円仁(えんにん)  794864           
                       
               
天台宗
   延暦寺   最澄  円珍   高僧

諡号を慈覚大師と言い壬生氏の出身、比叡山延暦寺の三代座主で山門派の祖、天台宗に於ける密教の事実上の構成者である、「事理倶密」即ち密教と法華経とを融合させる、栃木県の出身で九歳で仏門に上り808年十五歳で比叡山に入り最澄の門下に入る。   

838年入唐請益僧(短期留学僧)に選任され入唐し在唐九年に及ぶ、天台山には入山出来ず、五年近く滞在した長安の大興善寺で金剛界・青竜寺(しようりようじ)で胎蔵界・蘇悉地の三大法を受ける、因みに師は恵果の孫弟子で唐密教の大家・法全(はっせん)である、因みに恵果から付法を受けた弟子は八人でその中に空海・義操が居る、義操から付法を授与されたのが法全であり、法全から教えを受けたのが円仁と円珍である、当初の目的地は天台山であったが実現できず840年苦節の末に念願の五台山に二ヶ月余り滞在し、 唐の法照(ほっしょう)が初めた五台山念仏三昧法である音曲的な五会念仏(称名念仏)など「天台宗義」を受け併せて学ぶ、また長安に於いて密教を学ぶが、”会昌の廃仏”(注6)に遭遇する、文殊八字法、七仏薬師法・熾盛(しじょう)光法など天台の行を起こして、法華仏教も密教の一部であると解釈変更を行い、理同事勝(理は同じだが、事は優れている、大日経と法華経を比較すると説かれている法理は同一であるが、実践法等に於いて大日経が優れている)と言う説を言い真言密教と区別する、更に五台山の念仏三昧法である不断(ふだん)念仏、すなわち音曲的な五種の音声を出す”五会念仏法”を将来する、また日本に於いて最初に叡山に於ける常行三昧堂を起こし称名念仏を将来したのは円仁である。 
中国最大の法難である「三武一宗の法難」の内、会昌の廃仏に於いて苦渋を経験するが不動明王に助けられたと言う逸話がある、後の847(55歳)帰国し上洛する、六年の歳月を経て座主に就任し、国家鎮護灌頂の請願を認められる。 
宝祚祈願の道場として総持院を建立し台密三部秘法、即ち胎蔵・金剛界・蘇悉地を布教する、唐では些かマイナー的で三部秘法から外れていた「蘇悉地経」を含める、正式には「蘇悉地(そしつち)羯羅経(からきょう)が円仁により天台宗の最高経典になる、因みに宝祚(ほうそ)とは天皇の位を言う、両部の大経に蘇悉地経を加え”胎金蘇”即ち「大日三部経」「真言三部経」「台密三部経」と言う呼称がある、但し真言宗は即ち両部の大経を”一具(いちぐ)両部”としている、但し密教後発の天台宗台密(たいみつ))蘇悉地経を重要視している蘇悉地経とは「蘇悉地羯羅(そしつじきゃら)Susiddhikāra Sūtra, スシッディカラ・スートラ」と言い台密三部秘経に挙げられている、因みに円仁は自著の蘇悉地羯羅経略疏(りゃくしょ)に於いて「三部ノ経王」として最重要視している、これは密教に立ち遅れた天台宗が真言宗に対する挽回の一手であり無理があると正木晃氏は言う、すなわち蘇悉地経は本来大日経の範疇に加えられる経典で成立した時代は大日経よりも古い、これで”統一止揚(しよう)”が出来る筈がないと言う、更に強引とも思惟されるが法華経と密教を習合する。
   
854年三代座主に就任し天皇家や貴族に灌頂や授戒を行い天台宗の勢力拡大に寄与するが71歳で示寂し二年の後に日本初の大師諡号(しごう)、即ち最澄の伝教大師と共に慈覚大師となる。  

