浄土真宗は親鸞を祖とする十の宗派、即ち通称東西本願寺等の連合体で、後述(注14の後)するが真宗教団連合と言う日本最大の仏教宗派と言える、反論があろうが日本仏教界の主流派すなわちメインストリーム(mainstream)的存在としての存在感(presence プレゼンス)の大きさは否定できない。
平安時代凡そ四百年の垢が累積した末期には、政治の腐敗や既存仏教の堕落等から飢饉にも無力な政権、即ち末法の時代に登場したのが、法然、親鸞
要するに浄土真宗は法然の念仏思想をさらに推し進めた宗派であり、「浄土に良い往生を遂げる為の真実の教え」を浄土真宗の教えと言い、宗派の名称に拘る必要はない。
親鸞を祖とする教団であるが、「
真宗、浄土真宗とは親鸞の信仰哲学をキャッチフレーズとする組織である、親鸞は往生すなわち成仏の主張と考えられる、即ち「
親鸞は教団開宗の根本聖典すなわち代表作教行信証 、正式には
法然の弟子・親鸞を開祖とし・西本願寺(本願寺・浄土真宗本願寺派)・東本願寺(真宗本廟・真宗大谷派)・仏光寺(真宗佛光寺派)・専修寺(真宗高田派)等々を含めて真宗教団連合を形成する日本最大の信者を有する宗派であるが、宗派の呼称は真宗とか浄土真宗などフランクに呼ばれている、「浄土真宗」は西本願寺(本願寺)の宗派名であり、「真宗」は東本願寺と仏光寺・専修寺等九派の名称である、本来は真実の教えと言う意味であり宗派名では無かった、しかし法然の教義を更に進めて大乗仏教の終着点とも言える浄土信仰を完成したと言える、通常呼ばれている寺名は東本願寺・西本願寺であるが正式名称は、お西(浄土真宗本願寺派)は本願寺であり、お東(真宗大谷派)は「真宗本廟」と言う、因みに本願とはpūrva-praṇidhāna(プールヴァ・プラニダーナ)と言い、過去に祈願された願い、本すなわちpūrva=昔であり、praṇidhāna=誓い、願いを意味する、即ち法蔵菩薩(後の阿弥陀如来)が菩薩時代の誓いである。
仏壇であるが、本尊が置かれる
浄土宗白旗流の
ここで浄土宗と真宗の相違を挙げると、念仏を唱え少しの自力行を言う浄土宗の「即得往生」と、絶対他力すなわち信仰のみで救済される真宗の「往生即成仏」に代表される、「
経典は浄土三部経であり中でも大無量寿経が真宗の最高経典である、中でも十八願(念仏往生之願・説我得佛、十方衆生、至心信楽欲生我国至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法)が重要であるが、来迎を約束する十九願も重要視されている、浄土真宗には十九願に関して「平生
因みに浄土三部経であるが 「観無量寿経」は機の真実を説き「無量寿経」は法の本願を説く、更に「阿弥陀経」は機+法を合わせ説くとされている、阿弥陀経や観無量寿経に浄土信仰の極地とも言える「
真宗門徒が勤行には必ず
観無量寿経を最高経典とする浄土宗との相違は専修念仏をも「他力本願」ではないとして信仰心のみを求めた事にある、真宗の根幹教義である「他力本願」とは他力すなわち阿弥陀如来の本願力であり、如来の誓願を信じ委ねる事にある、歎異抄第八条「念仏はひとへに他力にして自力をはなれたるゆえに行者ためには非行、非善なり」「ひとえに阿弥陀仏の本願力によるものでああり、自力をはなれたものである」、従って多くの宗派で普遍的に詠まれる法華経や般若心経を詠まれる事は無い、法華経否定について親鸞は言う「非権非実(天台智顗の言)というは、法華宗(天台宗)のおしえなり、浄土真宗の心にあらず、聖道家(自力の修行者)のこころなり」、即ち自力の聖道すなわち自力弁道ではなく、他力の”浄土門”いわゆる他力本願を強調している、同時代に生きた親鸞と道元は二律背反の哲学を強調しているが、道元は正法眼蔵に於いて「仏のいへに投げ入れて、仏のかたより-----生死を離れて仏となる------」と言い意外と通底しているかも知れない。
因みに教行信証は最高の聖典の扱いとされている、・教行信証、正信偈・歎異抄(唯円の筆になる)・等有る「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」歎異抄第三章にある悪人正機説に尽きると言える、特に歎異抄は弟子唯円が念仏に対する親鸞の教義が歪められている事を危惧して真宗の蘊奥である他力本願を平易に説いた書である、但し「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」であるが、「大般涅槃経(ダルマラクシャ・曇無識訳)注10」に概ね同様の記述がある。
この悪人とは法律及び道徳上に違反者ではなく、異教徒、異端者(天台・真言等)を指しており、阿弥陀如来を信ずる事により人間は既に救われており、念仏はその感謝の表現であると考えられる。
