場合は装飾を身に着けず釈尊と同じ施無畏・与願の印を結ぶ、毘盧遮那は菩薩形でも智拳印や法界定印を結び装飾品を着ける、2~3世紀頃に成立した華厳経に拠れば姿を現世に表す時は釈迦如来に変化して千の蓮華花弁に座すと言う、華厳思想は密教すなわち大日経・金剛頂経(両部の大経)に影響を与えているが密教の根本仏・大日如来の呼称に付いては金剛頂経に於いては全てに毘盧遮那と呼ばれており、大日経でも毘盧遮那が多く使われ大日如来の呼称は2~3回で多くは毘盧遮那が使用されている、即ち大日如来と毘盧遮那仏は同尊であり翻訳者は中国の善無畏たちであるが大日如来は空海以降の日本独自の呼称とも言える、梵語名はvairocanaであるが大日如来と訳したのは善無畏(637~735年)と弟子の一行(673~727年)である。
華厳経成立から時が経つにしたがい毘盧遮那は次第に影が薄くなるが、大日経すなわち「大毘盧遮那成佛神変加持経」による密教の成立で、一部は大日如来として再び脚光を浴びるようになる。
顕密を区別するもう一つの見解として金剛頂経に異説もあるが、顕教では華厳経に代表される「盧遮那仏」「盧舎那仏」が呼称され密教に於いては大日経の「摩訶毘盧遮那仏」「毘盧遮那仏」が多く使われる、また経典の漢訳からの相違との主張もある即ち華厳経に於ける・六十華厳(仏陀跋陀羅訳)では盧舎那仏 ・八十華厳(実叉難陀訳)では毘盧遮那仏(華厳経の本尊 法身仏) ・中期密教(行・瑜伽タントラ)では摩訶毘遮那仏(大日如来)が呼称されると言う、因みに日本には興隆しなかったが後期密教すなわち無常瑜伽タントラに於いては主尊の格を阿閦如来に譲り東尊の位置に移動している。
毘盧遮那仏の尊格に付いて武蔵野美術大学の
摩訶(大)毘盧遮那仏と毘盧遮那仏の区別に付いて大日経には毘盧遮那仏は経典の主であり曼荼羅の中核に座す如来(大日如来)であり、摩訶毘盧遮那仏とは曼荼羅全体を意味するとされる、almighty(オールマイティー)、即ち一切如来(sarva tathāgata)とも言われている。
また毘盧舎那仏の出自は古く拝火教(ゾロアスター教)の祖アフラ・マズダー到り非アーリア系とされ阿修羅王と同尊との説も言われアーリア系の帝釈天等とは対比される(雑阿含経)。
華厳経・梵網経の中に出てくる仏で無数に釈迦を発生させて説法すると言う、時代の要求に応じて釈迦以外にも仏が現れると言う哲学的思考から過去仏・賢劫の千仏(注2)・未来仏が発生した為姿形的には釈迦と同じ表現方法を採用したと思われる、閑話休題、梵網経の梵網とは大梵天王が救済に用いる網を意味する、(盧舎那仏説菩薩心地戒品第十)。
顕教に於ける三千大千世界即ち全宇宙に君臨する最高位の如来であり梵網経に拠れば100億の釈迦を顕し此処の国に於いて説法をしていると言う、脱線するが則天武后が毘盧遮那仏を好み龍門石窟に美しい像がある。
日本で現存する仏像は極めて少なく著名な像は「奈良の大仏」で親しまれる○東大寺大仏殿(752年開眼1962年再興)と○唐招提寺金堂と福岡県・観世音寺に隣接する●戒壇院と京都墨染の欣浄寺に現存するのみである。但し●東大寺 ●高山寺 ・園城寺などに鎌倉時代作の華厳経・大日如来の世界を咀嚼したとされる「華厳海会善知識曼荼羅」は存在する、また中国では石像が奉先寺(龍門)に存在する、応仁の乱以前には高山寺に運慶に依る毘盧遮那仏が存在した記録がある。
東大寺の場合は造像当初から残る蓮華座の蓮弁に線で刻まれた多くの釈迦如来を発射している、これら一つ一つが蓮華蔵世界を表している、但し造像の際の強度不足で亀裂や尻部の欠落や地震による損傷等々を経ており蓮華座は天平時代、腰や背中は鎌倉時代、顔、頭部は江戸時代のものである。
梵網経を典拠とする唐招提寺の毘盧舎那仏は印相と光背及び尊像の毛穴から発生した壱千にも及ぶ蓮華台蔵世界の釈迦如来を従えている、但し現在従えている光背の尊像は864尊である。
従来東大寺の大仏像な創建当初の部分は連弁の一部のみとするのが定説であったが松山鉄夫氏等東京芸大の研究調査により下半身や背部は天平時代の作であるとの報告がなされた。 しかし頭部や手の部分は江戸時代の修復であり、私は何度拝観しても天平の情感を感じることは出来ない。
