寺院建築

                   
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寺院建築の原点は塔ストーバ・卒塔婆・stûpaである、仏滅の後に八か所に分散された仏舎利を安置する為のストーバ建設が在家信者たちに依り建設され仏塔信仰が起こる、初期仏教に於いて塔は仏舎利が収められており神聖かつ荘厳な場所であり仏教美術の出発点である。
仏塔崇拝に伴い大乗仏教化が進行する、時代が経過する事により信仰対象に変化が現れて精進すれば衆生も成仏~往生できると言う菩薩道が重視される様になる。

インド古代仏教に於いて聖たちは遊行僧として諸国を伝道して歩いた為に住いを持たず、雨期には信者に寄進を受けた粗末な庵、雨安居等に住んだ、これがローマ帝国との交易で富んだ商人達の寄進が集まり祇園精舎や竹林精舎等になった、原始仏教ではバラモンのヴェーダ聖典等の慣例に習い、教えを文字化されていない事と諸国を遊行行脚するのに経典は大変な荷物になる為などもあり師子騒擾相承すなわち口頭伝承に限られていた、但し精舎が多く建立され寺となると経典が文字化に拍車をかけた。
従って多くの如来菩薩が出現して造像されると、これを安置する楼閣式仏塔を経て仏殿の必要となった、因みに
ストーパは卒塔婆(注5であるが、塔婆と略して呼ばれ様になり更に塔と簡潔化された、 古代インド神話・ リグ・ヴェーダ聖典Rgvedaに依れば樹木の冠」「天と地を繋ぐ軸柱」等と訳されるが本来は頭髪、家屋の最上部などの意味を持つ、また仏塔にはチャイティヤcaityaと言う呼び方もあり、廟、塔廟等の意味合いに成る 
佛教の創世期には寺院らしい建造物は存在せず、僧の集団が雨を凌ぐ程度の洞窟や庵が存在したとされるが、庵を結ぶ程度の木造が多かったらしく、その遺構である
精舎・僧院(ビハーラ・Viharaは現存しない、1世紀頃に於ける古代佛教の寺院は砂岩(注6を刳り貫いた所謂カルラー (Garuḍa ガルラ)やアジャンター(ajanta)に代表される石窟寺院であったが、78世紀頃には砂岩を切り出して平地に石積寺院が造営されるようになる。
仏滅後に釈迦を偲ぶ対象は佛舎利であり、これを分配してスト-
stûpa・卒塔婆に埋葬したのが建造物の始まりとされる。
一世紀頃にクシャーナ(Kushan)王朝でストーバが作られ初め、マウリヤ朝のアショカ王は仏教に帰依しこれを保護、釈尊ゆかりの地に記念碑
(石柱)や佛足跡を建立した後に、卒塔婆(5)となり現在パールハット、ボト・ガヤ、サンチー第一塔、第二塔、アジャンターの室内塔等が存在する,特にサンチー第二塔からは釈迦如来の十大弟子の内「舎利弗」「目犍連」の舎利が発見された。 
これ等は舎利容器を中心に半球形で伏鉢の小山を築き表面を石で化粧を施し頂上に傘蓋を立てた。
これが中国に入り自国の楼閣建築と融合して三重塔・五重塔・七重塔や九重塔も建立されるようになる。
これが朝鮮をへて日本に入り
法隆寺薬師寺、更には室生寺など美しい塔婆の傑作を誕生させた、但し浄土系宗派特に浄土真宗に塔は見られない、理由としては生涯の師である法然の意思もあろうが親鸞言葉として覚如による改邪鈔には、「造像、起塔等は弥陀の本願にあらざる所行なり‐‐‐‐」と述べている事にあろう、金堂と言う名称の由来に付いて、大智度論から三十二相の内、14金色相(こんじきそう)すなわち釈迦如来の全身が金色に輝いている、から採られていると言われる
構造的には上部は従来よりも小型の覆鉢を置きその上に傘蓋(さんがい)が高く延びて相輪
(写真参照)となる。 
そして卒塔婆は初期には浮環祠
(ふとし)と呼ばれ仏堂と一体化して仏像が安置されるようになる。
当初は舎利崇拝にともない塔婆・堂宇と僧侶の生活する僧院・講堂・鐘楼等とは別個に展開していたが両者が結びつくことによって寺院が形成された。
注目すべきは中門・塔・金堂の一群と講堂とが回廊で隔離されていた事で、これはインド以来の塔婆と僧院との厳然たる区分が存在した名残とされる。
次に時代別に特長を乱暴に見れば
1、飛鳥時代には法隆寺の柱に於けるエンタシスや軒を大きく取り、高い基壇が見受けられる。
2、奈良時代には南都佛教が最盛期を迎え、寺院建築の建立に渡来系の工人が多く入り、規模の大きさと華麗さを特徴とする。
3、平安時代には山岳寺院が多くなり伽藍配置などに変化が見られる、また密教の影響か礼堂を持った寺院が現れる。
4、鎌倉時代には天竺様、唐様建築が現れる。
5、室町時代には和様・唐様・天竺様が混同され、鎌倉時代に誕生した宗派が成長して洗練された大規模な寺院が現れる。