自然法爾(ほうに) ・この絶対信仰の超論理はプロテスタントの論理と同根であり、これが日本人に浸透していた為、明治以降に普及したキリスト教はプロテスタントが主体であった、異教の論理と同根と軽軽に書いたが「類型を設定に対する論理性を疑問視する、ドイツのプロテスタント組織神学者、パウル・ティリッヒ(Paul Johannes Tillich、1886年8月20日~1965年10月22日)には、罵倒されるかもしれない、閑話休題、末木文美士著、浄土思想論には、阿弥陀仏をキリスト教の神に置き換えればよく似た構図になるとまで言う。
本願力には自力・他力の区別は存在しない、即ち阿弥陀仏の本願が衆生に行きわたる事を他力と言う、と武蔵野大学の田中教照氏は言う。
親鸞が詠み真宗門徒が必ず唱える「正信偈」に「本師源空明佛教」(本師法然は仏の教えを明示し)とある、また「歎異抄」に善信が信心もおなじく聖人の御信心もひとつなりとある、また「念仏はまことに浄土に生る種にてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり、たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」とまで言う。
歎異抄第五章に於いて親鸞は「父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」と言う、随って浄土真宗では死者に対する追善供養は行わない、すなわち念仏は供養の為の方便ではない
親鸞には新しく宗派を起こす意思は無く終生法然の弟子として活動したと思われる、浄土真宗と言う呼び名も本来は初期の浄土宗において使用された名称で浄土宗中興の祖とも言われる聖冏の浄土真宗付法伝や浄土宗に出された勅旨等に明記してあり親鸞は浄土教徒として真実の教えを真宗、浄土真宗の名称を使用したと見なされる。
真宗の特徴数箇所挙げると、現生正定聚がある、現生正定聚とは真宗に於ける教義の根幹を指す思想であり、親鸞の信仰思想の真髄を為している、「現生不退」とも言い、阿弥陀如来より回向された信心を受ければ浄土に往生することが定まった身となり、覚りを開いて如来に成ることが決定している事が言われる。
また三定聚も言われる、真実信心を得た者を「正定聚」、自力の善によって往生しようとする第十九願の人を「邪定聚」、自力の念仏にはげむ第二十願の人を「不定聚」と呼ばれている。
更に穢土と極楽との往復搭乗券がある、無量寿経(第二十二巻 還相回向の願)・中国の曇鸞(476~550年頃年)による浄土論註(往生論註)・教行信証(第一巻 教巻)に依れば「二種廻向」即ち「往相廻向」と「還相廻向」がある、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり、一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について教行信証あり」。 (謹*按↢浄土真宗↡有↢二種廻向↡。一者往相、二者還相。就↢往相廻向↡有↢真実教行信証)
二種回向の特色は、現世に於いて難渋する衆生救済のために浄土から娑婆へ還相回向する、これは真宗の根幹思想と言える。
芥川龍之介は「侏儒の言葉」の中で蓮の葉に座り、妙なるしらべを聞く極楽浄土の退屈さをイメージして嘆いていたが、往復出来れば退屈が少しは免れよう、但し二種廻向は師の法然の思想とも言われている、因みに廻向(回向)(注1)とは通常仏寺供養を言うが梵語に於けるパリナーマの漢訳で変化、進行を意味する、即ち己の積んだ善根を他人に振り向ける事である、回向の梵語記述はPariṇāmanā(パリナーマナー)と言い回は回転、向は趣向を意味するが「善根の振り向け」として使われる、回向偈は勤行・法要などの終わりに称える偈文である。
総回向偈と言い、「願以此功徳、平等施一切、同発菩提心、往生安楽国」願わくば功徳を一切平等に施し、菩提心を起こして安楽国に住めることを。
浄土真宗のもう一つの特徴として平安時代から総ての宗派が比重に相違はあるが神仏習合を採用したのに対して浄土真宗は行わなかった事と、法華経・般若心経を採用せず経典としては浄土三部経に限定されている、従って法華経では塔(Stupa、ストーヴァ)や塚に対する崇拝が強調されるが浄土系寺院に塔は存在しない、理由としては親鸞の改邪鈔に依れば「造像起塔等は弥陀の本願にあらざる所行なり」の‐‐‐起塔‐‐‐‐が守られているのかも知れない、真宗寺院は親鸞の在世中には存在せず信徒の集合場所が作られた、寺院が建立されたのは江戸時代初期以降との説がある。
かさねて言えば浄土真宗の寺には塔は存在しない、阿弥陀仏の本願は菩薩行すなわち報身仏(他力本願)の行である為云々と言う事で塔の建立は否定している。
浄土真宗には改邪鈔の否定する造像起塔とは真逆で新興宗教の様な珍寺が存在する、広島県尾道市瀬戸田にある潮聲山、耕三寺では・極彩色の五重塔・東照宮の陽明門等々、日本国内に於ける著名寺院コピー的な堂宇や仏像を看板とする博物館を呼称しながらの観光的な寺で親鸞上人が観たら破門は必至であろう、本願寺派の本願寺、大谷派の真宗祖廟、高田派の専修寺等を拝観して感じられる事は本尊.阿弥陀如来よりも祖師.親鸞がプライオリテーが上位に感じられる、即ち本堂よりも御影堂の方が広く造営されている。
