浄土哲学は二世紀頃インドに於いて大無量寿経や阿弥陀経の編纂と時を略同じくして興り、二世紀後半には中国で興隆する、優れた人材も多く輩出し *
浄土とは覚者を目指して精進する菩薩の住む清浄な国土を言う様である、浄土は仏、菩薩の数だけ存在すると言われる。
佛教と言う潮流の内に於いて日本を含む東アジアで興隆したのが阿弥陀信仰の浄土教系、すなわち浄土を奉する宗派は多い、*浄土宗系 *真宗教団連合(本願寺派 真宗大谷派 仏光寺派 高田派等) *
梵語(sanskrit)には浄土に該当するタームは存在しない、イメージ的には死後の世界である、但し浄土系諸宗が
余談になるかも知れないが、「仏像の心とかたち」のカラマゾフの兄弟の所を読んでみよう、イヴァンは神は無いと言う、アリヨーショカは神は在ると言う、会話の後イヴァン曰く、もし神を考え出さなかったら文明は無かった(NHKブックス 梅原猛他)。
浄土哲学は原始仏教には観られず大乗仏教以後の発生である、法然の提唱した浄土三部経に於いても阿弥陀経や三部経から外れるが「平等覚経」では浄土の存在を信じた設定である、後の大無量寿経では空の哲学が入り実在の設定は無い、但し浄土信仰は三部経の発祥以前から存在していた様である。
興隆は浄土信仰の興りを起点とする現実の世界、すなわち
浄土信仰は鈴木大拙氏に依れば中国と日本では違いがあると言う、日本浄土教は独自の文化及び宗教意識が育まれた日本の霊性があるという。
天国(キリスト教世界)、神の国(神道世界)、緑園(イスラム世界)、極楽(阿弥陀世界)、(安楽な世界)地獄、
天国と地獄の存在論、即ちオントロジー(ontology)であるが、アメリカを中心とするプロテスタント世界の存在認識は高い、但し日本ではヒエラルキーすなわち組織の階層構造無い為か、極楽も地獄の存在を信ずる層は一義婁しく低い。
古来インドに於いては「
即ち阿弥陀如来に帰依することにより
中国は佛教将来以前からの哲学、思想、宗教が発達しておりインドとは異なる発展を遂げた、即ち中国天台である、浄土教であり禅宗である。
浄土信仰はインドでは論理的には世親(vasubandhu、ヴァスバンドゥ)により確立された様である、これが中国に亘り三流(
浄土すなわち「淨佛国土」の哲学は「阿閦佛国経」を嚆矢として「大無量寿経」「大品般若経」「華厳経、十地品、入法界品」「法華経」等に記述されっている、下述するが浄土の熟語は大無量寿経の記述のみである、閑話休題、浄土と極楽とは印象が異なる様である、すなわち浄土は静寂かつ耽美な世界を連想するが、阿弥陀経による極楽は金銀財宝に輝くラグジュアリー(luxury)
大乗仏教と共に創りだされ阿閦如来に始まり阿弥陀如来・薬師如来等の「他土仏信仰」(注3)と共に多くの浄土が創造された、浄土の総数は仏の数だけ存在すると言われる、一説には如来・菩薩の数は十万億とも二百十億の浄土があるとされる、浄土とはインドに於いてはこん跡は見られないが、中国に於いて生まれた熟語の可能性が高く、梵語には適切な語彙は無い、sukhāvatī(極楽浄土・スカーバテイー) buddha-ksetra(ブッダ‐クシェートラ)かsukhāvatī(楽土の在る所)すなわち仏国土が近いとされている、楽しい=sukhā 有する処=vatīである、立川武蔵氏は有楽町の有楽がスカーバテイの直訳に近いと言う。
したがって仏国土・浄土と言う観念は本来インドには無い、また浄土教の言う熟語も中国製であり
一説には善導が浄土三部経すなわち阿弥陀経 ・大無量寿経
・観無量寿経を選択した事を嚆矢とも言われる、般若心経・阿弥陀経や観無量寿経に浄土信仰の極地とも言える「
天台を例に挙げれば唐の天台智顗に拠れば仏国土を以下の四種に分類される。
1、
2、
3、
4、
上記 4、の常寂光土が最高位に位置しており、この名称を使用している寺が右京区嵯峨小倉山小倉町にある(常寂光寺)。
定かな浄土信仰は中国で発生した様で、念仏三昧の慧遠流・坐禅も取り入れる慈愍流・易行を言う善導流が興り、日本浄土宗系に於いては善導流が取り入れられた、日本の浄土信仰は飛鳥時代に弥勒菩薩信仰と共に栄えたが奈良時代後半には阿弥陀信仰に主役の座を空け渡した。