寺院は等級を設けて格式をランク付された、当初は官寺の中で官大寺、国分寺(尼寺)、定額寺とランクされたが、平安時代に入りに門跡寺院が発生すると、宮門跡、摂家門跡、准門跡、脇門跡などの寺格が生じる、更に下部に院家、准院家などが成立した、院家とは寺の別舎を言い管主等の退居所跡や山上を回避して都の中心に近い交通に便利な別邸として使われた、因みに寺院と言う呼称は寺家と院家の合成語である。

これらは国家や朝廷すなわち公の序列であるが鎌倉・室町両幕府が臨済宗寺院を五山、十刹、諸山、林下に分類した。
同じころ各宗派内部の序列格式としての寺格制度が定着する。
曹洞宗では「別格寺院」を常恒会、片法幢会、随意会に、「法地
(普通寺院)14にし、その下部に「平僧地」を置いた。
浄土真宗では院家、内陣、余間、飛檐、平僧に区分した、さらに複雑な寺格が定められて上納金によって昇進することが出来た。1871(明治4年)に寺格は廃止されたが現在も教団には残されている。 


次に建築様式に少し触れてみると
和様・天竺様
(大仏様) ・唐様(禅宗様)に分類されるが桃山時代を境に装飾等が多様化し判別が困難になる。

1, 和様 鎌倉時代以降に中国から取り入れた唐様(禅宗様)や天竺様(大仏様)と比較して、以前から日本で行はれた様式と区分する為に生まれた用語で在る。
代表例として1210年建立の興福寺北円堂・同三重塔
(12世紀末頃)1284年建立の法隆寺聖霊院、等が古典的な和様で、完成された作品として1266年建立の蓮華王院本堂・大報恩寺本堂(1227年)石山寺多宝塔(1194年)西明寺三重塔などが和様の代表作とされる。
鎌倉中期以後には純和様建築はあまり見られなくなる。
また和様に唐様と天竺様を取り入れた代表作に観心寺金堂がある。

2, 天竺様(大仏様) 鎌倉初期に大勧進俊乗坊重源が東大寺再建の為に宋から取り入れた工法で江南・福建省方面の技法とされる。
特徴として和様に用いられる斗供を柱の上に置かず、梁を柱に貫通させて、貫で柱間を繋ぐ構造である、屋根は隅扇垂木(すみおうぎだるき)とする。
建物内は化粧小屋組で天井を張らない。
代表例として東大寺・南大門と浄土寺・浄土堂がある。
この工法は大規模建築に適しており、東福寺の伽藍や東寺金堂・東大寺大仏殿の復興等に改良して受け継がれている。

3, 唐様(禅宗様)鎌倉時代に禅宗に付随して持ち込まれた宋・元の建築様式で、最近では現代の中国風と区別する為に禅宗様と呼ばれる事が多い。
軸組の柱高が高く、貫を通して補強する。大梁を利用して構造柱を少なくし大空間を構成する。組物は柱上のみでなく柱の中間にも説置する。
屋根の傾斜は急勾配として軒のそりが強い。鎌倉時代末期には和様・大仏様と融合して折衷様と呼ばれる仏堂が建立される様になる。
また禅宗系寺院だけではなく密教寺院日蓮宗寺院等にも採用される様になる。

法隆寺の堂宇は五重塔など、特に西院の建築物は高麗尺で採寸施工された、比率としては曲尺1:高麗尺117の関係にある、因みに曲尺1=303.030 mmであるが713(銅6)以降の堂宇は曲尺を採用している。
脱線するがインドに於いてはチャテアcaityaghaとは本尊を祀る祠堂すなわち礼拝堂を言う、キリスト教のチャーチ・教会church)チャペルは礼拝堂chapelと関連があるかも知れない、講堂は大抵の寺に存在するが、古代印度では講堂をサンターガラ(santhāgāra)と言う、近年数を減らしたが学校に存在した講堂と語源は同じ意味合いである。

日本における寺院数は概ね77467寺存在し、都道府県別では集計には寺と庵の解釈など誤差はあるが 1、愛知県46054649ヶ寺  2、大阪府33923394ヶ寺  3、兵庫県32803284ヶ寺   4、滋賀県32153217ヶ寺   5、京都府30743084ヶ寺   7、東京都2868ヶ寺  12、岐阜県19882296ヶ寺、また人口10万人当たりでは滋賀県が228.97ヶ寺で第一位である。 