造仏、起塔に付いて否定する真宗連合と、二律背反の教団が信ずる法華経には「法華経法師品第十」「多宝如来が湧き出す
三世覚如は親鸞の廟堂に専修寺の名称を掲げたが専修念仏禁止を掲げる比叡山の反発を受け、変更して掲げたのが本願寺の名称である。
覚如は親鸞の祖廟を一族で独占した為、親鸞の高弟で関東に基盤を持つ真仏の流れを汲み関東北陸東海を中心とした高田派・京都を中心とした仏光寺派近江大和を地盤とする木辺派(錦織寺)等は本願寺を離れて活動した、八世蓮如の登場までは勢力に於いて本願寺を遥かに凌いでいたとされる、要するに親鸞の教えを蓮如ではなく性信や真仏など「直弟二十四輩」のフィルターを通した教派が高田派、仏光寺派、興正寺派である、因みに親鸞の「直弟二十四輩」と言う二十四人の直弟子を挙げると*性信 *真仏 *順信 *乗然 *信楽 *成然 *西念 *証性 *善性 *是信 *無為信 *善念 *信願 *定信 *入西 *入信(穴沢) *念信 *入信(八田) *明法 *慈善 *唯仏 *唯信(戸森) *唯信(幡谷) *唯円となる。
但し異説もあり覚如の後を継いだ四世善如は1357年に亀山天皇の勅願所の指定を受けており、その後を継いだ五世綽如は北陸や美濃に、さらに六世巧如の時代には近江、加賀、能登にも本願寺の足場を構築していたと言う(新説真宗史・佐々木英彰・心泉社)。
蓮如の前半生の活動はまさしく中興の祖である、存如の長子であるが庶子であり厳しい教団内環境の中にあり異母弟蓮照との留守職(座主)争いで叔父如乗のクーデター説まである、しかし蓮如(慧燈大師)は不遇時代から真宗の教義を精読しており更に各地を巡礼し宥和一致の心を養う、四十三歳で八世に就くまでに影響力を行使できる足場を築いていた、蓮如に付いて梅原氏は「親鸞なくして蓮如は無いが、蓮如なくして浄土真宗はあり得ない」と言う、必ずしも正鵠とは言えないが一説には浄土真宗は蓮如以前には異端の念仏集団であったと言う人もある、多くの説があるが蓮如は庵に近い大谷廟堂を巨大な本願寺とした事に異論は無い。
現在真宗十派(後述)と呼ばれている浄土真宗の名称も過日は外部から一向宗(注12)、本願寺宗、門徒宗などと呼ばれていた、一向宗の呼称に対して蓮如は厳しく糾弾した、「平生業生」即ち普段の信仰が出来れば往生出来るとして本願寺を大発展させた蓮如が真宗名を強調して以来、浄土宗との間で大きな摩擦が続く事になった、1774年(安永3年)東西本願寺、仏光寺、専修寺等が幕府に申請したが浄土真宗との呼称は徳川幕府及び徳川家の菩提寺で浄土宗、大本山増上寺が反対し輪王寺宮が仲裁したが許可されなかった、明治政府でも1873年(明治5年)にようやく浄土真宗の呼称を許可された、1886年京都府は西を真宗本願寺派とし東を真宗大谷派とした、本願寺派(西)が浄土真宗を正式名称としたのは戦後であり、大谷派(東)以下の各派即ち高田・佛光寺・興正寺など九派は真宗を正式名称としている、因みに一向宗とは「一向専修念仏」すなわち一向(ひたすら)に阿弥陀如来の本願を信ずる宗派と言う意味である、因みに一向宗の呼称は別の一向俊聖の一向宗が存在していた経緯があるが、一向衆を吸収している為に真宗教団からは好ましい呼称ではない、因みに東本願寺が宗派として安堵状が出たのは家康の死後(教如の死後5年)で二代将軍徳川秀忠の時代、即ち1619年である。
一般論であるが日本仏教は一向一揆や法華一揆など当初は純粋に信仰がトップ プライオリテ(Top priority)に置かれたが、権力闘争による派遣争いに中に引き込まれて、統制下に飼い慣らされてきた。
1969年真宗大谷派の内部抗争から大谷光紹、法名興如(1925年3月9日~1999年12月24日)が住職をしていた東京本願寺を浄土真宗・東本願寺派として独立する、但し真宗十派で構成される「真宗教団連合」からは除かれている。
全国各地に東西両別院がある、お西は浄土真宗本願寺派○○別院、お東は真宗大谷派○○別院と呼称する、但し通称は西別院・西御坊さま---東別院・東御坊さま等と呼ばれている。
親鸞が九条兼実(注7)の弟で天台座主・慈円から得度された事もあり本願寺は青蓮院の脇門跡を呼称する事を許可されたが、長期間に亘り本願寺の座主は青蓮院に於いて得度を受ける事が義務付けられた,さらに青蓮院と本願寺の関わりは親鸞寂後に崇泰院の場所に影堂と墓所の設置を許可された事にもある、要するに天台宗の末寺待遇であり六時礼讃を行っていたが、これを蓮如が取りやめて正信偈・和讃を取り入れた、これは浄土真宗の独立宣言かもしれない、因みに正信偈・和讃は現在に於いても重要視され親しまれている。
