円珍 814891         
            
          
   天台法華宗   延暦寺   仏像案内   寺院案内   高僧    法華経


諡号を智証大師と言い讃岐・和気家の出身、母親若しくは円珍自身は空海の姪か甥に当たる、15歳で延暦寺に入り義真の弟子となる、846年比叡山の学頭となり4年の後に内供奉(ないぐぶ)(じゅう)禅師(ぜんし)(3)となる、延暦寺第五代座主に就任し23年間務める、天台寺門宗(園城寺)の宗祖である。
天台法華宗に第五代座主、慈覚大師円仁と共に密教色を強めた双璧で後にその思想は安然(あんねん)に引き継がれ台密の完成を見る、ただし円仁が「事理倶密」「理同事勝」密教と法華経を略同列に於いたのに対して、円珍は「理事具勝」密教を更に上位に於いた、但し大日経を精読して法華経と完全一致と説いている。
 

853年通常の遣唐使船ではなく民間の交易船で6年間の入唐を果たし、(しっ)(たん)学(siddhaを学ぶ四分律、倶舎論、天台教学を学ぶ、後にライバルの円仁が果たせなかった天台山に登る、・国清寺、禅林寺を経て青竜寺に於いて三大法即ち金剛界・胎蔵界・蘇悉地を授かる、空海も受けていない蘇悉地を受け天台密教を磐石化した、この時の師は恵果の孫弟子で唐密教の大家・法全である、因みに蘇悉地とは金胎両部の妙成、即ち修行の完成を意味する。         

帰国後藤原北家の頭目で文徳天皇の外戚となり権勢を握る藤原良房・基経親子の庇護を受けて868年第五代座主に就任、宮廷内の仁寿殿に胎蔵灌頂壇を設け天皇家などに灌頂を施した、円珍は密教のみでなく円仁が提唱した顕密一致すなわち一大円教を更に強調した。  

在任中に白鳳時代に創建で荒廃した園城寺を再興し唐より持ち帰った経典等を収蔵し天台別院にして別当に就任する、これが後に円仁派(山門派)との権力争いの一因となる、993年円珍派の余慶が法性寺座主に就任等が確執の根幹とも言える、園城寺は寺門派(円珍派)の総本山となる。

円珍が唐より請来した経典類は1000余巻もあり、代表的な文化財は「五部心観(哩多僧蘗囉五部心観)」と言えよう、金剛界の仏部・金剛部・宝部・蓮華部・羯磨部の五部の諸尊を配置したもので金剛頂経に忠実とされ国宝指定を受けている、もう一つ別尊雑記にある「智証大師請来五菩薩五憤怒」像がある、これが天台系の五大尊像に繋がる、因みに五部心観の五部とは金剛界曼荼羅の五グループ即ち・佛部・金剛部・宝部・蓮華部・羯磨部を言い個々の観想法を示している。

890少僧都(しょうそうず)に就任し翌年78歳で逝去し927年智証大師の諡号を受ける。著作に「法華論記」「授決集」「大毘盧遮那経指帰」などがある。

円珍の請来目録には天台山での772巻の経典・法具をはじめ合計1000余巻・法具16種等の文化財が園城寺に存在する。 
最澄・円仁と共に比叡山の三聖と言われる、また円珍の不動信仰は篤く比叡山に於いて密教を優先する「一大円教」思想に導いた安然不動明王の十九の観想法を示す「立印儀軌修行次第」を著す等不動信仰の隆盛に貢献した、また円珍は唐に於いて観た不動尊を自著の「些些疑文(ささぎもん)」に「‐‐‐大中九年冬至‐‐‐不動尊見奉‐‐‐」と大興善寺で智慧輪に見せられた事を書いている。
円珍は山岳修験道にも篤く、三井修験信仰から帰依した白川上皇・鳥羽上皇・後白河上皇等による熊野詣でが頻繁に行われ、西国三十三所の原型が生まれた。
円珍による開山伝承の寺院は全国多数にのぼるが、多くは「勧請開山」いわゆる円珍を慕う法弟・法孫によるものであろう、円珍は三井修験道の祖でもあり、従来天台に於ける回峰行は比叡山にほぼ限られていたが大峰・葛城・熊野等々の広範囲に影響を残した。

また円珍は園城寺の五部心観や来振寺の五大尊像図の様にライバル視した円仁や東密との相違を表す事に努めた様だ。
円珍は身内の空海が著した「秘密曼荼羅十住心論」に於いて天台宗が「一道無為(いちどうむい)住心」として秘密荘厳(ひみつしょうごん)住心(真言宗)、極無自性(ごくむじしょう)住心(華厳宗)の下位に置かれた事に強烈な反論する。
円仁に遅れる事61年、927年大師称号、智証大師の諡号が与えられた。

円珍による将来目録で「開元寺求法目録」「福州温州台州求法目録」「青龍寺求法目録」「国清寺求法目録」「国清寺外諸寺求法惣目録」が総て国宝に指定されている。

 

円珍に関する主な文化財

智証大師坐像 木造彩色 85.1cm (後廟大師)    1029日開扉  藤原時代  園城寺 

智証大師坐像 木造彩色 78.1cm (御骨大師)        秘仏 平安時代  園城寺 

五大尊像図 平安時代 来振寺 絹本著色 掛幅装 五幅 各140.0cm88.0cm 奈良国立博物館寄託

五部心観 哩多僧蘗囉(りたそうぎゃら)五部心観)  平安時代 園城寺

円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書 彩箋墨書(小野道風筆) 平安時代 東京国立博物館  

円珍関係文書  平安時代  東京国立博物館

智証大師関係文書典籍 平安時代  

円珍俗姓系図 紙本墨書 一巻 29.4cm×323.3 cm 平安時代 園城寺

●智証大師坐像 木造 39.4cm 鎌倉時代 園城寺 

●智証大師像 絹本着色 鎌倉時代 香川県・金倉寺 

●円珍入唐求法目録 紙本著色 平安時代 聖護院 京都国立博物館 等多数ある。 

1、入唐八家 唐に留学した高僧を言い 最澄 ・空海 ・円仁 ・円珍 ・円行(真言宗) ・常暁(真言宗) ・恵運(真言宗) ・宗叡(真言宗)を言う。

2、讃岐には空海以来多くの大師号を持つ高僧が輩出して讃岐五大師と言われている、讃岐五大師とは 空海(弘法大師)・実慧(道興大師)・真雅(法光大師)・円珍(智証大師)・聖宝(理源大師)を言い、円珍のみが天台僧である。

3、内供奉十禅師とは722年に制度化され禁裏内道場に於いて天皇の安全祈願・護持役を果たす高僧を言い定員十人とし平安時代以降は天台宗と真言宗から選別された。

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会昌の廃仏 (三武一宗の法難)、中国に於ける宗教弾圧は四回あり、①五世紀、北魏 太武帝(423~452年)による道教保護廃仏、  ②六世紀、北周 武帝560578年) 道教佛教の廃止、 ③九世紀、北周 武宗840846年) 会昌の廃仏、 ④十世紀、 後周 世宗954959年)、 と続いた、因みに三武一宗とは弾圧した皇帝の名から銘々された様である、また会昌の廃仏は元号から取られた。()内は在位年数   


注5、
 悉曇とは、梵語のシッダム(siddhaṃ)で成就・吉祥を意味する。


2005128日   20131119   2014年9月18日  2020年4月7日 


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