梵語名をĀṭavaka(アータブアカ)と言い、出自はインド神話に登場し帝を守護する土着の鬼神である、
839年入唐を果たした、空海の弟子で入唐八家(注1)の一人である小栗栖常暁が請来したもので八大明王の一尊であるが十六夜叉神や毘沙門天の配下とも言われインドの神としてのランクは低い、役割としては鎮護国家、外敵撃退の役割を担う。
太元帥明王の典拠としては「大宝積経」「大孔雀呪王経」等が観られるが、密教に於いては最極秘法すなわち最終の武器であり、鎮護国家・戦勝・怨敵殲滅(外敵降伏)・
日本において「太元御修法」の本尊とした禁裏に於いてのみ重用され十九世紀まで国家の大法として秘術が行われたと言う、常暁以後入唐し秘術を習得した僧侶も居たが帰国できず五大山で殺害されたと言う、但し後花園天皇が太元堂を設置し天下万民の法とした為武田信玄や織田信長にも利用された。
「太元御修法」は宮中では「後七日御修法」(注4)に次ぐ大法として重要視された、元寇の戦いや平将門や藤原純友の乱の折りにも行われて成就した修法と言う、因みに20世紀前半に天皇を大元帥陛下と呼ばれた時期があるが語源は太元帥明王からである。
元来が秘法の為に像造されたものも少なく、「阿押婆拘鬼神大将上仏陀羅尼神呪経」では説かれている様であるがわが国に残る作品は一面六臂で四臂に蛇を巻く、から八面十六臂・十八面三十六臂まであり姿形も定まってはいない、因みに阿咤縛迦大将(広野鬼神)太元明王は同尊であり毘沙門天の眷属説がある。
姿形は威嚇する表情に黒青の躯体で髑髏を首に蛇を腕に巻いている、代表作は常暁の出身寺とされる秋篠寺の尊像が著名である。
●秋篠寺(一面六臂) 立像 木造彩色 229,5㎝ 鎌倉時代 (秘仏・6月6日開扉)
無指定に醍醐寺・太元帥法本尊図 ・高野山西南院・東寺白描図像等がある。
絵画に於いての重文指定作品には東寺の●太元帥曼荼羅 ・太元帥明王(六面八臂)2点 ・四面八臂 ・醍醐寺2点 ・善峰寺(京都) ・西南院(和歌山) ・MOA美術館等に存在する。
真言 ノウボ タリツ ボリツ ハラボリツ オンシャキンメイシャキンメイ タラ サンダン オエンビ ソワカ
秋篠寺 (Tv画像より)
注1、入唐八家 唐に留学した高僧を言い 最澄 ・空海 ・円仁 ・円珍 ・円行(真言宗) ・常暁(真言宗) ・恵運(真言宗) ・宗叡(真言宗)を言う、ちなみに常暁は9世紀中盤の僧・空海の弟子であり元興寺で三論(中論・十二論・百論)を、唐で三論と大元御修法を学び禁裏に重用され権律師となる。
三論宗とは2-3世紀頃に竜樹とその弟子が書いたとされる三論玄義 1、中論 2、十二門論 3、百論の三論を中核として成立した宗派で「空観の究極理論」を体系化したもの。
注2、 真言宗に於いては帥を発音せず「たいげん明王」と呼ばれている。
注3、太元御修法とは定かでは無いが3尊の太元帥明王と釈迦曼荼羅・虚空蔵曼荼羅・毘沙門天曼荼羅を本尊として行われた誦術とされる。
注4、 後七日御修法 天皇の安寧及び国の繁栄安泰と祈願する真言宗が行う最高秘奥で1月8日から7日間挙行される、834年勅命を受けた空海が始めた修法で翌年には宮中に真言院が建立された、東寺の別当が導師を務める習わしである、元禄時代に中断するが醍醐寺の義演が復興させる、明治4年(1871年)宮中行事としては廃止されるが東寺灌頂院に於いて真言宗各派の館主などが集まり毎年挙行されている、後七日御修法は平安時代以降、元旦から行われた前七日節会と双璧を為す宮中に於ける祭司の根幹を占める修法であった。
注5、 日本では元寇の乱に於いても漢民族・朝鮮人を含む元軍の戦死者を日本人戦死者と同様に弔っており、通常の外国人と違い敵であっても死者に対しては敵愾心を持たない民族と言える。
これは強調し過ぎる事は無い、日本人は
しかし儒教、道教と歴史に学びこれを重要視する中国人は唾を吐きかけても飽き足りないだろう、一例を挙げれば杭州に愛国者とされる岳飛の廟があるが、岳飛を陥れ死罪にした宰相秦檜夫妻の像がある、これは夫妻を罵り吐唾する為に作られていると言う、また中国は古来より精度の高い歴史書を残す国であるが現在の中国に於いて政治体制から正確な歴史評価及び教育が為されているとは考えにくい。
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最終加筆日2004年12月11日 2005年12月26日 2008年1月2日注1 2009年11月10日注4他 2016年10月1日 2018年7月14日 2019年9月15日 2021年2月13日 2022年9月23日加筆