比叡山(青蓮院)は三塔十六谷に割拠し互いに競っても、惣寺としての結束に付いて必要時には守られた様で洛内に於いて布教の許可すなわち「允許」は比叡山の山徒、衆徒が実権を持つ「寺家」の承認を必要とした。
キリスト教の場合異端は異教の罪より重いとされる、しかし蓮如は異端に対して否定しつつも広い許容度(tolerance・トレランス)を所持していた、即ち異端、異教徒決めつける事は無かった、親鸞の思想か不詳だが蓮如は言う「諸神諸仏菩薩を軽んずべからず」にあろう。
また蓮如はライバル(仏光寺派等々)を自陣に取り込む術に長けていた様である、対話の中に於いて仏光寺の経豪(後の蓮教)を帰依させる等、仏光寺派54寺の内48寺を薬籠中に納めている。
ここで異端(heterodoxy・ヘテロドキシー)と異教の概念に付いて述べると、異端の場合は啓示、教義、信条を共有するが支配する教派では無い即ち正統(orthodoxy・オーソドキシー)からの離脱派閥を言う。
真宗弘通の功労者、蓮如の時代京都の山科を本拠として教団、末寺を組織化整備し強大な勢力となった,しかし十世証如の時代には本拠地を大阪石山本願寺に移して居り、強大な財力と武力も保持するようになると弟子達の中にも野心を持つ者が現れた、一五七〇年には織田信長との間で石山本願寺一揆が起こり朝廷の斡旋による講和まで十年余期間を要した、蓮如の時代浄土真宗の活力は農民であるが「宗教戦士」即ちReligious militant(リリジャスミリタント)、が多く存在し脅威に値した、吉崎(越前)山科(山城)石山(大阪)に本願寺を興した、これは単なる寺ではなく寺内町を堀や土塀で囲む城と言える拠点であった様子が覗える。
石山本願寺を退去後、千五百九十一年十一世顕如は豊臣秀吉から京都七条(現西本願寺)寺地を与えられた、その後徳川家康は勢力の分散させる意味もあり顕如の長男で石山本願寺時代に和戦で対立し義絶していた教如に東を弟の准如に西を与えて現在にいたる。
本願寺の名称由来として大無量寿経48願の内、第18願を王本願と言い、「十方の衆生が阿弥陀如来の浄土に入る事を念じて南無阿弥陀佛を念ずれば往生を遂げさせる」この請願から本願寺と言はれる。 (念仏往生之願 設我得佛 十方佛 十方衆生 至心信楽欲生我国至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法)
親鸞が六角堂に篭り救世観音に祈り夢告の中で聖徳太子の示現(注8)を受けた伝承は有名であるが、三帖和讃すなわち「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」を著す論理性にセンシティブ(sensitive)な親鸞から
浄土真宗は迷信を否定する宗派である、親鸞に付いて五木寛之氏は「佛教への旅(講談社・日本アメリカ編)」のに中で、「親鸞は博覧強記の勉強家であると同時に、学を究め、論理を究めることについて、とことん徹底した人だった、ーーーーーー」と否定的に述べている。
六角堂夢告(注13)には真言密教の教科書とも言える
聖徳太子の佛教は三経義疏(勝鬘経義疏・維摩経義疏・法華義疏)が主流であり十七条の憲法を含め三経義疏を太子の著作と認定しなければ聖徳太子の偉大な存在は疑問視される事になる、聖徳太子はとりわけ法華経を重要視したと梅原猛氏は言う、しかし親鸞の浄土真宗・真宗に於いて三経義疏は全く採用していない、また三経義疏と真宗の根本経典である浄土三部経や教行信証(顕浄土真実教行証文類)との接点は隔たりが大きくあり二律背反とも言える部分が多い、「歎異抄」の内で「正像末和讃」「皇太子聖徳奉賛」があるが、平安末時代は天台宗を筆頭に太子和讃は大勢を占めていた為に親鸞の専売ではない。
閑話休題、聖徳太子に付いての疑問説に付いての皇太子聖徳奉賛であるが、日本仏教を先駆けた僧侶は法興寺(飛鳥寺)の道昭(627~700年)と妙楽寺(談山神社)の定慧(643~666年)と言われている、定慧は中臣鎌足の長子で藤原不比等の兄であり悲劇の僧である、聖徳太子の伝承と交錯しているとされる人物である、同じく悲嘆の内に没した桓武天皇の弟である
また論理(logical)制の追及に厳しい親鸞が示現を信ずるとは考え難い、太子の絵画が本願寺本堂に掲げられる等、真宗聖典507ページや高田派に伝わる「皇太子聖徳奉賛」や仏光寺派の「光明本尊」に太子像が顕わされているが、六角堂に関する太子信仰と真宗・浄土真宗に論理的な接点を見出せない。
真宗の内に親鸞は十七条の憲法にスタンスを置いていたと言う人もあるが十七条の憲法は官僚に対する心得書の枠を出ていない、更に太子評価の高い日本書紀等(注9)に於いては太子信仰を助長する為の粉飾がある事は否定できない、太子に関して史実としての実証性は義疏の教義内容を討議するには不要であるが、教義に類似性の無い真宗に於いては検討の必要があろう。
真宗系には他力本願である為に戒律はない、戒名とは呼ばれず法名と言う、また本尊は阿弥陀如来であるが真宗・浄土真宗に於いては仏像や絵画は隅に置かれている、墨筆で阿弥陀の名前を
