弘法大師 空海     774年頃~835年 

                      仏像案内   寺院案内    高僧    密教    恵果


平安時代が生んだ日本仏教界のスーパースター(super star)である、弘法大師・空海は真言宗の開祖で日本に於ける真言密教を体系化し、既存佛教から独立した教義の完成者である、空海の日本仏教界に与えた影響は強大である、空海以降の宗派で祖師達は総てが空海論理の影響を受けていると言われる。
密教の要諦は人間の心を言う、即ち仏法・覚り・真実・煩悩は総て人の心と至近距離あるとされる、空海の強調したのは「密厳浄土」への道標と「即身成仏」に集約されよう。
空海は豪族・佐伯(さいき)直田公(あたいだきみ)の三男として774年頃讃岐の国、現在の香川県善通寺市に生まれる(畿内説等もある)、幼名を真魚(まお)という。
 

幼少から神童の誉れ高く、学者一族である母方(渡来系)の伯父で桓武天皇第三皇子・伊予親王の待講(親王の教育担当者)していた阿刀大足(あとのおおたり)に長岡京に呼ばれ漢籍(論語・孝経)を学び、明法道(律令)明経道(儒教経典等)春秋左氏伝(しゅんじゅさしでん)(五経の内春秋の解釈書)尚書(しょうしょ)(四書五経の内書経)等を学ぶため大学寮(注24)に入るが、大安寺の勤操大徳(注11などから虚空蔵求聞持(こくぞうぐもんじ)法に出会い、大学の講義内容を「糟粕(そうはく)なり益なし」と言い大学を中退する、しかし空海は大学で漢語が必須の明経道(みょうきょうどう)を学んだ為に漢音に精通しており遣唐に於いて通訳が不要で交流関係は継続し、師は後に法友となる勤操大徳とする記述を見るが定かではない、しかし三論の碩学勤操との出会いが空海の針路決定に対する触媒であったと言う説もある様に空海の仏教への入り口は三論教学であったと推定される、駒澤大学教授・藤井淳著「空海の思想的展開の研究」(トランスビュー出版)に依れば空海の得度は三論宗であったの記述がある。   

すこし脱線するが玄昉、道鏡などの雑密から空海の純密までの隘路に関して、玄昉、道鏡の出自に対して、武内孝善氏は空海の母方の「阿刀氏の一族から、玄昉、善珠、道鏡、玄賓など奈良から平安初期を代表する高僧を少なからず輩出している」と言う、(空海はいかにして空海となったか、角川選書)、道鏡は弓削姓であるが、阿刀と同じ物部氏の末とされている、正木晃氏に依れば空海が著名な存在になったのはカトリック流に言えばエクソシスト(exorcist )即ち人間の悪霊を掃う祓魔師(ふつまし)としての顔があったと言う。
一説には虚空蔵求聞持法(虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)(のう)満諸願最勝心陀羅尼求聞持法(まんしょがんさいしょうしんだらにぐもんじほう))を伝授したのは大安寺の僧で讃岐出身の「戒明(かいみょう)」とも言われる、因みに戒明とは8世紀後半に勅命で唐に学び十一面観音図や首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)(注17を請来した僧である。
「虚空蔵求聞持法」であるが、虚空蔵菩薩を本尊として記憶力増進を目指す加持祈祷である、しかし空海の直観は記憶力ではなく経典中の呪の部分に於いて宇宙と己の間に一体感が生じたと言えよう。
空海は現在の四国霊場・室戸山、最御崎寺(ほつみさきじ)の近くの「御蔵洞」で感得している、最御崎寺の伝承では室戸岬から展望した景色に感銘して「空海」と言う名称にしたと言われている。
もう一つ空海に影響を与えたのは、やはり大安寺の戒明であり、空白の七年間に関係しているとの説もある、
戒明とは大安寺に於いて慶俊から華厳を習得の後、770-780年間勅命を受けて入唐し十一面観音図像や首楞厳三昧経を請来する、首楞厳三昧経は偽経説が言われ論争するが、後の行動は定かでない、首楞厳経には鳩摩羅什訳の「首楞厳三昧経」と(ばん)()()(たい)訳の「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経(だいぶつちょうにょらいみついんしゅしょうりょうぎしょぼさつまんぎょうしゅりょうごんきょう)」がある。

空海は吉野・伊予・室戸崎で求聞持法を修行し修験者となった様であるが、複数で修行したとの説もある、前半期の行動は優婆塞(うばそく)(upāsaka)(男性在家仏教信者)として抖擻(とそう)(仏道修行)していたとされるが、何時直観したのか等不明な点が多い、また名前も空海に到るまで無空・教海・如空と変えている、因みに女性の場合は優婆夷 (うばい)(upāsikā)と言う。 
797
年空海24歳頃に聾瞽指帰(注1すなわち儒教道教・佛教を比較し佛教の優秀性を論じ仏門に入る宣言書を著す、また久米寺に於いて大日経に出会い密教の真髄を学ぶ事を渇望し唐にわたる事を決意する。
804年遣唐船が出る事になるが空海(31歳頃)は一介の私度僧であることから遣唐船に、乗船出来ない為、阿刀大足のフオーローがあったのか8044月に急遽東大寺に於いて得度し具足戒を受け空海と命名し7月唐へ向かう、一説には三論宗の僧として得度を受けていたとも言われる、但し得度時の僧名は「教海」であったと言う記述もある、因みに空海と銘々に付いて高野山真言宗の大阿闍梨・大栗道榮師に依れば、空海が留学した804年当時の唐は道教が国教であり、道教経典に「太上-乗海空智蔵経」略して「海空智蔵経(かいくうちぞうきょう)」と言う経典がある、奥義を極めた荘子を真人と呼んだと言う、荘子の言に「真人の言」があり、空海も真言も源は海空智蔵経にあるのではないかと言われている、但し海空智蔵経は「涅槃経」「維摩経」「摂大乗論」「像法決疑経」等の仏教経典を典拠としていると言う。 

