承陽大師‐道元       


                     
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平安時代、四百年の垢が累積した末期には、政治の腐敗、既存仏教の堕落等から、為政者、宗教者は飢饉等々に対しても無力な時代であった、即ち末法の時代に登場したのが、法然親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮である

承陽大師(じょうようだいし)・永平道元、号を()(げん)と言う、1200119(正冶212日)1253922(建長5828日)、宗内では「高祖」・道元禅師と呼称されている、因みに道元の門下四代目で、もう一人の祖師・常済大師(じょうさいだい)・瑩山紹瑾(じょうきん)を「太祖」と尊称されている、承陽大師は明治天皇から下賜された諡号で孝明天皇からは仏性伝(ぶつしょうでん)東国師(とうごくし)を下賜されている

曹洞宗の開祖で、諸説あるが内大臣源通親(久我通親or土御門通親とも)を父に持つ、摂政太政大臣・松殿藤原基房の娘を母として宇治で生まれた様である。

道元の生涯を著した「建撕記(けんぜいき)」に依れば、3歳で父を8歳で母を失い異母兄である堀川通具の養子になった、また両親の死後に母方の叔父である摂政を勤めた松殿師家からの養嗣子にしたいという話がある等、摂関家の血を引く一門で官僚として期待の星であったと言う説もある、また同じ建撕記からか道元の神童ぶりに付いて、巷に於いて「唯識三年倶舎八年」と言われている難解な倶舎論を道元は九歳の時に読破したと言う記述がある(京都宗祖の旅、百瀬明治、淡交社)
外叔父(母の弟)の良顕を比叡山麓に訪ねる、良顕の手引きで横川の首楞厳(しゆりようごん)院に入り般若谷の千光房に入った、1213(建保1)天台座主公円の許で得度、壇院で菩醍戒を授かり、法房道元と名のる、比叡山に於いて天台教学を修めるが一切の衆生が救済され仏となるのに厳しい修行を科すと言う疑問が解けず三井寺の公胤などを頼るが納得出来ず日本佛教に失望するが、公胤の助言を受けて、臨済宗建仁寺に住む明全(みょうぜん)を経て1223(貞応二年)二十四歳で入宋し浙江省にある天童寺に赴いて臨済宗大恵(だいえ)派に於いて、栄西の師でもある無際了派(むさいりょうは)に師事を受けた、無際了派の没後には天童如浄を師と仰ぐ、如浄の許で学ぶこと三年、道元は如浄から受け継いだ釈尊・大迦葉正伝の教義を絶対と信じた、坐禅こそ仏法の正門であり、大安楽の法門であるとして1227(安貞一年)に帰国して建仁寺に()(しゃく)た。

宋国では臨済各派の法統を嗣続、嗣法書を学び、かつ阿育王山(あいおうざん)広利寺等で体験を積んだ、道元の得た結論は、徒に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏である、座禅の内の覚りがある即ち「只管打坐」「修証一如」らの哲学を語った。

もう一つ道元は如上世の無常を感じ出家を志したとされ、無常観は道元のバックボーンであった、「志の至らざることは無常を思はざる故なり」「我我を離るるには、無常を観ずる是第一の用心なり」と言う。(宗祖の旅・道元・百瀬明治・淡交法門社 

道元の探し求めた師は如浄(天童如浄 長翁如浄 1163年~1228年)でる、仏々祖々「面授の法門現成せり」である、禅の起源とされる寓話に拈華微笑(ねんげみしょう)」(霊山(りょうぜん)拈花(ねんげ))即ち霊山に於いて釈尊が大迦葉一人に嗣法を授けた伝承は著名である。禅の起源とされる寓話に拈華微笑(ねんげみしょう)」(霊山(りょうぜん)拈花(ねんげ))即ち霊山に於いて釈尊が大迦葉一人に嗣法を授けた伝承は著名である
道元
は官僚としても巨大な権勢を得られる程、高貴な血統に生まれながら権力や冥利愛欲は無論のこと、己の出身の天台宗とも一切妥協しなかった人である「()()(りん)太虚(たいこ)()るが如し」、また中国で学び一典の経典も所持しないで帰国している、「眼横鼻直(がんのうびちょく) 空手還郷(くうしゅかんごう)」を宣言したとされる、即ち仏性は己の心中にあると言う意味合いである、また天台、真言臨済浄土真宗など諸宗を鋭く批判し末法思想や念仏、祈裳などをも批判した