比叡山 延暦寺では円仁入唐の際に五台山に巡礼し五会念仏による念仏三昧法を持ち帰えった事により天台宗の中で浄土信仰が育つ基盤が出来上がった、その環境の中で出現した逸材たちが良忍・源信・法然・親鸞・日蓮達である。
下表は歴史上浄土信仰が現れた順番に表した、浄土と言えば本来は仏の数だけ存在するものだが、語られる浄土は阿弥陀如来の極楽浄土、と弥勒浄土に尽きると言っても過言ではない。
浄土の象徴としての阿弥陀如来の極楽浄土であるが、大無量寿経や極楽の情景を詳細に説く阿弥陀経に拠れば西方十万億土すなわち十万億の仏国土の彼方にあり、無量光の世界で周囲は金、銀、
但し
浄土の多くには女性が居ない、男女差別が強いバラモンの思想からのサルベージとして、初期大乗仏教興隆の先端と言える「八千頌般若経」や「大集経全17分の内第九宝幢分の女が男に生れかわる思想」等の影響をうけ「変成男子転女成男」即ち男性への性転換が考えられたと言えよう、但し弥勒菩薩の住む兜率天は唯一女性が存在するとされる、因みに玄奘や空海は弥勒浄土すなわち兜率天での転生を希望したと言う、これにはムスリムの哲学が思い出される、すなわち娑婆に於いては禁酒、不倫など厳しい戒律下にあるが、緑園(イスラームの聖地)に行けば永遠に処女を失わない女性を侍らせ美酒も飲み放題の世界と言う、厳しい禁欲を厳守した玄奘や空海がなぜ兜率天を望んだのか興味がもてる。
浄土すなわち「
極楽浄土は輪廻する六道の範疇にあるのか知らないが、六道の天界とすれば蓮の上に座して妙なる調べを聞いている状態では、次の輪廻に対して善悪の判断は、お釈迦様でも難儀であろう。
極楽浄土の情景を観るには鳩摩羅什の創作とも言える見事な漢訳された阿弥陀経に尽きよう、*「
観無量壽経では極楽浄土には九種のランクがあり「三輩九品往生段」(注10)と言い上品上生から下品下生まで有り、それぞれ阿弥陀如来の印相が決められている。
「
永遠の生命が保証され解脱を目指しての説法が聞ける極楽浄土の対極に地獄があるが、地獄は六道の中にあり脱出に要する期限は一兆六千億年とも数億年とも言われる。
ちなみに釈迦如来の特徴として自土仏であり浄土は存在しない、全ての如来・菩薩などが浄土を持つのに対して、娑婆すなわち
極楽浄土に次いで知られているのは観音菩薩の住む補陀落山がある、「華厳経」には南方海上の山頂にあると言い大唐西域記にも記述がある、中国には浙江省・普陀山が言われている、但し普陀山は浄土と言うより中国仏教に於ける四大名山の一山で観音の聖地である、四大名山とは山西省の五台山(文殊菩薩) 四川省の峨眉山(普賢菩薩) 浙江省の普陀山(観音菩薩) 安徽省の九華山(地蔵菩薩)が言われており、菩薩の聖地である。
日本に於いては日光・二荒山が観音浄土との伝承がある、また悲惨な生贄とも言える補陀落渡海信仰が那智山にも存在した。
親鸞の本願寺親鸞大師御己証并辺州所々御消息等類聚鈔、すなわち「末燈鈔」に依れば浄土は十万億土の西方に在るのではなく現世に在ると解釈できる、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」すなわち信仰が定まる時が浄土に居ると言える。
仏土には四種あり唯識では・
爾前経と言う経典には凡人の住む裟婆「穢土」覚者に成れない二乗の「方便土」菩薩の住む「実報土」如来の住む「寂光土」に分類している、因みに法華経の解釈では覚者となった前半42年を爾前経(方便権教)として後半の8年を法華経(真実の実教)としている、因みに娑婆であるが梵語sahāの音訳で「集会場」「堂」「大地」等の意味があるが「堪忍」という漢訳がある。
浄土は本当に存在するのか?、古来中国では *浄土や阿弥陀如来は心の中に存在する、即ち「
鳴かないホトトギスに対する三英傑の比喩が知られているが、五木寛之氏はジョーク的に浄土に蓮で転用している、*源信――― 泥中にありて花咲く蓮華かな。 *法然――― 泥中にあれど花咲く蓮華かな。 *親鸞――― 泥中にあれば花咲く蓮華かな。
浄土名
尊 名 |
経 典 |