嵐で漂流の後福州の赤岸鎮たどり着く、遣唐大使が上表しても上陸許可が下りなかったが、空海が大使である藤原葛野麻呂(ふじわら の かどのまろ)の代理で上表文を提出すると内容及び筆跡が著しく優れていた事から許可が下り12月長安に着く。
長安では日本人留学生が集まり玄奘も創建に関連したとされる西明寺などに止宿して梵語や経典、哲学、詩を学び、書に於いては「五筆和尚」と言われるほど著名になった、また過日は金剛智や不空が居た大興善寺やバラモン僧が集まる醴泉寺(れいせんじ)など各寺を訪れ識者と交流し唐に於いても空海の学識は広まり恵果も知るところとなる、国際都市長安に於いては空海に限らず鑑真等もゾロアスター教イスラムや景教(キリスト教・ネストリウス派の流れ)の情報を受けていたと言う指摘もある、中国に於いて恵果に会う以前にインド僧・般若三蔵や牟尼室利(むにしり)三蔵や景教僧・景常などから学んで恵果を焦らして自家薬籠としたとの説と、ひろさちや説ではインドに向かう予定でサンスクリット語を習得中にインドの僧から古来からの婆羅門の奥義すなわち梵我一如を習得した為に実践を中国で恵果から学べば密教習得は完了と考えたと言う説が面白い、運転免許証で言えば学科を般若三蔵と牟尼室利から、実地を恵果から習得したと言う、但し釈尊の佛教は因みに西明寺とは現在修行中とされる弥勒菩薩を慕い、兜率天を模したとされる唐に於けるトップクラスの古刹で、棟数四千と言われた巨大な寺であった、8056月青竜寺で正統(正系)密教第七祖、阿闍梨・恵果に出会う、恵果から数ヶ月の学習で両部曼荼羅灌頂と「伝法阿闍梨位灌頂」・大日如来の密号と同名の「遍照金剛」名を授かり正統密教の第八祖となり1年5ヶ月の留学から帰国する、帰国船は高階遠成に依る唐の皇帝就任の祝賀使節団の船であっとされる、余談になるが西明寺は善無畏が大日経を漢訳した処で近くに密教の付法八祖に於ける5~6祖に当たる金剛智や不空が止住して経典の翻訳をしていた大興善寺があり空海も足げしく、訪れていた様である。
正統密教の第八祖
(注22の伝法灌頂であるが、十世紀に於ける北宋の僧侶で仏教史家・賛寧(さんねい)著「宋高僧伝」には恵果の弟子凡そ千人の内で伝法灌頂を受けた人は六人であり、更に金剛界と胎蔵の両部の大法を受けたのは、幼少より清龍寺で恵果に学んでいた義明と空海の二名であるが義明は早世している為に正統密教の継承者は空海のみとなった、因みに
学法灌頂を受けた六人の内訳は弁弘、慧日が胎蔵を、惟上と義円が金剛界を受けていた。
空海が恵果を訪れた時のタイミングとして、禅宗で言う”啐啄同時(そったくどうじ)”ズバリ法統授受の嗣法(しほう)であったであろう。
 
真言宗では空海を敬い唱える「南無大師遍照金剛」であるが大日如来は梵語のMahāvairocana の音訳で摩訶毘盧遮那と言い意訳・密号を「遍照金剛」とされ空海と同じ密号である。
また「伝法阿闍梨位灌頂」とは密教の秘儀で、灌頂の最高位にあたる位である、日本に於いてはこの灌頂を受けるには四度加行(しどけぎょう)と言う難行があり 1、護身法・十八道
念誦次第 2、金剛界念誦次第 3、胎蔵界念誦次第 4、不動護摩法があり、四度加行を終えてから伝法灌頂に入る、但し空海は恵果から四度加行の難行を授かった形跡や日時は無かったと思惟される、因みに空海は灌頂で行われる「投華得仏」に於いて三度とも曼荼羅の大日如来に命中したと言う、投華得仏とは目隠しをして曼荼羅に「シキミ葉」を投げ落ちた処の仏と結縁出来るとされる、閑話休題、灌頂に付いて空海から最澄に授けられた灌頂は奥義と言える「伝法阿闍梨位灌頂」ではなく、初心者向けの「受明灌頂」と言う略式灌頂であった 
帰国後上京許可が下りず観世音寺に留まり「請来目録」等を著す、当時は51代平城天皇と52代嵯峨天皇の確執の中で「薬子の変(平城太上天皇の変)」(注12の後始末として、請われて高雄山で鎮護国家の祈祷を行い鎮圧に成功平城天皇の怨霊鎮魂の呪詛にも成功したらしい、また自筆の請来目録が後に空海も含め書に於ける三筆の一人とされる嵯峨天皇の目に留まり天皇との信頼関係は強固なものになる、最澄が徳一との三一権実論争に代表されるように南都仏教と対立したのに対して、空海は最澄の様に異論と争うことなく「一致宥和」して南都仏教の高僧たちに勧縁疏(かんえんしょ)を送り、密教興隆の協力を要請する等懐柔に成功して既存宗派に影響力を残している、空海は徳一に対しても大日経、教王経、金剛頂経、同経䟽、菩提心論などと共に趣意書すなわち「勧縁疏(かんえんしょ)」を送り融和を図っている。
請来目録であるが、経典、外典を含めて日本に請来されていない資料に限られている事は、入唐以前から空海の学識の深さの証明であろう。

