司馬鞍作首止利(しばのくらつくりのおびととり)       生没年不詳   
                 
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通常は止利()仏師と呼ばれている、出自に付いて諸説があり定かでは無いが、百済もしくは南梁からの渡来系の子孫と見られ鞍作止利とも呼ばれており、工芸関係に於ける技術者集団の中心的存在の人物と推定出来る、祖父は司馬達で父多須奈は仏師として坂田寺(さかたでら)を建立し仏教の伝道に功績があっつたとの伝承もある。  蘇我一族と関係が深く元興寺飛鳥寺の銅像(飛鳥大仏)と繍佛を制作したとされる、しかし光背裏に刻銘がある法隆寺釈迦三尊と比較して久野健氏の別人説が正しいと思われる。
特徴としては衣文及び眼
(きょう)仁形(にんぎょう)等に北魏風の様式が見られる。
その他止利仏師の作とされる像に東京国立博物館の四十八体仏中の如来坐像や
法隆寺伝法堂の薬師如来像などがあるが定かでは無い。
日本書紀によると法隆寺釈迦三尊、飛鳥寺の丈六佛などは止利佛師の作とされるが元興寺縁起の関連から鞍部首名加羅爾(くらつくりのおびとなからに)や四部首・などの記述が見られる、久野健氏の著書「仏像の歴史」3536(山川出版社)で主張される様に何れかは別人の造像かもしれない。
著しく脱線するが、止利は古代ローマ時代の太陽神を信仰したミトラ教徒の流れをくみ、馬具等を制作するとの説を言い、止利一門には複数の工人が存在したとも言われるが作風から見て一門とは言い難い


*朝日新聞2012921日夕刊からー早稲田大学文学学術院・大橋一章教授の「飛鳥大仏はほぼ飛鳥時代のまま残されていた」が発表された、事実なら大発見であろう、但し久野健氏の説との差は山の峰を挟んだ対極の位置にある、法隆寺釈迦三尊と比較すると通肩と言う大衣の着衣法(先に完成したとされる飛鳥寺の通肩が正しく、後に造像された法隆寺の装着は間違いである)、手ひらの関節(皺の数に相違)、指の形状(貴人と労働者の指程)、耳などの形状等々同一の作者の作とは考えにくい相違点が観られる、根拠とされた銅の成分の一致に対しては溶解落下した銅で鋳直せば同一成分になる為に理由として説得力に乏しい。
飛鳥寺の場合は(くら)部首名(つくりのおびとな)加羅(から)()などの記述が見られるが、法隆寺か飛鳥寺何れかが止利の作ではない可能性が高い、同一の造仏所の作とも思惟出来ない。
近い将来飛鳥大佛の国宝指定を述べる記述を見るが、私は否定的と考える。
現在に於いては久野説や元愛知県立芸術大学名誉教授・山崎隆之氏説に説得力を感じる。  仏像の歴史 久野健 山川出版社 参照

この時代の銅製像仏は移動に困難な為に近くに仮の工房を作り、制作されたと言う記述がある。

      2023年4月30日


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