浄 土(仏国土)名 |
弥勒成仏経・弥勒下生経・他 |
兜率天(兜率天は天界であり本来は浄土ではない) |
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阿閦仏国経・維摩経 |
妙喜国浄土 亜比羅提世界 |
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浄土三部経 阿弥陀経・観無量寿経・大無量寿経 |
西方 極楽浄土 (sukhāvatī) |
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薬師如来本願経 他 |
浄瑠璃浄土 |
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密厳浄土 |
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多宝如来 |
法華経11章 (見宝塔品) |
東方無量千万億阿僧祇宝城国・多宝如来は宝勝如来とも |
天鼓雷音如来 |
初利天 |
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観音経 (法華経の内) 阿弥陀経 |
補陀落山 |
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清涼山 |
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地蔵菩薩本願経 |
伽羅陀山(須弥山の麓) |
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その他 |
法華経 |
霊山浄土霊鷲山・法華経が説かれたとされる所) |
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十方浄土・他方浄土。天竺浄土・等 |
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地獄(奈落naraka・地獄) 仏教には十界と言う世界観がある、更に四聖と六道に分類される、四聖の内訳は *如来界 *菩薩界 *縁覚界 *声聞界があり、六道には *天道 *人道
*修羅道 *畜生道 *餓鬼道 *地獄道になる、地獄は前述した六道の底辺に位置し、そこでの寿命は極端に長い、一番軽度な想地獄でも1兆6653億年程と言う。
本来初期佛教、大乗仏教に地獄は存在しない、唯識は無論のこと大乗仏教、上座部仏教とも佛教に於いて空は総ての実在論を否定する、地獄は衆生を導く為の方便として法華経に記述があるが、維摩経や般若心経等々に記述はなく所謂仮設(仮説)でしかない、言い換えれば佛教の場合の地獄は教義ではなく説話として伝播したと言える、即ち人の心の外に於いては実在するものはない、伝え聞く処に依れば中村始氏曰く地獄とはヒンズー教の伝承が嚆矢と言える様だ。
玄侑宗久氏は地獄に付いて、中国、日本では仏教が輪廻転生の信仰が抜け落とした為に火葬と言う埋葬法を継続する為には死後の保証として必要であったと言う、脱線するが聖書は無論のことユダヤ教、キリスト教にも地獄に付いての記述はない、但し最後の審判に於いて永遠の死の宣告がある、但しイスラームには緑園も地獄もコーラン(最後の審判)に記述がある、しかも生身に人間が行く処である、然も期間は永遠である、仏教説話の場合の地獄は最短で1兆6千200億年(1兆6653億年と多説言われる)で六道輪廻に戻る為に一応無限ではない。
地獄極楽の思想は本来道教の領域かも知れない、道教では地獄に於ける死後の裁判は十回、すなわち赦免の機会が十回ある、地獄と言えば閻魔大王であるが当初は楽園の主と観られていた、第一審の担当であったが、判決が寛大すぎて第五審の変更されたと言う、閻魔大王の役割の一つに付いて、地蔵十王経に依れば五十七日目の審判を担当しており、嘘を見抜く
浄土が作られ対極に地獄が仮設された、しかし極楽浄土は大乗佛教の副産物であるのに対して、地獄の歴史は古く古代インドに於ける