閑話休題それにしても最澄の論敵を攻撃する激しさに驚かされる、即ち徳一に対して「北轅者(ほくえんしゃ)」「麁食者(そじきしゃ)「謗法者(ほうぼうしゃ)」「「悪法師」等と言い峻烈を極め宗教者の言語とは考えられない、因みに北轅者とは北方の囚人を意味し、麁食者とは人間の食物を食していない、謗法とは誹謗(ひぼう)正法(しょうぼう)の略語で正法を無視すると言う仏教用語である、最澄の激しさに天台宗からの年分度者の75%近くが資格を取得の後に比叡山を去った意味が理解できる様な気がする。 
二十世紀最後の怪僧と言われた薬師寺の元管主・橋本(はしもと)凝胤(ぎょういん)18971978年)は、空海と最澄について辛辣な批評をしている、「空海が唐から将来したのは仏教ではない、空海は新興宗教の開祖である、彼はずるい人だ」 「最澄という人、あれは物を知らない人だ」とまで言う、橋本師は彼らに加えられた神話的装飾に辟易したのだろう、橋本凝胤の空海評に関連するが、玄奘は唐に於いて唯識を学ぶ内で密教を「異道」と呼び正当な仏教と評価していなかった、但し密教徒を「外道」すなわち異教徒とは観なかった様である、玄奘が密教を異道とした理由は唯識が正道で釈尊の教えから逸脱していると解釈したのではないだろうか、即ちesoteric(秘儀・秘教)な密教を釈尊が否定するとの見方である、空海評で肯定的な見方で「ひろさちや」氏は空海を宇宙人と言う、氏は密教を創造したのはインドでも中国でも無く空海であると述べている、恵果に学んだのはテクニック即ち技法に限られると言う。 

一方禁裏に於いては嵯峨天皇・平城上皇の潅頂を授ける、810(弘仁元年)東大寺に於いて第十四代別当(代表責任者)に就任する、朝廷には真言院を創設し高野聖達に到るまで巧みに人間関係を構築した、空海の手法は権力機構や権威と融合しなければ存続が不可能である事を熟知していた様である、空海が脚光を浴びた最大の要素は以前から存在した天皇家内に於ける平城太上(へいぜいだいじょう)天皇の変」薬子(くすこ)の変)に代表される様に身内同士の争いが平安初期から更に激しくなる、勝者が敗者から受ける怨霊に対する恐怖を回避する為に遷都を行うなど全精力を傾けた、空海は呪術に長けていた即ち怨霊鎮魂は真言密教の得意と言うよりも専門分野である、因みに京の地形は風水学上から優れた場所と言われる。 
816年高野山を与えられ金剛峯寺の建立を開始、更に822年(弘仁13年)東大寺に灌頂道場真言院を興し、東寺を下賜され堅固な真言宗の足場が固まる、さらに空海最大の戦略の一つとして最大の呪法である御修法を行う為に、834年には宮中に真言院を構築し真言宗は禁裏を始め日本国内に絶対の影響力を行使出来るようになった、この御修法すなわち後七日御修法は宮中に於いて明治の御代まで継続され、現在は教王護国寺に於いて行われている。  

83532162歳で高野山に於いて入定、荼毘にふされる、但し生身の空海は奥の院に生存して弥勒菩薩の下生を待つと言う、即ち空海の入定信仰であるが、信仰に対しての必要条件としての神秘性と権威を兼ね備え、所謂「永遠の生命」を標榜している。
最澄
に遅れる事55年、聖宝の弟子・観賢(かんげん)835925年)が尽力し空海の大師号取得を上奏、921年醍醐天皇より弘法大師の諡号が送られる、入寂から86年後である、但し大師号は後れを取るが生前の仏教の法脈を伝える最高位である「伝灯大法師位」は820(弘仁11年)に任じられており、最澄より1年先んじている、ちなみに当初観賢が請願した大師名は弘法ではなく本覚大師であった。
空海の世情での影響力は大きい、高野山奥之院に於ける「入定留身信仰」が現在も生きている、後白河天皇が撰述した平安時代の歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に依れば高野山に生きていると言い釈尊の事実上の後継者で十大弟子の上足である摩訶迦葉と同列扱いにしている、入定留身に付いて慈円(注16も詠んでいる、「ありがたや たかのの山のいはかげに 大師はいまだおはしますなる」(拾玉集)。 
高野聖達が日本各地を勧進して歩き真言密教の基盤は広がるが弘法大師の伝承も知れ渡り、空海を神格化する久遠実成の弘法大師が伝承された、その為空海による開山伝承の寺院は多数にのぼるが、多くは空海を慕う法弟・法孫による「勧請開山」であろう。
空海が遣唐船で辿り着いた赤岸鎭(せきがんちん)、現在の中国福建省福州市赤岸村には空海記念館があり、現在に於いても村民の尊敬を集めている、また空海が潅頂を受けた青龍寺跡には恵果空海記念堂があり青龍寺出土物と共に恵果と空海の像が安置されている、また近年真言密教に於ける中国との空海に関する文化交流は高野山大学や真言宗各派及び上海の復旦(ふくたん)国立大学を中心に活況を呈している。
空海には五筆和尚と言う呼び方をされていた伝承がある、円珍が赤岸鎭に近い福州の開元寺の慧灌から空海、すなわち五筆和尚の消息を聞かれたと言う、五十年経過した後にも五筆和尚として著名であった様子が覗える、五筆和尚の意味は定かではないが、篆書(てんしょ)隷書(れいしょ)楷書(かいしょ)行書(ぎょうしょ)草書(そうしょ)の五書体、総てに堪能な者との意味合いであろう。