これは仏師でも陶芸の世界でもその時代の代表作はその時代の文化の中で生きた人間でなければ生み出すことは出来ない、運慶や快慶は鎌倉時代のニューマの中に生き時代の代表作を生む事が出来たのではないか。
東大寺廬舎那仏の
華厳経では毘盧遮那仏と釈迦如来の同尊とされる、武村牧男氏(華厳五教章を読む 春秋社)に依れば華厳経は釈迦の”自ら内に証した世界”即ち「自内証」を説いた経典と言う、要するに釈尊の自内証が毘盧遮那仏と言う事になる、因みに自内証とは如来(仏)の覚りの境地を言う。
東大寺大仏の像高であるがメートル法が施行され普及したのは20世紀中盤であり、従来の尺貫法で丈六仏の十倍の像高すなわち五丈三尺五寸とされた様である。
日本で造像された最大の仏像は太閤秀吉発願の毘盧遮那仏であり約19mの大仏(木造)で1596年方広寺に建立されたが、翌1596年大地震で倒壊した(方広寺の規模は55m×99m・H45m)。
チベット仏教界に極めて希な毘盧遮那仏は描かれている、四面六臂で日本から観れば異形な智拳印を結ぶ女性尊(四臂男尊も存在)が観られる、これはインドのラダック(Ladakhs)
法身仏 (以下全編サンスクリット語は梵語で統一) 法身仏とは不変の真理を仏身で表現したもので毘盧舎那仏・大日如来を指す。
真言 オン アビラウンケン
摩訶毘盧遮(舎)
〇東大寺 坐像 銅像 華厳経による 大仏 総重量400トン弱 1486,8㎝ 天平時代 施無畏 与願印 大仏の詳細は東大寺注22参照。
〇唐招提寺 坐像 脱活乾漆造 梵網経による 339,4㎝ 天平時代 施無畏 与願印。
●戒壇院(福岡県筑紫郡太宰府町観世音寺5丁目6-6-1 ・筑紫戒壇院) 坐像 木造漆箔 148,5cm 藤原時代 両手を胸前に挙げる説法印。
●新大佛寺 坐像 4.050cm 頭部 快慶作 躯体部は江戸時代の補作 三重県伊賀市富永1238 阿波の大仏。
① ②
① 清大寺(臨済宗妙心寺派) 毘盧遮那仏(越前大仏)造高17.00m(東大寺は14.86m 鎌倉大仏11.387m)施無畏 与願印。
② 奉先寺の竜門石窟 約17.00m Wikipediaより *龍門盧舍那大佛和菩蕯羅漢像。
注1, 三千大千世界 梵網経・華厳経によると小釈迦が千箇所集まって小千世界を形成しそれを中釈迦が統括する、中釈迦が千箇所集まって中千世界を形成しそれを大釈迦が統括し、大釈迦が千箇所集まって大千世界となって夫々の釈迦が法を説いている、これらを摩訶毘廬遮那仏が統括している、したがって釈迦の数も膨大な数になる。
注2、賢劫の千仏 現在の劫を賢劫と言い過去の劫を荘厳劫・未来劫を星宿劫と呼びこれを三世三千仏と言う、賢劫の千仏はここから由来している。阿弥陀如来は宝蔵菩薩時代に五劫の間修行して如来と成った。
「千仏名経」から十八尊程を挙げた、
劫(こう)とは梵語kalpaの意訳で仏教の言う非常に長い期間を言う、劫には複数の算定方法があり、盤石劫の一劫とは四十立方里の岩に天人が百年に一度舞い降りて衣の袖で岩面を一度なでる、その岩が磨耗するまでを一劫と言う。また芥子劫とは芥子の実を百年に一度大きな城都に一粒ずつ落とし満杯になって一劫とする数え方もある。
劫の分類は複雑で宇宙形成から壊滅までの劫を器世間と言い時間を単位とする物を歳敷劫という。
注3, 新大仏寺(三重県阿山郡) 鎌倉時代に快慶作の仏頭に江戸時代に躯体を補作した,●如来像 坐像 木造 漆箔 293,0cmが阿弥陀如来とも毘廬遮那仏とも言はれる、また鎌倉・円覚寺の宝冠釈迦如来像は当初は盧舎那仏であるが火災時に頭部(鎌倉時代)が避難出来たが、その他は後補であり文化財指定は受けていない円覚寺・宝冠釈迦如来 坐像 木造 260、0cm。
注4、過去仏 仏教は悠久の昔からの宇宙真理を釈迦牟尼が覚ったものであり過去にも同じ覚りを開いた人物が存在したとする考察が行われた。 ・
旧訳聖書では神が万物を創造しているのに対して毘盧遮那仏・大日如来は宇宙・真理そのものであり釈迦如来は真理の発見者とされる。
