定朝・康朝の系統に属し康慶を父に持つ慶派を代表する名匠である、平安時代末期から武家社会が力をつける鎌倉時代にかけて活躍した代表的佛師である。
院派・円派が朝廷や公家の力を背景に影響力を持つ中で、東国武士の後ろ盾を受けて斬新な力強い彫刻表現力を駆使して慶派の全盛期を構築する。
運慶の作風は初期のころは円成寺の大日如来の様に平安時代の作風を残すが、後にエスキース(Esquisse)の段階から、パースペクティブ(perspective)即ち遠近感を強調した造形、父康慶の写実主義的傾向をより強力に推進し緊迫感を持ち力強い風貌、・体躯、自由な動きをもつ姿態、具体的には印を結ぶ臂を体から距離をとり、両足には量感の拡大、衣文など彫りの深い表現力を用いた特徴ある作風に変わりながら統一性を維持している。
鎌倉時代に於ける「幕府将軍の年代記」とか「歴史書」とも言える吾妻鏡に依れば玉眼の採用は運慶が嚆矢と記述されている、即ち平安時代を代表する定朝の「静の美」から、東大寺南大門の吽形像から金剛峯寺の八大童子に観られる「動の美」への変革を果した、耽美から躍動美と言えるかも知れない。
運慶の作風に付いて研究者である山本勉清泉女子大教授は「立体の意識」「形を平面でとらえず、空間の中でとらえる才能」を挙げている。
運慶の現存する作品は確実な像は三十一尊であるが、興福寺南円堂の四天王像、相国寺の本尊・釈迦如来(110cm・禅定印)など可能性を持つ像が挙げられる。
また定かではないが京都市左京区黒谷の金戒光明寺には運慶作と伝えられる文殊菩薩
運慶作との伝承を持つ尊像で、正運寺(中京区蛸薬師通り西入る因幡堂)に秘仏で奈良の長谷寺と同木とされる十一面観音があるが開扉された事は無く真偽は疑わしい。
運慶は湛慶・康運・康弁・康勝・運賀・運助の六人の子供に恵まれまた多くの弟子を育て慶派集団の地位を盤石のものとした。
また仏師として最高位の法印を受けており、六派羅蜜寺には長男湛慶と共に肖像彫刻があり重文指定を受けている。 法印
運慶は小説等の題材によく表れている、著名な作品に森鴎外の寒山拾得や、夏目漱石が運慶に付いて小説にしているが、漱石による夢十夜の第六話が面白い。
「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから‐‐‐‐‐‐運慶が仁王像を彫っている。その姿を見ていた自分は、隣の男が「運慶は、木の中に埋まっている仁王を掘り出しているだけだ」と言っているのを聞く。自分でも仁王像を彫ってみたくなり、家にある木を彫り始めるが仁王は出てこない。」
運慶は願主として法華経
定かではないが四国八十八所三十三番札所・雪渓寺に、重文指定を受けた運慶と、その長男湛慶が雪蹊寺
○印国宝 ●印重要文化財
○東大寺南大門の金剛力士
○円成寺の大日如来像 25歳頃の作
○願成就院の・阿弥陀如来 ・不動明王二童 ・毘沙門天像
○興福寺北円堂の弥勒三尊像・無著・世親立像
○高野山不動堂の八大童子像・無著・世親像
●称名寺(塔頭、光明院・横浜市)の大威徳明王像 (神奈川県立金沢文庫寄託)
●瀧山寺(岡崎市)の観音菩薩像 174.4cm 三尊脇侍に梵天、帝釈天105.0cm
●浄楽寺(横須賀市芦名2433)阿弥陀三尊像141.8p 脇侍178.0p 1189年 ・不動明王 135.5p ・毘沙門天 140.5p 鎌倉時代
●満願寺(横須賀市岩戸190)観音菩薩224.7p 地蔵菩薩 203.7p 等の尊像がある
●光得寺(栃木) 厨子入大日如来坐像 鎌倉時代
●真如苑(東京) 大日如来坐像 鎌倉時代
●円応寺(鎌倉) 閻魔大王 初江王 倶生神 木造 99.5cm〜10.3cm 鎌倉時代 運慶の可能性
2014年3月9日 8月6日一部加筆 11月2日リンク2016年1月14日 2020年5月26日加筆