空海の親族には秀才が多く弟に真雅がおり甥等濃い血縁に智泉・真然・円珍・実恵がいる、なを真言宗の「伝持八祖」の一人である、一行の逝去が727615日とされている、空海は真言六祖(恵果の師)不空の再来と言われていることから、不空の命日すなわち空海の生誕日は615日として青葉祭が挙行されているが生誕日は定かではない、不空の再来はともかく空海は多くを不空に学んだ、一例を挙げれば宮中に於ける真言院の創設は不空による中国国家鎮護の道場を模倣したとされる。

密教は前期(初期)、中期、後期に分類されるが前期を雑密とも言い陀羅尼と(せん)(せい)法中心とした未整備な状態から空海により中期即ち純密時代となる、後期密教はチベット周辺を除き中国や日本では淫し邪教と観られて興隆する事は無かった。  
空海の為した功績に中国等の仏教を直訳する程度の哲学しか持たなかった日本に新たな文化及び哲学を形成した仏教の芽を注入した事が挙げられる。

即ち中国に於いては経典を熟知して漢字文化に消化吸収できる確固たる文化哲学が存在していたのに対して、日本には梵語、パーリ語(pāli)は無論のこと漢語をも充分に理解できないまま請来する程度の文化しか存在しなかった、要するに経典などを自国語で著す義疏 を作成する能力が未発達であった。 

空海は途上ではあるが日本に於ける仏教文化形成に対する先駆けと成ったのではないだろうか、空海のスケールの大きさは既存の教えを手中に取り込んだ教義を完成した事にある、宮坂宥勝氏に依れば、著書のうち十住心論と秘蔵宝鑰にはインドの初期仏教や中国の天台・華厳の教えを含有している。

菩提心論とは真言宗の必須事項で正式名称を「金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」と言い、醗菩提心論とも言い即身成仏が少し説かれている、著作は龍樹で漢訳は不空とされている、これが「即身成仏儀」に繋がる様である、但しインド哲学の権威・宇井伯寿氏1882年~1963年は「即身成仏の実例は挙げられない」と言う。
脱線するが高野山の奥の院は空海の
カリスマ(独・Charisma所持を示す”空海の恩寵(おんちょう)”の場所として重要視されている。

仏教世界では信仰される尊格は、如来~明王更には修験道から習合された尊格まで存在するが、空海は真言密教の世界では仏の中に入り信仰対象である、因みに川崎大師すなわち 金剛山金乗院平間寺の本尊は弘法大師空海である、異論も在ろうが実在者は釈尊と空海に限られるとも言える。 
空海の著書は招来した経典類と共に真言宗成立の根幹を為している、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」 「秘密曼荼羅十住心論(じゅうじゅうしんろん) その咀嚼書「秘蔵宝鑰(ほうやく)」  「弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん) 二巻」  「即身成仏義」(注22    「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」  「般若心経秘鍵」(後述)  「広付法伝(こうふほうでん) 二巻」  「文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん) 六巻」  「文筆眼心抄(ぶんぴつがんじんしょう)」「秘密曼荼羅教付法伝」など多数ある、著作とは言えないが遣唐判官・高階遠成(たかしなのとおなり)を通して朝廷に提出した「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」は著名で空海のパホーマンスが見られる、因みに般若心経秘鍵とは般若心経を密教的な解釈に変えた著作である、因みに秘蔵宝鑰の「鑰」であるが鍵と同意である。
脱線するが「御請来目録」の内曼荼羅に関する資料を挙げる
*
大毘盧遮那大悲胎蔵大曼荼羅 一鋪 七幅。
*
大悲胎蔵法曼荼羅 一鋪。
*
大悲胎蔵三昧耶略曼荼羅 一鋪 三幅。
*
金剛界九会曼荼羅     一鋪 七幅。

*金剛界八十一尊大曼荼羅 一鋪 三幅 が挙げられる。

秘蔵宝鑰では顕教と比較して「顕薬塵を払い密教蔵を開く」と宣言している。

「弁顕密二教論」に於いて空海は「衆生秘密」と「如来秘密」と言う二秘密があると言う、衆生秘密とは露顕された真実に凡夫は気がつかない為に秘密に見える状態である、対して如来秘密は低レベルの凡夫に教授すると害が大きい為に意図的に秘密とされた教えである。 

続日本記の書かれる、神話性を持つ死亡記事すなわち「卒伝」に依れば帝の「看病僧」であった玄昉道鏡等は権謀術策の世界では驚嘆な中傷を受けている、反して権力機構から外れた玄奘の弟子である道昭等は高い評価を受けている、玄昉、道鏡の後継と言える密教僧、空海は先輩の失敗を熟知して権力機構に参画した事だろう。
釈尊の十大弟子に倣ってか空海の十大弟子も言われており、人名に異論もあるが・真雅801879年)・智泉789825年)・真済800860年)・実慧786847年)・真如(~862年)・泰範778837年)・道雄(~851年)・杲隣767837年)・円明(~851年)・忠延(~837年)・真然804891年)が言われている。
正木晃氏に依れば日本には祖師
(最澄、空海、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍)と呼ばれる偉人は多彩であるが宗派を超えた人気は空海が頭抜けている、巡礼に於ける「同行二人」もあるが、他の祖師達との最大の相違は宗教と言うカテゴリーを越えた、土木Civil engineer等、社会事業に於ける活動が挙げられる、行基も社会事業に参画しているが法相宗の僧であり祖師ではない。
空海の肖像画は概ね三系統に絞られている、1、真如様 2、八祖様 3、善通寺御影様がある、1は高野山御影堂の系統で、2は東寺の系統、3は大師の後ろに雲に乗る釈尊が描かれている。

