長谷川等伯(とうはく)  1539-1610年   

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桃山画壇四大家の一人で俵谷宗達と略同世代の画家である、能登国七尾の生れで染色業長谷川宗清の養子となり染物の下絵師として画を養父に習ったと言う、因みに桃山画壇四大家とは狩野永徳(1543-1590) 狩野山楽(1559-1635) ・長谷川等伯(1539-1610) ・海北友松(1533-1615)を言う。
養父宗清は能登地方に伝わった雪舟流の画法の系流とされる。
   
長谷川家は法華宗で菩提寺の関連から法華関係の仏画で生業としたようである。
能登地方に現存する彼の作品は妙成寺(みょうじょうじ)の涅槃図・霊泉寺の十六羅漢図・竜門寺の達磨図・大法寺の日蓮上人像等がある、能登時代すなわち涅槃図等と晩年の松林図の作風の相違が大きい為に別人の作品と観られた時代があった様である、因みに能登時代は信春(しんしゅん)と呼称していた。
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歳代初め京に入り、日蓮宗関連の縁故から本法寺の日堯上人(にちぎょうしょうにん)像等を手がける、因みに等伯は日蓮宗の信者であるが、狩野元信、永徳、本阿弥光悦、尾形光琳等も日蓮宗徒であった、当時の京都に於ける日蓮宗の勢いが感じられる。   
後大徳寺に出入りし利休をはじめ堺の茶人たちとも交友をもち活躍の場は禅宗寺院にも広がる、表千家所蔵の利休肖像画は等伯の筆とされている。出世作は圓徳院の山水画とされる、また1591年秀吉が長子鶴松の菩提を弔う為に建立した祥雲禅寺の障壁画制作には長子久藏を含む一門を率いてこれにあたり
智積院障壁画 紙本金地著色 桃山時代や楓図朕・松に草花図 紙本金地著色 二強屏風等が現在は智積院に残る。
此処に等伯は牧渓(もっけい)に学んだ山水画法に新しい水墨画の技法やハーフトーン等の独自の画法を完成して松林図屏風を初めとする桃山美術のシンボル的大作を残したが、等伯が頭角を表わすに従い狩野派から執拗な妨害を受ける。
その他現存する作品として壬生寺の列仙図 紙本墨画 六曲屏風 桃山時代・
東京国立博物館松林図屏風 紙本墨画淡彩 六曲屏風 桃山時代。其の他、 金地院の老松図朕・ ●相国寺の猿猴(えんこう)竹林図屏風 紙本墨画 六曲屏風 桃山時代。 ●竜泉庵の枯木猿猴図 紙本墨画 掛幅装 桃山時代。 天授庵(京都)の天授庵方丈襖絵32面。 
本法寺(京都市上京区) 日堯像(絹本着色)、日通像、(絹本着色)妙法尼像紙本墨画)仏涅槃図(紙本著色)などの傑作がある。
法眼となり家康の招きで江戸時代に入るがその年に没する。
画風もまた狩野派を意識してか和漢総合様式に特徴をあらわし色彩感覚は狩野派を凌駕するものがある。
  






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