また文殊信仰の聖地で中国仏教の三大聖地の一つでも学んだ事がある、五台山(注5で学び帰国後、比叡山に文殊楼を開いたり如法経、回峰行を採用したり念仏三昧をすすめて比叡山に於ける浄土信仰の嚆矢としての役割も果たした、円仁以前に浄土経典は存在したが広まる事は無く据え置かれたが、延暦寺内に「朝題目(あさだいもく)宵念仏(よいねんぶつ)」を採用する、この宗風を受け継いだ源信が往生要集を顕わし、市聖と言われた空也法然親鸞の出現につながる、因みに「如法経」とは定められた法式による写経の事を言い、東大寺再建の大勧進事業の立役者重源もその継承者の一人である、写経は法華経(如法写経)に始まり今日では般若心経写経が多く行われている。
円密一致の行動は長安の元政から総ての教えは密教に繋がる、即ち法華経を説く釈迦如来と密教を説く大日如来とは同一と説かれた事による。
(空海をめぐる人物日本密教史、正木晃)
円仁は東北地方所謂みちのくに神話的装飾が施された伝承を残しており、定かではないが中尊寺・山形市の立石寺の開祖との伝承もあり黒石寺・瑞巌寺・円通寺との関連も伝えられる、また各地に「勧請開山」(注4伝承があり鳥取の三佛寺の創建も伝えられる、比叡山の声明念仏の創設者とも言われ、兵庫県加古川市の鶴林寺再興にも寄与した、比叡山の今出川行雲師に依れば、円仁の開山若しくは再興した寺は関東に二百ヶ寺以上、東北に三百ヶ寺以上存在すると言われるが、多くは勧請開山であろう(横川の光、角川学芸出版)
著作に「入唐求法巡礼行記」「金剛頂経疏」「蘇悉地経疏」「顕揚大戒論」などがある,また天台に七仏薬師法・熾盛光法・八字文殊法を請来した、特に熾盛光法は東密に対抗できる呪法として請来した法会で、国家鎮護・皇室の安寧を祈願する台密の最重要法会であり、その本尊は「熾盛光(しじょうこう)如来曼荼羅」と言う梵字で書かれた種子曼荼羅を言い青蓮院に置かれている。

閑話休題、巷間「巡礼」と言うタームが観られるが、日本で最初に使用したのは円仁による入唐求法巡礼行記であるとされている。
最澄
円珍と共に天台宗の三聖と言われる、性格は抱擁的と言われ円珍に依れば「戒行清潔、智徳殊に高」
(感夢記)と言われた、弟子に天台随一の碩学とされ台密の完成者・安然がいる。
866
年、最澄と共に日本最初の大師称号、慈覚大師の諡号が与えられた、代表的な著作として「蘇悉地羯羅経略疏」「入唐求法巡礼行記」「金剛頂経疏」が内外で高く評価されている。

円仁関連の文化財は多数ある
天台高僧画像 絹本着色 六幅 平安時代 一乗寺  
円仁入唐求法巡礼行記 紙本墨書 鎌倉時代
●僧形坐像(伝慈覚大師)木造彩色 平安時代 岩手県・黒石寺  
●慈覚大師伝 紙本墨書 平安時代 三千院  
 
●伝慈覚大師像(僧形坐像) 木造桂材 67.0cm 平安時代(岩手県水沢市 黒石寺)   
等である。 

1入唐八家 唐に留学した高僧を言い 最澄 ・空海 ・円仁(天台宗) ・円珍(天台宗) ・円行(真言宗) ・常暁(真言宗) ・恵運(真言宗) ・宗叡(真言宗)を言う。

2、円仁の請来した陶酔感を持つ称名念仏は法然・証空を経て一遍の踊り念仏にまで辿る。

3
如法経のうち法華経の写経を如法写経と言う。

4、勧請開山とは師を慕う弟子達の開山であるが、円仁を慕い師の創建とした法弟・法孫による開山された寺院を言う。560578

5、中国仏教の三大聖地とは・五台山浙江省(せっこうしょう)・本尊 観音菩薩 ・蛾眉山(がびさん)(四川省・普賢菩薩・五台山(山西省・文殊菩薩を言い、九華山安徽省(あんきしょう) 地蔵菩薩)を加えて四大聖地とも言われている。

6、会昌の廃仏 三武一宗の法難(四難)の一難で最大の法難である、「北魏・大武帝 423452年」「北周・武帝 560578年」「唐・武帝(会昌)840846年」
を言いキリスト教の異端とされた景教なども法難に遭った、四番目は「後周・世周 840846年」、
円仁の「入唐求法巡礼行記」依れば 道教を信仰した皇帝が、道教を華北統一の拠所を目指し国教化を試みた、信者が多数を占めた仏教を排除しようとしたものである 

7、讃岐五大師とは 空海(弘法大師)・実慧(道興大師)・真雅(法光大師)円珍(智証大師)聖宝(理源大師)を言う、因みに平安以来日本に於いて大師号を授与されたのは22名である。

 

2005127日 2008630日如法経  201015日注5 2014627日戒行清潔ーー他 816日三武一宗の法難 201541日巡礼 9月8日 2017年8月19日 2018年2月24日加筆  

 




                      



            仏像案内         寺院案内



inserted by FC2 system