弘法大師空海の三大霊跡 高野山(金剛峯寺)   教王護国寺   善通寺 

 

祖師霊場として四国八十八所  

 


1聾瞽指帰(ろうこしいき)  我が国初の「比較思想論」と言える書である、797年空海24歳の作品とされ佛教・道教・儒教を比較して佛教の優秀性を説き佛法に無知(聾瞽者)な人間に対する指導書であると共に仏門に生きる宣言書でもある、内容は放蕩な蛭芽(しつが)公子に儒教・道教の個々の教師が説法するが効果は上らず佛教の仮名乞食(かめいこつじ)(空海自身)の説法に公子は得心して佛教に帰依すると言う内容になっている、三教論は中国がルーツであり登場人物は中国三教論による、因みに三教とは北周の時代に言われ創め・儒経・仏教・道教をさす、武帝は廃仏を行う折に三教論談すなわち儒者、僧侶、道士を集め議論させた。
因みに聾瞽とは無知即ち闇の中で真実を知らない愚者を言い、指帰は示す意味を持つ、愚者に真理を示すとなる。
鼈毛(べつもう)先生論」「虚亡隠士論」「仮名乞児(かめいこつじ)論」「観無常論」「生死海賦(しょうじかいのふ)」「十韻詩」で構成され、空海は日本に請来されていた諸経典・南都六宗の教義や中国の思想哲学などに精通していた、また指帰は玄奘と共に仏典翻訳事業に参加した当時の佛教界の最高指導者で南山律宗の祖である道宣(596~667)の著述や白氏文集(はくしもんじゅう)文選(もんぜん)を参考にしたとも言われる。


2三教指帰(さんごうしいき) 空海の処女作で仏門に入る宣言書でもある聾瞽指帰の改訂版と言える著作で、主に序文と末尾の「十韻の詩」、本文の一部分を書き換えた書で帰朝後の著作で道教、儒教の解釈に一部変更されたとの指摘がある、三教指帰とは三教に対する真理を意味する。
四六駢儷(べんれい)調で物語風に書かれている、兎角(とかく)先生が主役で儒教の亀毛(きもう)先生・道教の虚亡隠士・仏教の仮名乞児を登場させて、儒教・道教・佛教を比較し佛教の優秀性を示した日本最初の比較宗教論である、但し聾瞽指帰が原本であり空海とは別人の著作説がある、聾瞽指帰との相違は序文と末部の十韻詩(じゅういんし)が異なり、本文も一部変更されている、また三教とは儒教・道教・佛教を言う。
四六駢儷体に付いて、儒教の亀毛先生論の一部を挙げると「筆謝除痾 詞非殺将 欲披彼趣 悱悱口裏 黙而欲罷 憤憤胸中」、筆は()を除くことを謝し、()(しょう)を殺すに(あら)ず。彼の趣を(ひら)かんと欲すれば、口裏(こうり)悱悱(ひひ)たり。黙して()めんと欲すれば、胸中に憤憤(ふんぷん)たり。 (空海と中国文化、岸田知子著、大修館書店より)。 


3十住心論(じゅうじゅうしんろん) 830年(天長7年)淳和天皇は日本仏教界の権威者達に要請した宗派の教義書の真言密教部分である。
天皇からの要請であり天台宗の義真、三論宗から玄叡、法相宗から護命、律宗から豊安、真言宗から空海が提出しがた、十住心論に反論出来る宗派は無かった、日本宗教史上最大の傑作の評価がある比較思想論である、密教と顕教の位置付けを著した著作で空海最大の力作と言える、詳しくは「秘密曼荼羅十住心論」と言い、後に要約された書を「秘蔵宝鑰」と言う、これに反論出来る論客は僅かに会津から即身成仏義等々を批判した「真言宗未決文(しんごんしゅうみけつもん)」を著した徳一のみで、約一世紀後の安然による「胎蔵金剛菩提心義略問答抄」を待たねばならなかった。
大日経
大日経疏を熟読して著された著述であり「住心品」から名称を採用した空海晩年の作である、日本に於ける真言宗成立の根本理論書で正式には「秘密曼荼羅十住心論」(広本)と言い,全十巻を簡略化して秘蔵宝鑰(ほうやく)(略本)として三巻から成り巻上で世俗・儒教や道教等、巻二は声聞、縁覚、巻三に法相、三論、天台、華厳を取り上げ十番目に秘密荘厳心すなわち真言を表わし人間の修行・精神の発展段階を十段階に説き世間道・小乗・大乗・と進み密教で完成される説き、胎蔵界曼荼羅は十住心論を視覚に訴え図形化したものである、因みに略本(秘蔵宝鑰)は嵯峨帝の依頼を受けて提出された宝鑰である
日本教(注18)と言う造語の創設者の一人山本七平氏をして十住心論は日本教の知られざるバイブルと言う、また 津田真一氏に依れば善無畏三蔵は大日経住心品を「入真言門住心品」と訳しており十住心論は大日経住心品から由来したと言う、十住心論は総ての宗論の最高位に位置しており、密教世界では「九顕一密」と言う
十住心論、十段階の内訳
1、異生羝羊住心(いしょうていようじゅうしん) (一向行悪行)       異生とは取り柄のない凡人を言う、 羝羊とは迷える羊で食欲・性欲以外に無い人間で羊と同類 
2、愚童持斎住心(ぐどうじさいじゅうしん) (儒教など)         愚童とは馬鹿な子供並みで道徳、倫理は持つ    
3、嬰童無畏(ようどうむい)住心 (道教・バラモン)     嬰童とは幼児が母に抱かれて安心な状態、道徳が宗教心に目覚める 
4、唯蘊無我(ゆいうんむが)住心 (声聞乗・小乗佛教)   五蘊を認めず一蘊すなわち一切法のみで仏教入門のランク 
5、抜業因種(ばごういんじゅ)住心 (縁覚乗・小乗佛教)   釈尊の説教をあまり聞かず一人で覚りを目指す 
6、他縁大乗(たえんだいじょう)住心 (法相宗・大乗佛教)   衆生の救済を目指す大乗の入門で唯識を指す 
7、覚心不生(かくしんふしょう)住心 (三論宗・大乗佛教)   空・中観を目指す
8、一道無為(いちどうむい)住心 (天台宗・大乗佛教)   一道  一実中道すなわち天台の教え 
9、極無自性(ごくむじしょう)住心 (華厳宗・大乗佛教)   究極の真理であるが自性が欠け未完成、すなわちまだ浅略釈  
10
秘密荘厳(ひみつしょうごん)住心(真言宗・大乗佛教)    秘密の真理を会得の心即ち深秘釈 。 
    
