平安時代中盤に興り鎌倉時代以後には佛師集団を席捲した一派で、名前の一字に慶を用いることが多い。
鎌倉時代に京都七条に工房を持った事から七条佛所とも言われた、南北朝以降に直系には康が一字使用される様になる。
系譜的には定朝の子
覚助の子
しかし1185年平氏の南都焼失による興福寺や東大寺の復興作業と頼朝による鎌倉政権の成立で一門の復権が始まる。
復興作業に於いて興福寺までは院派や円派が主流であったが東大寺の造仏では慶派がほとんど独占するまでに成長した。
これには鎌倉政権が貴族たちと親密な関係の院派や円派を敬遠した事もあるが、従来の定朝様が形式に流れ迫力と流動性を失っており、康慶や運慶また快慶の現実的な写実性と、力強く豪快な躍動的造形を持つ作品が武家の要求に合致したと言える。
鎌倉時代以降の像佛は慶派がほぼ寡占状態として日本に於ける仏像彫刻に於いて最も重要な存在感を示している。
慶派の代表的仏師を挙げると・康慶・運慶・快慶・湛慶・定覚・定慶・康運・康弁・康勝・運賀・運助・康正等が挙げられる。
注1、 僧綱位 法印・法眼・法橋 864年僧に与えられた位階で1‐法印大和尚位 2‐法眼和上位 3‐法橋上人位の3階を設けた。
俗官の位階と同様に成功による叙位や死後の贈位があり、また仏師・絵師・医師・儒者などにも僧位を与えることがあったが1873年に廃止された。
慶派の略系譜
康尚 → 定朝 → 頼助・康助 → 康慶 → 運慶 → 湛慶
↓ ↓
快慶 → 康運 → 康円
↓ ↓
↓ ↓→ 康弁
行快 ←↓ ↓→ 康勝 → 康誉
栄快 ←↓ → 運助 ↓→ 康清
長快← ↓
康俊 → 康成