歎異抄は言う、阿弥陀如来の誓願は凡ての衆生を救済する、ただ弥陀を信仰するのみ「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要すとしるべし」。
ひろさちや氏の古寺巡礼に書かれている、「信仰の請求書」ではなく、「領収書的信仰」と言うが、語彙を変えれば「感謝状的信仰」が浄土真宗にはある。
近年浄土真宗に於いては20世紀初期に途絶えた節談説教すなわち、笑いを呼び教義に節を付けて簡易に咀嚼した説法の復興が見られる様である。
浄土真宗の場合の本尊は紛れもなく阿弥陀如来であるが、真宗の場合は独尊立像が本尊であるが、浄土宗では観音菩薩と勢至菩薩を従える三尊形式が採られている。
親鸞は「弟子一人ももたず候う」とされるが、比較的著名な弟子だけでも七十名程に及ぶ、*高田の真仏(栃木県)、*横曾根(千葉県)の性信、*鹿島(茨城県)の順信、*佐島の常念、*河和田の唯円、*奥州大網の如信等々が挙げられる。
基軸経典は浄土三部経であるが大無量寿経を最重要経典としている。(大無量寿経 ・阿弥陀経 ・観無量寿経) その他・正信念仏偈・御文(御文章)・讃仏偈が読誦されている、御文に対する呼称は宗派により微妙に相違があり、本願寺派では「御文章」、大谷派では「御文」、興正寺では「御観章」と呼ばれている、因みに江戸時代以前は御文と統一されていた、脱線するが阿弥陀経の読誦は通常は呉音で読誦されるが、本願寺では報恩講や本願寺歴代
の祥月命日等に漢音で読まれる事もある、浄土真宗のシンボル(symbol)と言える最大行事に報恩講がる、本山は無論の事、末寺も一体となるイベント(event)である。
無量寿経は勤行に用いられる部分に「四誓偈」があり浄土宗で重用されている、因みに浄土真宗では「重誓偈」「三誓偈」として用いられる。
また「弘願門」と言われるが、阿弥陀如来の誓願を弘願と言い、十劫の昔に弥陀が成仏された時点で衆生の往生が成立している、無量寿経に四十八願ある内で真宗系では第十八願を強調する、浄土宗系では四十八願全体を言う様である。
浄土真宗に行は無いとされるが、大谷派(東本願寺)では坂東曲と言う行的な行事がある、これは親鸞が流罪の折に荒波に晒される中で念仏を唱え続けた姿を具現し、体を揺らしながら念仏する行である。
親鸞(1262年11月28日・弘長2年・旧暦)の忌日法要すなわち報恩講は翔月命日の前後に行われる、また真宗十派それぞれの本山で行われる会を「御正忌報恩講』と言う。
浄土真宗で特筆すべきは明治政府の宗教統制・国家神道に誘導する政策に反対し信教の自由を提唱し、いっていの成果を得る先鞭を付けたのが本願寺派の島地黙雷(1833年~1911年2月3日)であり続いたのが大谷派の清沢満之(1863年~1903年6月6日)であろう。
本山と別院の関係について、別院は**教区と呼ばれ寺名を持たない別院が大勢を占めている、但し大谷派では寺名を併せ持つ寺(15ケ寺)がある、京都山科別院(長福寺)をはじめ岐阜県を例にとれば大垣教区は「開闡寺」、海津教区には「二恩寺」、高山教区では「昭蓮寺」がある、別院制度が確立される以前にも親鸞を祖とする真宗・浄土真宗寺院は多く存在していた、別院にも歴史や背景、地域性が深く関わり発展した。
中でも当初から**寺→**別院と呼称されるケースと、**御坊→**別院、**掛所→**別院、がある、それらが複雑に絡み合って呼称されているケースが存在した様である。
例えば岐阜に例をとると、岐阜別院の場合は、小熊御坊(江戸時代)→東本願寺出張所(1872年、明治5年)→岐阜別院(1877年、明治10年)。
竹鼻別院の場合は、木瀬の草庵→河野御坊(江戸時代)→専福寺→竹鼻別院(1876年、明治9年)
笠松別院の場合は、一宇(1931年、天保2年)→東本願寺掛所→笠松別院(1876年、明治9年)となっており、寺や道場の前身→様々な歴史を経て、江戸時代には「御坊さん」と呼ばれる様になる、さらに明治期に別院と呼称される。
名古屋別院など他の地域でも概ね同じ流れで、全国の多くの別院は明治9年頃に別院制度が完成している、また明治期から建立の札幌別院は、大谷派が開拓と大きく関わっていたこともあり、東本願寺管刹地所(1870年、明治3年)→札幌別院(1876年、明治9年)と言う様になった。(本山と別院の件は、真宗大谷派・大垣教区駐在教導、文学博士・棚橋めぐみ師からのご教授)
因みに開闡とは解き明かす事を意味する、愚禿親鸞集の序に「それおもんみれば、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰なり。」とあり開闡寺と言う寺名は浄土真宗を標榜する同名の寺は存在している。「顕浄土真実信文類」蓮如が建立した山科本願寺跡には土塁跡の山科中央公園を挟む形で浄土真宗本願寺派(山科区東野孤藪町29)と真宗大谷派(長福寺・山科区竹鼻サイカシ町13-17)の別院が建てられている。