真言宗は空海の十住心論に於いて密教の前段階の9極無自性(ごくむじしょう)住心究極の真理であるが自性が欠け未完成、すなわちまだ浅略釈ていが、華厳最高ランクてい大師 *円教(華厳)*頓教(禅) *終教(如来蔵)  *大乗始教(唯識・中観) *小乗教 にランク付している。 (華厳五教章を読む・武村牧男・春秋社)


  


注4、即身成仏義  瞑想を通して”根源佛”即ち大日如来を念じ陀羅尼を称え生身の体で仏になる方法論を言い、両部の大経と菩提心論をベースにして著された著作で、これを「二経一論八個(はっか)の証文」と言い、世界を構成する六大無礙(むげ)すなわち地・水・火・風・空に識を加える六大無礙をもって一切諸法の原理とする、六大は仏すなわち大日如来と衆生と同根、共通云々と言う難解な書である、即身成仏には三種あり、己の本質は大日如来と同根の境地の「理具の即身成仏」、仏と己との感応道交の境地を言う「加持の即身成仏」、俗人のまま輝きを持つ「顕徳の即身成仏」がある、関連する著作に「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」「吽字義(うんじぎ)」がある。但し即身成仏義には真撰偽撰問題があり、六大思想に関して附言等々、偽撰の疑い説も根強い
 

偈頌(げじゅ)が著名である、 六大無礙(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり(体)、 四種曼荼各各(おのおの)離れず(相)  三密加持すれば速疾(とくしつ)(あらわ)る(用)、  重重帝網(たいもう)なるを即身と名付く(無碍(むげ))。 

三密加持(かじ)であるが、三密とは身、口、意の三業を言う、加持とは梵語のadhisthana(アディシュターナ)で如来・菩薩が呪力によりパワーが衆生に伝えられる事を言う、また入我我入(にゅうががにゅう)一体る)同意
密教に即身成仏は必要不可欠(essentiol)であるが経典に記述はない。


  弁顕密二教論
  竜樹の大智度論を引用したと考えられる教論で密教に対する説明がある、秘密には如来秘密と衆生秘密があり、大日如来の法身は深奥であり、釈迦の説いた応化の教義は顕教と言い浅い教えと言う
    

  秘蔵(ほう)(やく)
   十住心論をコンパクトに纏めた略本   嵯峨上皇、潤和天皇に請われて著わした十住心論の解説書でもある、信仰のレベルを段階的に示した既存仏教の批判書、因みに秘蔵宝鑰とは「秘密の蔵を開く鍵」を意味すると岸田知子氏(空海の文字とこば・吉川弘文館)は言う。
    

  秘密曼荼羅教付法伝
 真言七祖の伝記や密教の成り立ち 

即身成仏義の中心思想は「六大無礙にして常に瑜伽なり、四種曼荼各々離れず、三密加持すれば速疾に顕わる、重々帝網なるを即身と名ずく」、 空海の即身成仏義の他に著者不詳の後発が六種存在する、第三本が空海作より詳細な様子で「三種即身成仏」と言う、因みに成仏義には *理具成仏、 *加持成仏 *顕徳成仏がある、また空海作にも異論がある。
因みに正木晃氏に依れば”即身成仏“と言う熟語は密教のキーワードとも言えるが、経典に即身成仏に記述は観られないと言う、但し空海の「即身成仏義」は経典ではないのでカウントされないが、日本では空海以来ひろく言われる様になった。

5空海の書
日本書道界の祖とも言われており、嵯峨天皇と空海、共に入唐し空海自筆の書に筆が混じるとされる橘逸勢(はやなり)で三筆とされる、但し逸勢の真筆と断定できる書はない、優れた書家同士として嵯峨天皇との信頼関係も強固であったのではと推察される。
空海の書とされる物は多いが真筆と言われる書は少なく贋作や模写本が多い、風信帖(ふうしんじょう)(空海から最澄宛の書簡・東寺) ・灌頂歴名(神護寺に於いて両部曼荼羅の灌頂を与えた人名) ・真言七祖像賛(真言7祖絵に筆を加えた、東寺) ・聾瞽指帰(金剛峯寺) ・金剛般若経開題(815年の草稿・奈良、京都国立博物館) ・大日経開題(三宝院) ・三十帖冊子(唐で書いた真言・経典などの記帳書・仁和寺)などがある。
因みに三筆の一人橘逸勢の真筆と証明された書はない。