世親(南都六宗倶舎宗参照)は倶舎論の中で地獄の位置を娑婆の地下にあると言う、
平安時代の人々には地獄は恐怖の場所であった様である、呪文をパロディー(parody)化するほど論理性にも秀でた清少納言でも“小部屋に隠れ臥した”と地獄絵の恐ろしさを枕草子の七十七段で記述している。
主に天台宗の分類に十界があり仏界菩薩界 縁覚界 声聞界の四聖悟界があり、その下に 1,天界 2,人間界 3,修羅界 4,畜生界 5,餓鬼界 6,地獄界の輪廻転生(梵語saṃsāraサンサーラ)する世界があり軽い地獄ほど寿命が短くなる、即ち地獄に於ける滞在期間が短縮される、地獄界に於いても輪廻転生が行われ上の界に上がれると言う、但し一番軽度の地獄の寿命(āyus アユース)でも1兆6653億年程と言う、閑話休題芥川龍之介は「侏儒の言葉」に於いて、極楽で蓮の葉に座り妙なるしらべを聞く極楽浄土の退屈さをイメージして嘆き、地獄の責めも数年すれば慣れる様な記述をした、彼は極楽浄土を回避し
因みに佛教に永遠も無限も無い、天界に於いても生、老、病、死を避ける事は出来ないし、無間地獄の業火の中でも349京2413兆4400億年で輪廻して転生出来る様に必ず期限がある。
因みに源信の往生要集(注7)は地獄模写すなわち厭離穢土から始まり極楽を語り往生すなわち 往生諸行から念仏に進んでいる、地獄に関する記述は倶舎論の他に・大智度論・顕宗論に記述がある。
閻魔大王で知られる十王信仰と言うものがある、人間が地獄に落ちようとするとき、七日毎に裁きを受けなければならない、その裁判官が閻魔を初めとする十王である、十王を挙げると*
「地蔵菩薩発心因縁十王経」略して地蔵十王経(中国製、偽経説が有力)によれば地蔵菩薩は閻魔天(大王)に化身するとされている事から死後に於ける閻魔大王の裁定を想定しての信仰が広がりを見せた、因みに閻魔天の姿形は道教からの道服を纏い右手に
イスラームに地獄の記述はあるが、キリスト教に詳細な説明はなく「主の要求、指示に従わない行動を地獄」と解釈する様である、これが地獄なら現在も無間地獄に住んでいる。
結論を言えば浄土も地獄も実在しない、これらは人を導く為の仮説である、実在論の否定は即ち空であり佛教の蘊奥と言える、如いて言えば浄土も地獄も人の心の中に存在する思想である。
仏教用語に「
①は生命の世界を言い輪廻する六道を下位から *欲界 *色界 *無色界の三界が言われる、因みに地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の住人で下位を言う、色界 無色界は天の住人である。
②は物理宇宙のことである、仏教世界から見た宇宙の構造(須弥山 人間の住む
注1, 六道とはgati、(ガティー)道の意訳とされ衆生の居住場所である、 天上(deva-gati)・人間(manushya-gati)・修羅(asura-gati)・畜生(tiryagyoni-gati)・餓鬼(preta-gati)・地獄(naraka-gati)を言い、六道の輪廻(Saṃsāra・サンサーラ)から抜け出す事を解脱と言う。
六道を二つに分け前部の修羅道までを三善道とし、後部を三悪道と言う、後部を巷間、三途(三途の川)を呼ばれるが正確な漢訳は三塗と言い、猛火の地獄道を火塗、刀杖の世界の刀塗、共食いの畜生道を血塗とされる、また三途とは三本の道と言う説もある。
天台智顗は摩訶止観の中で十法界があると言い六道の上に声門・縁覚・菩薩・仏を四聖として加えている。
輪廻転生の六道に他に五趣がある、五趣とは六道から阿修羅を除外した状態を言う、即ち地獄、餓鬼、畜生、人間、天の五種の空間を言う、六道絵の原形はインドであるが、それを五輻の車輪形の中に五道(地獄,餓鬼,畜生,人間,天上)の相を描き,輪廻の思想を示したものを「五趣生死輪」と言う。
生き物は六道を輪廻するが、死の瞬間から次に生まれるまでの間の概ね49日間を