少ない県を挙げると47、沖縄県77ヶ寺  46、宮崎県348ヶ寺   45、高知県376ヶ寺  44、鳥取県469ヶ寺となる。    平成19523日現在  

             http://j-town.net/tokyo/column/allprefcolumn/200705.html

 


1, 法隆寺の場合創建時には講堂等は回廊の外にあったが後に講堂まで回廊は延長された。


2, 相輪の詳細は下の写真か仏像編を参照、また古刹に於ける瓦の年代を推定する一応の規準としてを例に挙げれば・八弁蓮華・連珠の組み合わせが天平時代、・蓮華・連珠が鎌倉時代、その後の堂宇は巴・唐草が主流となる。


3、 複合建築  東大寺・法華堂―礼堂  石山寺・本堂―礼堂 
教王護国寺-東寺・大師堂―後堂、前堂  永保寺・開山堂―内陣  長谷寺・本堂-礼堂    東福寺・開山堂―昭堂  


4、七堂伽藍の音訳で僧伽藍摩 梵語のsa
āma(サンガーラーマ)の音訳で僧伽藍摩と言い、七堂伽藍の七は総てが揃うという意味で数には拘らない,金堂・塔・講堂・回廊・経蔵・鐘楼・僧房・食堂・等を言う、また禅宗では・山門・仏殿・法堂・方丈・僧堂・浴室・東司等を言うが寺院に依り構成は異なる、例えば浄土真宗や浄土宗等は総本山、大本山等の大寺院でも塔が置かれる事は無い。
三門と山門は当初は意味合いを異にしており三門は三つの門即ち南門・東門・西門を言う、また中央に大門を置き左右に小門を配置した、後に左右が廃止されても三門と呼ばれた。 
また山門は正門を意味している、山岳寺院の多い禅宗系では山門と呼称されている説と空・無相・無作の三解脱門の略称とされる解釈とがある、日本三大三門に*知恩院24m *南禅寺22m *身延山久遠寺(山梨県)21mを挙げる解説書がある。

5、 
卒塔婆・塔婆と呼び浮図(ふと)とも呼ばれている、元来は頂上・家長・頭髪の先端を意味したとも言われる、 英語はパゴダ(pagoda) パーリ語(pāli)ではトゥーパ(thûpa)スリランカに於いてはダーガバ( dāgaba)と言い舎利を納める場所を意味する(dhātugabbha)、佛舎利(śarīra)を埋葬する為の「卒塔婆」ストーバ(Stûpa)が建設されたが多くはイスラムに破壊された、 現存しているストーバにパールハット(Bharhut)、ボト・ガヤ(Bodh-gaya)、サンチー(Sanchi)第一塔、第二塔、アジャンター(Ajalpā)の室内塔等があり現在日本に多数存在する五重塔,三重塔、多宝塔等の原流となっている、さらにその源流を辿れば古代インドにおける理想の王である転輪聖王のの墓がモデルとも言われている。
インドに於いては古来より二種類の塔が存在している、1、釈尊の遺骨を収納する「真身舎利塔」と経典を法舎利として供養する「法身舎利塔」とがある、但し真身舎利には量的に限度がある為に宝石、香木、等で代用された、閑話休題、卒塔婆の別名とされる浮図に付いてはブッダの漢訳であり日本ではケが加えられホトケとなった、また仏舎利(śarīra、サアリラ)に付いて漢訳は「殺利羅」と記述され日本では「舎利羅」の記述も見られる、古代の卒塔婆は塔門と欄楯(らんじゅん)(vedka)により周囲を囲まれ本生譚(Jātaka)等が彫刻さている、因みに欄楯とは聖界と俗界を仕切るフェンスである、原型は欄干(らんかん)と言えよう 
中国に於いては漢時代に仏教と同時に塔婆も伝わるが相輪が伝えられたのは12世紀後漢時代えある、我が国に現存する塔の相輪(塔の屋根の上に建っている突出部分)が卒塔婆に相当する重要部分である、下部より 1,露盤(ろばん) 2,伏鉢(ふくばち)(覆 3,請花(うけばな) 4,九輪(くりん) 5,水煙 (すいえん) 6,竜車(りゅうしゃ) 7,宝珠(ほうじゅ)である、この内2,伏鉢は卒塔婆の原型でありインドに於いては仏舎利が納められている九輪は五如来と四菩薩を著わしているが尊名は宗派により異なる、 6,竜車は釈尊の乗り物、7,宝珠は搭として仏舎利を納めるとされる、また中心の柱を刹管と言う。
閑話休題
サンチー等のストゥーパ(卒塔婆は欄楯に囲まれ四方に鳥居の原型であるトラーナ(Torana塔門)が細かい彫刻を施して置かれている。
因みに国宝指定を受けている五重塔を挙げると屋外九搭、室内二搭がある、内訳は・法隆寺(34.1m)・興福寺(50.1m)・室生寺(16.1m)・醍醐寺(38.0m)・海住山寺(17.7)・羽黒山(29.0m)・明王院(28.5m)・瑠璃光寺(31.2m)・東寺(54.8m)、屋内設置では・元興寺極楽坊(5.5m)・海龍王寺(4.0m)がある、因みに重文指定は13塔である。
三重塔国宝指定には・法起寺(24.0m)・興福寺・(16.2m)・薬師寺(34.0m)東搭・當麻寺(23.0m)東搭・當麻寺西搭(24.8m)・浄瑠璃寺16.4m)・西明寺(23.7m)・明通寺(福井22.0)・大法寺(長野18.56m)・安楽寺八角堂(長野)・向上寺(広島19.2m)・一乗寺(兵庫23.0m)の十三搭がある、また重文指定は43塔ある。
その他法華経に登場する多宝如来を安置する多宝搭がある、下相を方形にして上層を円形の二重搭を言い・石山寺・根来寺・金剛三昧院(高野山)が国宝指定であるが高野山の根本大塔(幾度か焼失して現在は1937年建立)が日本に於ける最初の多宝搭である、多宝塔の国宝指定は6塔、重文指定は35塔である。 *注 搭高は資料に依りバラツキがある。