晩年も一段と厳しい修行に打ち込み、教義を先鋭化させ、ついに在家成仏や女人成仏をも否定して、出家至上主義の傾向を強めていった。

1234(文暦1)冬に大日能忍門下で正法眼蔵随聞記」の著者でもある永平寺、第二世となる孤雲懐奘(えじょう)と、越前を旅した時に訪れた波著(はぢやく)寺から大日派の覚禅()(かん)等が入門し栄えるが、比叡山は無論のこと、東福寺までもの圧力が激しくなる、越前志比庄に下り翌年大仏寺を開いた、1246(寛元4)6月、大仏寺を永平寺と改め、法名をみずから道元から希玄に改めた、永平寺を懐奘に譲って、1253(建長5年)828日、高潔無比の生涯を閉じた。

道元は鎌倉時代を代表する偉大な宗教家である、日本人僧侶としてとして原理主義路線を貫く稀有な思想家であったが、その哲学はラジカルである為に衆生に理解は困難であった、その後永平寺三世の徹通義介(てっつうぎかい)が元に留学し密教等を学び弟子の瑩山紹瑾に伝える、瑩山紹瑾によって軟らかく噛み砕かれたのが、難解な熟語では(にっ)(てん)(すい)(しゅ)であり現在の曹洞宗である、これを井沢元彦氏は道元の強烈なシングルモルトウイスキーに対する紹瑾の飲み易い水割りカクテルに喩えている、孤立を恐れず信じた我が道を行く正しく「一箇半箇の説得」である。
道元に依れば寺は参拝する処ではなく正法を伝える道場であると述べたが、形骸化したかに感じられる現在の永平寺は観光名所とも言えよう。

著作に仮名法語集 ・「正法眼蔵」75巻本、12巻本、・坐禅の方法や心得をひろく大衆に説き勧る「普勧坐禅儀」1巻、・「宝慶記」1巻、・「学道用心集」1巻、・「永平清規」、・正法である事を強調した「護国正法義(しょうぼうぎ)」・
典座教訓(てんぞぎょうくん)「出家授戒作法」等々がある。
永平寺が所有する普勧坐禅儀は国宝指定を受けている、因みに普勧坐禅儀は専門僧堂に於いて夜坐を終えて全員で唱えられる、この内朝廷に提出したとされる護国正法義の原本は存在しない

ところで ”正法眼蔵”と言うタームは高祖、・永平道元の創作ではない、禅宗系の宗派では無上の正法すなわち肝心要を意味し、”教外別伝の心印”として使われ重要視されている。(道元 百瀬明治著淡交社 他)
釈尊は迦葉に
微妙の法門即ち後継者として付嘱(ふしょく)したとされる、無門関(むもんかん)摩訶迦葉だけが微笑拈華微笑してうなずく、釈尊は迦葉をほめ印可を与えた、自分の正法眼蔵 涅槃妙心、 実相無相、 微妙の法門を、不立文字、教外別伝して残りなく迦葉に付嘱すると宣言するのである。(無門関・四十八則とは宋代に無門慧開と言う禅僧によって編集された禅の公案集

佛教のなかの親鸞vs蓮如・道元vs瑩山紹瑾だけで無くキリスト教等にも言える、パウロに付いて、キルケゴール(Kierkegaard  Søren Aabye 1813年5月5日~11月11日)は「イエスは生涯を費やして13人の弟子しか出来なかったが、十二使途にも入らないパウロは一日で100人を弟子にした」と言う、まさしく伝道者すなわちエバンジェリストevangelistの面目躍如である、但し発言の真意は不祥である、因みに「イエスなくしてパウロユダヤ名でサウロ (Šāʼûl)は無いが、パウロなくしてキリスト教は無かった」と言われている、これは多くの宗祖に多い原理主義と、中興に貢献し大衆に対する伝道路線との相違と言えよう。

「春は花 夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」 道元


   時  代  浄土真宗  曹洞宗  
  原理主義  鎌倉時代  親 鸞  道 元(高祖)  初 祖
 大衆伝道  南北朝~室町時代  蓮 如  瑩山紹瑾(太祖  中興の祖




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