輪廻の本家であるインドのヒンズー教に於いては、天界、人間界、畜生、地獄の四界で示す様である、空海は三教指帰に於いて三界を言う、迷いの世界すなわち、今我々の居る世界「欲界」に「色界」「無色界」を言う、欲界は淫欲、食欲を言い、色界は欲、食欲似ない世界であり、無色界は肉体の無い心のみの世界を流転輪廻していると言う。
地獄の様相は、倶舎論の8と11、大智度論16、顕宗論12に記述があるが経典としての記述は「
(2)黒縄地獄 13兆3225億年
(3)衆合地獄 106兆5800億年
(4)叫喚地獄 852兆6400億年
(5)大叫喚地獄 6821兆1200億年
(6)焦熱地獄 5京568兆9600億年
(7)大焦熱地獄 宇宙誕生~消滅までの期間の半分
(8)無間地獄 宇宙誕生~消滅までの期間。
地獄は実在しない、衆生を導くための譬え話すなわち仮設である、仏教の蘊奥とされる実在論の否定以前の問題と言える。
因みに兜率天には梵語のトゥシタ(Tuṣita)の音訳で「覩史多」とも漢訳され満足すると意訳できる、「
この天は欲界六天の下から四番目にあたりその住人は欲望の呪縛をかなり脱しており七宝の宮殿があり内院は請来仏となるべき菩薩の住処とされる、外院は眷属の住む場とされ釈迦はここから下界へ下ったと言う、因みに須弥山とは七つの山脈と八大海に囲まれ高さは八億米とも言う、また和訳すれば妙高山となる、弥勒菩薩は兜率天の内院四十九院に住んでいるが、宝石類に囲まれた極楽浄土に比べ遜色無く見えるが住人は六道輪廻の範疇にあり百億人の天子及び五百万億の天女達には五衰が待ち受けている。
兜率天と五十六億七千万年 覩史多・兜率陀天とも言われ、無色界・色界・欲界の三界の中では最下位の欲界に位置する、その住人は欲望の束縛を概ね脱している、七宝の宮殿に内外の二院があり内院は将来仏となるべき菩薩の住所であり、外院は眷属の天子達の住所とされる、釈尊は内院から下生したとされる。
56億7000万年の計算法は諸説あるが弥勒菩薩の住む兜率天の一日は下界の四百年に相当する・兜率天の住人の寿命は4千年であり一年を三百六十日と計算されている、したがって360日X400倍X4000年=56億7千万年と計算される、最近の研究者の間で5億6千7百万年説が有力視されるがいずれにしても無限に等しい時間である、「弥勒上生経」に依れば兜率天には500万億の天人天女が住み同数の宝宮が有ると言う、弥勒菩薩はこの宮殿の摩尼上部の獅子座に住むとされる。
海に於いて最初の生物が誕生したのが、35億年前、生物が陸に上陸して5億年、針葉樹林の発生は2.5億年、広葉樹林は1.5億年前との説が言われている。
三界には①無色界(spiritual world 禅定世界)--悟りが出来た世界で、四界あり最上階を有頂天(ヴァーグラ bhavāgra)と言う
*流転する世界には
* 通常使用される世間と言うタームはラウキカ
(laukika)と言い、宇宙を意味する仏教用語である、一般に迷いの世界を意味し対極に出世間がある、出世間とは通常仏門に入る事を言われる。
世間は生命の世界即ち *有情世間と物理的な *器世間があり、有情世間には「欲界」「色界」「無色界」の三界がある、輪廻転生はこの三界で起る。
*インドを制圧したアーリア人が興したバラモンや、仏教以前からのエトスに
六道とは天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄であるが、世親の説いた倶舎論では五道であり、阿修羅は後から組み込まれた様である。
注2、
*四劫と言う総ての誕生から消滅までの間に永劫の流転を繰り返す、1、成劫 万物の誕生、 2、住劫 安定期、 3、壊劫 衰滅期、 4、空劫 総てが無、に分類され各劫は20劫を要する。
注3 、 他土仏信仰とは大乗仏教が起こり釈尊を思慕した事から生まれた地球空間以外の仏、すなわち異空間の如来・菩薩である、代表的な尊名は阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩等々である、法華経・金光明経・阿弥陀経など多くの経典に記述されているが共通する如来名は阿閦如来と阿弥陀如来のみで異なる尊名が多数を占める、因みに過去七仏は過去の劫である荘厳劫の如来も三尊存在するが、釈尊と同じ「自土」すなわち娑婆世界の仏とも言える、いわゆる報身仏が他土仏に相当するとも言えよう。
