道 鏡   ?‐772(宝亀3)  
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奈良時代後期の雑密僧
(注1で政治に参画し、大臣禅師、太政大臣、法王と驚異的な出世をする。

現在の八尾市すなわち河内国若江郡の出身で俗姓を弓削連と言う、出自に付いては二説が言われ天智天皇の孫とか、廃仏派の頭目であった物部守屋の子孫説がある。 

法経としては行基―義淵―良弁の所謂唯識の系列の中にあるが、奈良時代に於いて玄ムと並ぶ密教僧であり山岳修行者(修験者)でもある、堪能な梵語を駆使した陀羅尼や仰星術の一つである宿曜など空海の先達的な役割を果たしている。 

道鏡は青年時代葛城山に於いて如意輪観音法を修行しており、師筋に当たる義淵が興した竜蓋寺(岡寺)に於いて観音菩薩如意輪観音を発願している、如意輪法や密教占星術(宿曜占星)等の呪術に優れ密教系の観音信仰に篤かった様である、但し道鏡が文書(正倉院文書)に登場するのは747年「東大寺良弁大徳御所使沙弥」としてである為に詳細は定かでない。
道鏡の密教は霊能力に長けていた様で呪術に偏重していた、称徳天皇は道鏡の為に大臣禅師と言う職を作る等寵愛した、先達の玄ムと共に看病禅師(かんびょうぜんじ)の嚆矢とも言える僧である、看病禅師とは皇族の為に宮中に於いて病気平癒を祈祷し呪術や医療の知識にも長けた僧を言う、また護持僧の役割も行き過ぎがあったようだ   
悪名高い道鏡であるが称徳女帝とのスキャンダルで失脚したとされる、しかしこの事件は藤原一門が既得権を守護する為の謀略説が言われている、すなわち道鏡に「看病僧」として権力が集中していた時期に仏教重視政策に偏り公卿抑圧政策を行う、貴族の墾田開発を禁じたが、寺院の開発を認め、百姓にも狭地の開発を認めた、道鏡は761年頃に孝謙上皇が病気の際、
占星術の一種である「宿曜(すくよう)秘法」を用い病平癒させて(ちょう)(こう)を獲得したが、この時代の僧侶の行状や法系からスキャンダルを起こす事は無理と考えられる、道鏡は以前には葛城山で修行した修験者である、時代は違うが小角 も葛城山で修行した修験道の祖である。
雑密とは教義や修行を含めて密教として未体系な行である、占星術すなわち星占いや病平癒等を祈願する未成熟な陀羅尼を主体とした会が中心であった。  

また孝謙天皇が退位して淳仁に譲位したのは、孝謙の母である光明子を介護する為とも言われる、同じ天武系であるが傍系の淳仁を廃して称徳として重祚した為に淳仁の側近貴族達も加担したとも考えられる。 

玄ム、道鏡などの雑密から空海の純密までの隘路に関して、玄ム、道鏡の出自に対して、武内孝善氏は空海の母方の「阿刀氏の一族から、玄ム、善珠、道鏡、玄賓など奈良から平安初期を代表する高僧を少なからず輩出している」と言う、(空海はいかにして空海となったか、角川選書)、道鏡は弓削姓であるが、阿刀と同じ物部氏の末とされている。

平安初期の勅撰史書である続日本記(しょくにほんぎ)の書かれる、神話性を持つ死亡記事すなわち「卒伝」に依れば帝の「看病僧」であった玄ム、道鏡等は権謀術策の世界では驚嘆な中傷を受けているが、日本に於ける雑密の先駆者である事に疑いは無い、反して権力機構から外れた玄奘の弟子である道昭等は高い評価を受けている。 



注1、 密教は日本に於いては雑密すなわち雑部密教と正純密教(純密)分類されている、また空海以前すなわち雑密は前期密教に、空海が請来した純密は中期密教に分類されている、後期密教は中国や日本には左道(淫し)佛教としてタブー視されていたが、チベットやブータンなどは後期密教すなわちタントラ佛教であり近年見直しがされている、玄ム道鏡は雑密僧にも分類出来る、因みに雑密の熟語は空海の「真言宗所学経律目録」が嚆矢と言われている、空海は純密と言う熟語は使用しておらず両部と呼称していた、この二項対立を始めたのは慧光(16661734年)と言う僧が嚆矢で江戸時代中期以降である。 



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2011117日 2012612日注1 2020年3月18日更新

 

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