6真雅(しんが) 801879   真言宗・小野流の祖で法光大師の諡号を持ち空海の弟である。空海を師とし19歳で具足戒を受ける、後に嵯峨天皇に依頼され清和天皇の生誕を祈願。 

825年弘福寺(川原寺)別当、847年東大寺別当、856年大僧都となる、清和天皇や藤原良房の帰依を受け貞観寺僧正となる、860東寺長者。 

弟子に真然(注7)や醍醐寺を起こした聖宝がいる。 


7真然(しんねん) 804~892  智泉
空海の甥で高野山に於ける伽藍の完成者で高野山の経営の安定に努め、座主制を採用した、没後の事であるが「三十帖策子」の貸借をめぐり高野山と教王護国寺の紛争の原因を作る、874権律師、884年教王護国寺長者。
智泉も空海の甥で空海の入唐に随行したとも言われる、空海の案内で大安寺に於いて受戒、行基の開いた岩船寺中興の祖とされるが定かではない、嵯峨天皇の妃(橘嘉智子)の皇子誕生を祈願し後の仁明天皇が誕生する。


注8 、空海の十大弟子と言われる人々があり、実恵(観心寺の祖)・真済・(神護寺)・
真雅(注6)・道雄・円明・真如(平城天皇の皇子)・杲隣(ごうりん)(修善寺の祖)・智泉(注7)・忠延とされる。


9入唐八家 唐に留学した高僧を言い 最澄 ・空海 ・円仁 ・円珍 ・円行(真言宗) ・常暁(真言宗) ・恵運(真言宗) ・宗叡(真言宗)を言う、入唐僧には短期滞在の還学僧と20年を目途とした留学僧があり最澄は桓武天皇勅命の還学僧であるのに対して空海は一介の留学僧であった。

10阿闍梨(あじゃり)とは阿舎梨・阿闍梨耶とも書き、梵語のācāryaSanskrit(アーチャリー)の音訳で意訳をすれば師・規範となる、教団の高位の指導者を指し空海も唐に於いて師の阿闍梨恵果より最高位の伝法阿闍梨位灌頂を受けている。  
阿闍梨の種類は特に選ばれた大阿闍梨、法を指導する教授阿闍梨、最高位の灌頂を受けた伝法阿闍梨、高貴な身分の者がなる一身阿闍梨、勅命による七高山阿闍梨などが在る。
 


11勤操 758827   三論の学僧で若き日の空海の師と言われ、彼の入唐をフォローしたとされる、姓は秦と言い12歳で大安寺に入る、23歳で具足戒を受けた。813
伝灯大法師位を受け律師となり「金光明最勝王経」を論じ法相宗など諸派を論破する。819少僧都(しようそうず)となり東寺や西寺の別当を歴任827年西寺北院に於いて遷化した後に僧正位を追贈される。帰国後の空海から三昧耶戒を受け密教にも精通する、因みに空海に伝えたとされる虚空藏求聞持法は正式には「虚空蔵菩薩能満諸願最勝(のうまんしょがんさいしょう)心陀羅尼求聞持法(しんだらにぐもんじほう)」と言い、真言を百万回唱えると記憶方法・福徳・智恵の増進等を修める事が出来る密教以前の修法で若き日の空海もこれを受けてをり三教指帰にも使用されている。    


12薬子の変 平安初期の朝廷内部の政変、平城天皇は809年病で同母弟の嵯峨天皇に譲り上皇となるが、回復後に重祚を藤原仲成やその妹で平城天皇寵愛を受けた尚侍薬子が計画するが敗退上皇は剃髪出家し薬子は服毒自殺し怨嗟・怨霊を残す、因みに尚侍(しょうじ)とは女官の最高位で、この時代天皇と閣僚との間にあり、奏上して裁可を仰ぐ奏請(そうせい))や勅旨を伝える伝宣(でんせん)をとり行う、近年歴史教科書では「平城太上(へいぜいだいじょう)天皇の変」と呼ばれている。


13空海生誕地には善通寺の他に畿内説や香川県仲多度郡多度津町の海岸寺説がある。

14内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし) 722年に制度化され禁裏内道場にに於いて天皇の安全祈願・護持役を果たす高僧を言い定員十人とし平安時代以降は天台宗と真言宗から選別された、空海は820年伝燈大法師・内供奉十禅師に就任する、ちなみに最澄は797年には内供奉十禅師を授かっており入唐時は既に就任していた。

15、伝持八祖  真言宗に於いて八祖には「付法八祖」「伝持八祖」が言われている、「付法八祖」は大日如来金剛薩埵龍猛
龍智・金剛智・不空・恵果・空海 となるが、「伝持八祖」は実在しない大日如来と金剛薩埵を省き、善無畏(五祖)と一行を加えている。

16慈円(慈圓) 11551225  吉水僧正と呼ばれ諡号は慈鎮和尚((じちんかしょう)と言い、関白で法然の最大の理解者である九条兼実の実弟、幼少時に青蓮院に入り居宅する、比叡山に上るが一時期、護持僧を務めた後鳥羽上皇、 関白・九条兼実の力を背景に異例の速度で昇進を果たし1192年天台座主に就任、後座主を四度(62代・65代・69代・71代)勤め勤め親鸞の得度を行う、法然を庇い青蓮院の中の勢至堂を与え後に知恩院となる、1197年後白河上皇の六女・宣陽門院や源通親等により失脚する。
慈円の著作に「天台観学講縁起」「毘廬遮那別行経鈔」,史論書「愚管抄」・歌集「拾玉集(しゅうぎょくしゅう)」等があり、歌人・哲学者として著名である、「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をいう」。


