正式名称は造仏師と言い623年に製作されたとされる法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背に
白鳳・天平時代にはこれ等仏師群は官僚であり禁裏や藤原家の依頼による豪華(高価)な造像が行われた、仏師は建立される官寺の造仏に派遣される形態をとっていたが、平安時代以降は782年法華寺・789年東大寺の造仏所が廃止されるなど桓武天皇による造寺・造仏制限もあり各寺院が仏師を採用して独自に像仏所を持つようになり、神護寺の薬師如来像に代表される私仏所の仏師による安価な木造彫刻が盛んになる。
当初は僧自身が造仏や仏画を手がけ仏師僧などと呼ばれていたが、
これ等の職業仏師が独立し独自の工房を持つ様になり、定朝の頃には大仏師・小仏師という呼び名が定着する様になる。
東大寺大仏の造立を担当した国中(連)公麻呂は大仏師の称号で呼ばれたが、これは敬称であり平安以後の大仏師は正式な資格と認知されたものである。
また寄木造の発達等から流れ作業や、運慶の手になる東大寺の金剛力士像に代表される巨像、一尊で三千個を上回る多くの部品を集合するアセンブリ―産業(assembly)
また古来より日本の仏師達は三十二相、八十種好(如来注4〜5参照)
またその流れを汲む20〜21世紀の仏師にも・松久宗琳・長田晴山や・松本明慶・渡邊勢山など後世に名を残すであろう卓越した人たちが活躍しており、作品の一部を見ると摂取の華麗さと精緻さは他国の彫刻には見ることが出来ないのではないか、造仏師には「入我我入」即ち仏が仏師の中に入り、仏師が仏の中に入らなければ信仰に叶う仏像の造顕は不可能である。
注1、僧綱位 法印・法眼・法橋 864年僧に与えられた位階で1
俗官の位階と同様に
注2、仏師集団の三大流派と呼ばれる集団があった、量産を得意とする・ 円派、 伝統重視の・院派 、 革新的な・慶派を言う、 近年三重県亀山市西町の遍照院の阿弥陀如来像の脇侍、勢至菩薩(立像45.6p)が院派の院春の作と判明した、鎌倉時代中期には院派の作例は妙法院(蓮華王院)の千手観音以外は少なく貴重とされる。
定 朝 不詳〜1057
慶 派
康 慶 生没年不詳
快 慶 生没年不詳
運 慶 不詳〜1223
院 派
円 派
慶派の略系譜
康尚 → 定朝 → 頼助・康助 → 康慶 → 運慶 →
湛慶
↓ ↓
快慶 → 康運 → 康円
↓ ↓
↓ ↓→ 康弁
行快 ←↓ ↓→ 康勝 → 康誉
栄快 ←↓ → 運助 ↓→ 康清
長快← ↓
康俊 → 康成
894年遣唐使制度の廃止により交流が途絶えるが、唐の様式を継承しながら独自の和様が興隆する。
仏像案内 寺院案内 佛教年表