注5、
中期密教では法身所説すなわち説いた仏による覚りのランクが付けられている、要するに法身仏である大日如来の教えは最高位にあり他の如来教えは下位と言う。
但し法身仏、報身仏、応身仏の分類は日本独自の解釈で、インド密教に於いては総てが釈迦如来であり、毘盧舎那仏、大日如来、等は別尊としては扱われない。
華厳経
注6、 毘盧遮那仏を本尊とした寺院は消滅したが京都・法勝寺(11世紀)と方広寺(16世紀)が存在したとされる。
注7、 毘盧遮那仏と盧舎那仏であるが華厳経に於いては毘を除き遮と舎を併用している、また解説書には顕教に「舎」を用い密教では「遮」を用いると言う記述もある。
注8、密教(タントリズムTantrism)と言う用語は中国を経て日本で始められた熟語であるがインドでは秘密(guhya)の用語が随所で使用されている。
顕教とは密教側からの侮蔑を含んだ解釈の用語であり、密教以外の宗派では使用されない、露顕された教え即ち浅薄の意味を持ち二項対立を煽り「顕劣密勝」を誇張し侮蔑的である、因みに顕劣密勝も密教側の用語である、これは大乗仏教側が上座部仏教を小乗仏教と揶揄した事と同根である。
注9、 経典を翻訳する時に漢文に訳さないで、音訳すなわち梵語の音を漢字に写した訳がある、玄奘が嚆矢の様で「
*順古故 阿耨多羅三藐三菩提が順古故に相当する。
*秘密故・般若心経のクライマックス「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」が相当する。
*多含故 自在・熾盛・端厳・名称・吉祥・尊貴という六義(6つの義・意味)という複数の意味を含む婆伽婆・薄伽梵 ・魔訶など。
*此方無故 閻浮樹 乾闥婆 迦楼羅など。
*尊重故 般若 佛陀の様に意訳すると耽美さに欠ける場合に使われる。
注10、チベット(パンコル チョルテン)やインドのラダック地方に稀有な例であるが明らかに女性の毘盧遮那如来の例がある。
注11、大仏の像高に付いて述べる、大仏に関する定義は確定していない、日本に於いては丈六仏(立像で約4800.0 cm)を上回る背丈の尊像を大仏と呼称されている、しかし大仏とは東大寺の盧舎那仏の坐像や鎌倉、高徳院の阿弥陀如来の坐像(1138,7cm)を連想されている、その他日本三大仏とPRされている大仏に岐阜大仏がある、1832年(正保3年)の完成で、木竹芯乾漆造の釈迦如来像は13.7mの像高である、黄檗宗金鳳山正法寺(岐阜市大仏町)。
鎌倉高徳院の大仏に付いて1896年(明治29年)に英国籍から日本国籍を取得したラフカディオ・ハーン (Patrick
Lafcadio Hearn)即ち小泉八雲は「東洋的微笑」と
仏教の発祥地インドに於いてはカニシカ王等の例外を除きサンガ(教団)を中心に檀那衆からの寄進に依り造像された為に巨大な仏像は少ない。
仏教が
インドに於ける少ない巨像の内で著名な尊像はナーランダにあった立像は20mを越えていたとされる、大仏で世界的に知られたのはアフガン、バーミヤンの二大仏であるがタリバンに破壊された事は痛恨の極みである、因みにバーミヤンの東大仏は38m、西大仏が55mであったとされる。
中国に於いて多くの大仏が造像されたが敦煌北大仏(96?)33mの
東大寺の盧舎那仏のサイズを比較してみると創建時、像高15.8m 顔長4.73m 耳2.51m 口1.09m 手のひら1.65m 足3.55mで現在は像高14.98m 顔長5.33m 耳2.54m 口1.33m 手のひら1.48m 足3.74mとされる(東大寺図鑑・ケンズ井上・長崎出版)。
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最終加筆日2004年10月15日 2006年11月25日注5 2008年6月28日他 2011年4月6日尊名の異説 2016年1月25日 2017年4月28日 5月11日 10月22日 11月14日 2018年3月20日 9月27日 2019年6月18日
9月3日 11月7日 2020年6月14日 2020年9月6日 2023年6月4日補筆