日本仏教は浄土系宗派など一部分を除いて深く影響を受けていると言われるが、南無阿弥陀仏、南妙法蓮華経っと唱えるだけで誓願が叶えられると言うが、行は密教が先駆であると言う人が居る、念仏、題目、呪文とも真言と言えるかもしれない、dhāraṇīの意味は「仏の教えを正確に聴き記憶し保つ」、即ち無明煩悩を滅ぼす功徳を言うが呪文に変化する、陀羅尼とは音訳であり意訳すれば「総持」が近いと考えられる、また功徳の言葉とか・・を所持するものを意味する、呪文の中に無量の徳を有し降伏、治病、護法等を含む、即ち陀羅尼は無量の功徳を持つとされ密教誕生の導火線となった、空海は般若心経秘鍵に於いて真言、陀羅尼は”如来の秘密語”と言った。
高村光雲の手になる蓮如の銅像(台座を含む総高12m)が吉崎御坊跡に建っている、また毎年四月には御影道中が真宗本廟から吉崎別院まで500㌔の郷里を御下向されている。
浄土真宗本願寺派に本来存在しない五重塔を所持する寺がある、
*本願寺八世蓮如が詠んだ著名な御文で人間の無常観を読んだ文である、鎌倉時代の真宗学者存覚が残した「存覚法語」を基に制作された。
白骨の御文 「それ人間の
信徒数約千三百万人、 寺院数20,704ヶ寺
依経 浄土三部経 *大無量寿経 (
注1、廻向 梵語pariṇāmā(パリナーマナー)大乗佛教の特徴的な哲学である、インド哲学用語では能変・転変と訳される、回転趣向の略で回向とも言い回は「めぐる」向は「振り向ける」を意味する、 国語辞典に依れば、死者の成仏を願っての仏事供養、ー修めた功徳を他人にも差し向けて自他ともに悟りを得る,もう一つ阿弥陀如来が衆生をを浄土に呼ぶ為に振り向ける事も回向である。 「回向」とは「回」は回転、「向」は趣向の意。
浄土真宗では阿弥陀仏が人々に救いの働きを差し向けて浄土に迎えとること、-寺への寄進、と記述されている。
晩年の親鸞の思想には二種類の廻向があり、往相廻向と還相向廻とがあり、二種類の往生即ち真仏浄土と化身浄土とがある。南無阿弥陀仏を唱える人間に阿弥陀如来は、極楽浄土行きのチケット・往相廻向だけではなく、極楽浄土から娑婆への帰るチケット・還相廻向をも与えられたと言う。
成仏得道を祈念する事も回向という、また三種回向と言う分類がある、・善根を己の覚りに向ける菩提回向・衆生に利益を向ける衆生回向・平等真実を覚る実際回向がある。
注2, 阿弥陀浄土を論ずるには五念門があり、礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向の五門があり、特に重要視されるのは観察(浄土を観想)であり、17種の国土荘厳・8種の仏荘厳・4種の菩醍荘厳よりなるとされる。
注3、「正信偈」
注4、 20世紀初頭まで親鸞の実在を疑う説も存在したが、1921年西本願寺から妻の恵信尼自筆の「恵信尼消息」10通が見つかる,また親鸞直筆が確実視される「無量寿経註」「阿弥陀経註」が発見され実在が証明された。
注5、歎異抄と悪人正機 親鸞を顕す両輪に「教行信証」と「歎異抄」があり前者は手法を示し後者は心を示している。
親鸞の晩年まで苦楽を共にした弟子唯円による歎異抄の第三条に記述される、本願他力の意趣を尊重した記述である、善人とは他力本願でなく自力で成仏・往生を目指す異教徒・異端者を言う、悪人は無信仰者を指し法律違反者を言うわけではない、阿弥陀如来の本願は総ての人間をサルベージの対象としており、親鸞の教えは善人・悪人の差別は存在しない。
歎異抄に於ける出色は第五条に「父母の供養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだ候はず。そのゆえは、一切の有情はみなもって世々の父母兄弟なり」と述べている。
阿弥陀如来のサルベージを信仰し他力による本願の意趣に心酔する親鸞を描く歎異抄は「序」「親鸞の語録1~9」「唯円の歎異抄10~18」「述懐」で構成されており、先祖供養の否定や、お布施の徴収に消極的である、蓮如以来宗門の中で封印され存在を知られていなかった、徳川時代に真宗の深励の「歎異鈔講林記」(真宗大系)・了祥の「歎異鈔聞記」(真宗大系別巻)は存在したが「歎異鈔聞記」が出版されたのは明治41年である、以後真宗・大谷派の清沢満之師たちの努力で浄土真宗の外にも大きく脚光を浴びた著作である。
歎異抄を扱う戯曲に「出家とその弟子」倉田百三著・新潮文庫がある、真宗の哲学を清沢満之は見事に表現している、即ちデカルトの”我思う 故に我あり”を捩って”我思う 故に弥陀ある”と述べている(末木文美士「浄土思想論)から。
因みに歎異抄とは親鸞の滅後に真宗教団内に興った異論や異端を歎いた書であり、如信説・覚如説・唯円説がある、浄土真宗の他力本願の奥義を易しく解説した仏教書である、一向一揆の思想は歎異抄が原点との説がある。