17、 釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん) 大乗起信論の注釈書で竜樹の作と言われるが、中国で8世紀初頭に華厳経を典拠に登場した哲学で竜樹とは時代が合わない、空海が密教と顕教の相違の説明に引用した様で如来蔵と阿頼耶識の結合を理論化したとされ本覚思想と密教おも一元化している。

首楞厳経とは「大仏(だいぶつ)(ちょう)如来(にょらい)密因(みついん)修証(しゅしょう)(りょう)()諸菩薩(しょぼさつ)万行(まんぎょう)首楞(しゅりょう )(ごん)(きょう)」と言い唐時代の疑経ともいわれる、首楞厳は、一切事究竟(いっさいじくきょう)堅固(けんご)を意味する。


18、日本教 山本七平氏と米国人のジョセフ・ローラ・ユダヤ人のミーシャ・ホーレンスキー三人共同のイザヤ・ベンダソンと言うペンネームで発表された「日本人とユダヤ人」の中で使われた造語。

19、空海に関する信頼性の高い史料は「続日本後期、巻四、空海卒伝」「空海僧都伝」「高野大師御広伝」等々十六典が挙げられている(武内孝善、空海をめぐる日本密教史、正木晃)。

20、讃岐五大師とは空海(弘法大師)・実慧(道興大師)・真雅(法光大師)・円珍(智証大師)・聖宝(理源大師)を言う、因みに平安以来日本に於いて大師号を授与されたのは22名である。

21、戒明 奈良大安寺の慶俊に華厳をまなぶ。(ほう)()年間(770780)勅命で入唐する。

帰国の際に十一面観音図像や「首楞(しゅりょう)(ごん)(きょう)」「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)」(注17)などを将来するが、当時の学僧達から首楞厳経を偽経ちされて隠遁、空海と同じ讃岐出身。

22真言八祖  「付法八祖」(金剛界系)と「伝持八祖」(胎蔵系)が言われている。 
八祖の本流として空海の広付法伝から金剛界系の「付法八祖」があり、大日如来から密教の説法を受けた金剛薩
が伝えたと言う伝承があり大日如来金剛薩 ・龍猛・龍智・金剛智・不空・恵果・空海が言われる。   「秘密曼荼羅教付法伝」(広付法伝)
またこれも空海の「略付法伝」からとされ胎蔵系の
「伝持八祖」は実在しない大日如来と金剛薩を省き、善無畏・一行を加えている、伝持八祖の制定は御室派が嚆矢で金剛頂経を意識した付法八祖に対して大日経と恵果の位置付けを加味して設けられた、善無畏・一行を加えた事は付法八祖の場合は金剛頂系を表しており中期密教すなわち金胎不二の観点から疑問を生じており大日経系を加えたと言われている
「伝持八祖」の名前と持物は通常諸説あるが 「龍猛」(龍樹)三鈷杵 ・「竜智」梵経 ・「金剛智」念珠 ・「不空」印形 ・「善無畏」印形 ・「一行」印形 ・「恵果」童子・「空海」五鈷杵とされ真言祖師とも言う、また「住持の八祖」とも言われる
中でも龍樹(竜猛)は大乗仏教の祖であり中国八宗の祖・日本八宗の祖とされている、著作に中論・一二門論・大智度論(注3)大乗二〇頌論などがある、ちなみに八祖の宗派は法相宗・抑舎宗 ・三論宗 ・成実宗 ・律宗・華厳宗・天台宗・真言宗を言う。
空海の著作「秘密曼荼羅教不法伝」の意図に「道は自ら(ひろま)ず、(ひろむ)よる。()()(じゃ)()()ろ。上、高祖法身毘盧如来より、下、清龍の阿闍梨に至るまで絶えず」記述がある(仏画の読み方、高橋尚夫、大法輪閣)  

真言八祖像は四国八十八所26番札所の「金剛頂寺」に於いて重文指定を受けて存在している、木造板彫りで彩色が施されている、ちなみに金剛頂寺は空海の創建と伝えられ嵯峨天皇と清和天皇の勅願所であった。   金剛頂寺の真言八祖像 龍樹88,6cm ・龍智86,4cm ・金剛智85,8cm ・不空87,4cm ・善無畏85,5cm ・一行87,4cm ・恵果87,2cm ・空海87,3cm 鎌倉時代。


注23、 高野山金剛峯寺に於ける全体の総門で聖域と下界との結界を示す大門は・総高25.1mで知恩院の24mを凌ぎ東大寺南大門の25.46mと略肩を並べる、金剛力士(約5.500cm)は阿形は康意、吽形が運長と言う京仏師の作である、また大門の柱聯(ちゅうれん)には「不闕日日之影向」(日日の影向を(かか)さずして)「検知處々之遺跡」(処々の遺跡を検知す)があり空海の入定信仰が生きていると言えよう。


24、 空海が入ったと言う大学とは、正式には「大学寮(だいがくりょう)」と言い、国家が天皇に仕える官僚機構すなわち律令(りつりょう)制のもとで作られた式部省で官僚を育成の為に創めた機構である、儒教、法律、算道等々を学び成績優秀者は高級官僚への道が開かれていた。入学資格は八位以上の官僚の子弟が中心であった。



                    
                 仏像案内     寺院案内     高僧 

2006211日更新 822日 注11  2007917日 最澄との比較  2008616日弁顕密二教論 2010421日海空智蔵経 2011324日注1~2 2011236日 2013年5月19日注18 2014年9月12日注22、 11月13日 2016年7月30日 2017年5月21日 10月18日 2018年2月24日 4月8日 2019年3月11日 2022年4月19日 8月8日加筆
 





inserted by FC2 system