注4、
注5、末法思想と三時観 中国の僧で天台智顗(ちぎ)
三時思想に付いて六世紀中国に於いて三階教と言う宗派があって行基に影響を与えたとの説もある、三階教とは六世紀末中国の北斉で起った宗派で行基に影響を与えた、三時観の分類を利用して、現在は三階即ち末法であるとして「大方広十輪経」「大集経」「明三階仏法」「略明法界衆生機浅深法」を依経として既成宗派と対抗した宗派である。
「大集経」などに依れば個々の期間は五百年・千年など諸説があるがしだいに「大悲心経」を依経とした千年説が広がる、これは中国に佛教が伝来時には末法にならない為に調整したとも考えられる、また一時観を千年とした根拠は、中国に於いては釈尊の生誕はBC948年としている、これは孔子よりも先に生誕した様に記録したかったとされる、因みにインドでは女性の出家を認めた為正法が千年から五百年に短縮されたと言う話もある。
三時観は日本に伝わり最澄が重要視し「守護国界章」を著している、定かではないが「末法燈明記」も最澄の著作と言われている、因みに末法燈明記に依れば正法五百年、像法千年、末法一万年とされている、これは「大集月蔵分」「法滅尽品」「摩訶麻耶経」等も同様である、
堕落容認の聖典とも言える末法灯明記であるが、典拠とされる代表的な経典は「大方等大集経(大集経)」である。
天台宗の「法華玄義」巻五のと「十地経論」巻三に「教行証」「大乗法苑義林章」等に依れば、佛法とは・証・行・教を言い正法とは三時が揃う事を言い、五木寛之がコピーの時代と言う像法は証が失われ末法は証と行が失われる教のみが残る事を云う(像法の像とは影を意味する)、証とは絶対知の感得を言い行は絶対知の感得の為の修行を言われる、また教は絶対知を感得する案内書すなわち経典を指す。
末法を法滅と言い経典も無く壊滅的な時代を言い末法の後、すなわち「法滅期」となる解釈もある、経道滅尽(saddharma-vipralopa)すなわち法滅とは仏法の滅びる事をいう、正法・像法・末法の三時を過ぎると仏法は滅尽すると「大方等大集経」の第55券である月藏分の分布閻浮提品に書記述されている。
但し涅槃経には末法の中から再び、仏法が再生すると説かれている、因みに涅槃とはニルヴァーナ(nirvāṇa)と言いニルは「外へ」、ヴァーナは「吹き消す」を意味する。
但し涅槃経には末法の中から再び仏法が再生すると説かれている。
*仏教にも末法思想や終末論が言われるが、仏教本来の正統思想ではなくカルト仏教的な哲学との小室直樹説がある、殺戮を繰り返す一神教と異なり仏教にはジェノサイド(genocide)は無論の事、天地創造、終末論すなわち最後の審判的な思想がない、無限に近い因果律の仏教哲学に終末論は本義ではない。
因みに仏教は因果律が総てであり「
*末法思想の対処法に”特留此経”と言う経がある、末法の時代でも信じて留まる事を教えている。
注6、解脱とは梵語でmok-ṣaモ-クシャ、 muktムクテイ、i vimuktiヴィムクテイー、等を漢訳された熟語である。
注7、往生要集 地獄の解説は源信の往生要集の中で大文第一、
因みに往生要集は*序文から、*大文第一、*厭離穢土、*
注8、 涅槃には生きたままでの覚り「有余涅槃」と肉体も煩悩も消滅した「無余涅槃」がある。
注9、
注10、三輩九品往生段とは *上品上生 至誠心 深心 回向発願心の三心と戒律を守り、経典を読誦し機根の秀者で極楽に於いて無生法忍の悟りが得られる。*上品中生、*上品下生までは大乗の行者で上生と比較して機根が少し劣る。*中品上生以下中品下生までは小乗の行者。 *下品上生以下の下品下生は悪行の内、救いがある者。
注11、十三仏 江戸時代に制度化された十三仏とは中国の冥界信仰を参考にしているが日本独自の制度で、地獄に於ける亡者の審判を行う10尊、これを十王と言う、但し「十王経」から引用しているが、十三仏は経典に記述は無い、裁判官は()内。
十三仏の尊名を挙げると、*不動明王(初七日