注6、 釈迦の前世に於ける善行動を物語化した本生譚(ジャータカ)が嚆矢とされるが、インドには四弘請願はなく、中国に於いて起こり日本の浄土教で重要視されている、本来は総ての菩薩の必須科目で目標を誓願する事を本願と言う、本願の梵語のプーループラニダーナ(purva-pranidha)と言い宿願とも訳せる。
本願寺の呼称は阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八誓願(本願)に由来しているが、本来は浄土真宗だけのものではない。
四弘請願とは *衆生無辺誓願度 *煩悩無量誓願断 *法門無尽誓願学 *仏道無上誓願成、とされこれ等を「総願」と言う。
「別願」の例を挙げれば*阿弥陀如来の四十八誓願 *薬師如来の十二誓願 *普賢菩薩の十大願などを言う。
注7, 九条兼実―平安末期の公卿、藤原忠通の三男、天台座主・慈円の実兄、千百六十年非参議・六十四年内大臣・六十六年右大臣・源頼朝に接近九十一年関白となる、千二百二年出家し円証と名乗る、念仏信者で法然の最大の理解者、五摂家の内、直系の子孫が二条家・一条家を起こす。
注8、示現伝承とは如来や菩薩が姿を変え現世に現れる事を云う、六角堂に籠り救世観音から「法然の下へ行け」後に「行者、宿報にてにてたとい女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生のあいだ、よく荘厳にして、臨終に引導して極楽に生じしめん」 と言われた、親鸞はこれで公然と妻帯したとされる。
注9、近代歴史学は三経義書疏・十七条憲法などは太子信仰に関するもので大山誠一氏等の虚構が腑に落ちる。
津田左右吉(1950)久米邦武(1988)は「聖徳太子伝歴」「日本書紀」は創作である。 福山敏男(1935)は法隆寺釈迦三尊や薬師如来の銘文は後世の作文。 藤枝晃(1975)は敦煌の文献の比較で三経義書疏は中国で書かれた。 大山誠一(1998)
注10、大般涅槃経 釈尊の遺言と言うべき経典で遺教経とも言い正式には「佛垂般涅槃略説教戒経」がある、曇無識訳もあるが、鳩摩羅什の訳で弟子達に対して遺言の収録で持戒と徳行を強調しており、特に曹洞宗に於いて重用している、同様の経典に「大般涅槃経(大パリニッパーナ経、Mahāparinirvāṇa
Sūtra)」「仏般泥洹経」「長阿含経」等がある。
注11、分派(真宗教団連合の外) 一部重複するが、明治以降に離脱した宗派 ・真宗浄興寺派(浄興寺)上越市 ・真宗長生派(長生寺)
横浜市 ・真宗北本願寺派(北本願寺) 北海道 ・浄土真宗同朋教団(方今道平等院) 石川県 ・淨土真信宗浄光寺派 福岡市 ・門徒宗一味派 北海道 ・弘願真宗
聖玄寺 福井県 ・仏眼宗慧日会 霊鷲寺 神奈川県 ・浄土真宗遣迎院派 遣迎院 京都市
真宗大谷派騒動により分派した宗派、
・浄土真宗東本願寺派(東京東本願寺) 東京都台東区 ・本願寺維持財団(東本願寺東山浄苑) 京都市山科区 ・本願寺 大谷本願寺 京都市右京区 ・本願寺京都市伏見区
注12、一向宗とは本来は踊躍念仏の一向俊聖が興したもので、真宗門徒も一向一揆に参加したり、自ずから一向宗を呼称した門徒も存在した、因みに一向俊聖の一向宗は江戸時代に、やはり踊躍念仏の一遍すなわち時宗に併合させられた。
注13、 六角堂夢と如意輪末車去車とは内容的には同じと言える。
*六角堂夢告、「行者宿報設女犯 我成玉女被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
*如意輪末車去車 本尊変王玉女事、「若発邪見心 婬慾熾盛可堕落於世 如意輪我成王玉女 為其人親妻妾共生愛 一期生間荘厳以福貴 令造無辺善事 西方極楽浄土 令成仏道莫生疑」 (空海をめぐる人物日本仏教史 正木晃 春秋社より)
注14、各宗派内部の序列格式としての寺格制度が定着する。
臨済宗寺院を五山、十刹、諸山、林下に分類した、曹洞宗では「別格寺院」を常恒会、片法幢会、随意会に、「法地(普通寺院)」を1~4にし、その下部に「平僧地」を置いた、浄土真宗では院家、内陣、余間、飛檐、平僧に区分した、さらに複雑な寺格が定められて上納金によって昇進することが出来た、1871年(明治4年)に寺格は廃止されたが現在も教団には残されている。
主な寺院 (真宗十派) 真宗教団連合 1969年(昭和44年)結成
* 浄土真宗・本願寺派 本願寺 京都市下京区堀川通り 如信・覚如(血脈) (西本願寺--通名)浄土真宗・本願寺派も第二次世界大戦以前は真宗を呼称していた。
* 真宗・大谷派 真宗本廟 京都市下京区烏丸七条上ル 如信・覚如(血脈) (東本願寺--通名)真宗本廟の呼び名は親鸞の孫娘である覚信尼が大谷廟堂を興した事に関連がある。
* 真宗・高田派 専修寺 本山 三重県津市一身田町 真仏 (法脈) 本寺 栃木県真岡市高田1482
* 真宗・佛光寺派 佛光寺 京都市下京区堀川七条上ガル 真仏
* 真宗・興正寺派 興正寺 京都市下京区堀川七条上ガル花岡町 真仏‐‐蓮教、蓮秀