多武峰の談山(たんざん)神社(旧妙楽寺)に稀有な塔があり談山神社のシンボルになっている、木造H17m檜皮葺の十三重塔があり、唐の清涼山宝池院を呼称する寺の塔を模した塔とされる。
日本には古来より神を祀る処に石柱が置かれた、また神の数を数える用語に柱すなわち「ちひとはしら  ふたはしら」と数えた、また聖書の出エジプト記(24・4)にモーセは祭壇を築き十二の意志の柱を立てた、とあり卒塔婆と無関係とは言えないかも知れない、但し現在一神教では偶像崇拝と誤解されるおそれがあり、行われていない


6、砂岩 水成岩の一種、日本ではインド砂岩と呼ばれる、比較的軟質で加工性に優れている為比較的安価な石材である、日本の蛸石によく似ており吸水性はあるが耐久性に富み概ね二色(ベージュ、と薄い朱)ある、日本の近代建築の外装にも使用される。

注7、 国宝指定の寺門を挙げると下表で各ブロックに分けて取り上げているが、奈良県*金峯山寺二王門 *東大寺南大門 *東大寺転害門 *般若寺楼門 *法隆寺南大門 *法隆寺中門 *法隆寺東大門  京都府*東寺蓮華門 *光明寺二王門 *大徳寺唐門 *知恩院三門 *東福寺三門 *本願寺唐門  滋賀県*宝厳寺唐門  和歌山県*長保寺大門  愛媛県*石手寺二王門  長崎県*崇福寺第一峰門となる。
塔の同様であるが、五重塔の場合、奈良県*法隆寺 *室生寺 *興福寺  京都府*醍醐寺 *東寺 *海住山寺  山口県*瑠璃光寺  広島県*明王院  山形県*羽黒山   三重塔の場合、奈良県*法起寺 *薬師寺東塔 *當麻寺東塔 *當麻寺西塔 *興福寺  京都府*浄瑠璃寺  滋賀県*常楽寺 *西明寺  兵庫県*一乗寺  広島県*向上寺  長野県*安楽寺 *大法寺  福井県*明通寺。
 


文化財指定の堂宇
奈良県
京都府
滋賀県
大阪府
その他
岐阜県


相輪 (搭の写真は国宝當麻寺の三重搭です、九輪のリングは当麻寺の場合は八輪です)

九輪に付いて、原型は傘蓋(さんがい)である、傘蓋とは高僧など貴人に従者が挿しかける傘の事で、卒塔婆に檀那衆が幾重にも挿し掛けた名残が九輪であるとの説が言われている、源流は古代ストーバであるが、嚆矢とされるサンチー第一塔と呼称の比較をすれば、宝珠=傘蓋、 露盤=欄楯  刹管=傘竿など呼称の相違がある様だ。

* 瓦に付いて、瓦は梵語でカパーラkāpalaと言うが、陶芸品全体を意味する様で、インドが最初ではなく歴史的に中国が二千八百年の歴史を持ち嚆矢の様である、日本には六世紀末の飛鳥寺が最初と言われている。


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