* 真宗・木辺派 錦織寺 滋賀県野洲市木部826 如信・覚如・存覚
* 真宗・山元派 証誠寺 福井県鯖江市横越町 親鸞に義絶された善鸞系
* 真宗・出雲路派 毫摂寺 福井県武生市清水頭町 親鸞に義絶された善鸞系
* 真宗・山門徒派 専照寺 福井市みのり2丁目3-7 如導
* 真宗・誠照寺派 誠照寺 福井市本町3丁目2-38 道性
本寺は親鸞が流罪中に活躍した拠点であったらしい、本山は神宮(伊勢)の念仏信徒との関連が強い様である、専修寺は本山と本寺の二寺があるが曹洞宗の場合は寺格が同じ大本山が二寺ある、福井県吉田郡の吉祥山・永平寺と神奈川県鶴見区の諸獄山・総持寺がある。
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺 東京都台東区西浅草1 -5-5 真宗教団連合外 (真宗教団連合等からは異安心的な存在)
真宗十派の特徴
真宗十派 |
本山名 |
焼香 |
伽藍配置 |
頭目 |
五帖御文 |
教行信証 |
燭台 |
念仏 |
本願寺派 |
本願寺 |
一回 |
阿弥陀堂――御影堂 角柱 |
門主 |
御文章(ごぶんしょう) |
御本典 |
宣徳銅器 |
なもあみだぶつ |
大谷派 |
真宗本廟 |
二回 |
御影堂――阿弥陀堂 丸柱 |
門首 |
御文 (おふみ) |
御本書 |
鶴亀燭台 |
なむあみだぶつ |
佛光寺派 |
佛光寺 |
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高田派 |
専修寺 |
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如来堂――御影堂 |
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興正派 |
興正寺 |
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三門徒派 |
専照寺 |
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誠照寺派 |
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山元派 |
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出雲路派 |
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木辺派 |
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*只今工事中です。
真宗の主な系図 (浄土真宗)
┬─ 浄土真宗・東本願寺派 興如(東京・本山東本願寺)
親鸞 ── 如信 ── 覚如 ── 蓮如 ── 顕如 ── 教如 ─┬─┬─ 大谷派 真宗本廟(東本願寺)
│ │ │ │ └─ 浄興寺派 浄興寺
│ │ └─ 准如 ─── 本願寺派 本願寺(西本願寺)
│ │ ├── 長生派
│ │ └── 同朋教団
│ ├───────── 善入 ──────────── 出雲路派
毫摂寺
│ └───────── 存覚 ──────────── 木辺派
錦織寺
└──真仏 ─── 源海 ── 光教 ── 経誉 ─┬── 佛光寺派
佛光寺
│ │ └── 浄光寺派 浄光寺
│ └─ 経豪 ─────┬─ 興正派
興正寺
│ ? └── 門徒宗一味派
├─────────── 顕智 ─────┬──── 高田派
専修寺
│ └──── 北本願寺派北本願寺
└─────────── 専海 ─ 道性 ─ 浄如 ─ 山元派
証誠寺
│ └─ 如覚 ── 誠照寺派
誠照寺
└ ── 如道 ──── 三門徒派
専照寺
系列大学
龍谷大学 (浄土真宗) 京都市伏見区深草
大谷大学 (真宗) 京都市北区小山
京都女子大学(浄土真宗) 京都市東山区今熊野北日吉町
同朋大学 (真宗) 名古屋市中村区稲葉地
京都光華女子大(真宗) 京都市右京区西京極野田町 39
名古屋造形芸術大学 愛知県小牧市
名古屋音楽大学 名古屋市中村区稲葉地
愛知文教大学 愛知県小牧市
愛知新城大谷大学 愛知県新城市川路
大阪大谷大学 大阪府富田林市
武蔵野大学 東京都西東京市
2,004年6月16日 2005年1月7日 5月14日 加筆6月4日 2006年8月注5 2008年12月24日 異説 2013年5月24日 2014年5月11日自然法爾 10月7日現生正定聚 2015年7月27日報恩講 ㋈㏭ 2017年2月26日 9月6日 11月11日 12月17日 2018年9月18日 10月2日 2021年1月6日 2021年3月12日 3月14日 4月12日 2022年3月11日 6月7日
大谷派 教学研究所 075-371-8750