玄昉  (691746年   

                    説明: C:\Users\Owner\katada202\jinnmei\button1.gif       仏像案内    寺院案内    高僧

日本に於ける法相六祖の一人で法相宗の学問僧、717年入唐し20年程の間に成唯識論の碩学智周に法相すなわち唯識教学を中心に雑密を含む他宗派の教学や広範囲な文化を学ぶ、735年帰国し請来した仏像や初期密教経典関連即ち、「開元釈教録(かいげんしゃくきょうろく)」や一切経等五千巻の経典等を光明皇后に提出し光明子の写経発願に尽力する、その中には密教経典の善無畏の「大日経」「蘇悉地経」、金剛智の「金剛頂経」等が含まれていた、この功績により光明皇后から海龍王寺を賜り737年僧正となる、因みに開元釈教録とは中国に請来された経典総てを収録された仏典の総集編的な書である。
留学中に唐の玄宗皇帝から、皇帝や後に天皇の勅許が必要とされる紫袈裟の着用を許された、帰国後に宮中に於いて聖武天皇の母の
(藤原宮子)病平癒の祈願に成功する等
人にとりついた悪霊を追い払うポスト、日本的には祓魔師(ふつまし)カトリック的に言えばエクソシストExorcistとして活躍した、看病禅師(かんびょうぜんじ)の嚆矢とも言える僧である、看病禅師とは皇族の為に宮中に於いて病気平癒を祈祷し呪術や医療の知識にも長けた僧を言う。 

また橘諸兄政権の下で同時に留学し称徳女帝の重祚の頃大納言から右大臣を務めた吉備(きびの)真備(まきび)と共に権勢を振るうが、二人の追放を狙った藤原広嗣の反乱、や聖武天皇の後継問題などに関連し反発を呼ぶ、また光明皇后の四兄弟(藤原武智麻呂・房前・宇摩合・麻呂)の天然痘による死亡時に祈願に成功せず、光明皇太后の庇護の下で権力をつけた藤原武智麻呂(むちまろ)の第二子である仲麻呂との政争に敗れた玄昉は観世音寺建立を名目に九州に事実上左遷され、観世音寺に於いて7466月に憤死する、一説には都地の決定に関連しており毘盧遮那仏の建立地を平城京を主張する仲麻呂に対して玄昉は紫香楽を主張していた、また玄昉は僧正位にあったが平城の四大寺大安寺薬師寺元興寺興福寺の支持が無かった事も失脚の原因とも言える。(成唯識論の概説は注8南都六宗の法相宗参照)  
呪術を重視した玄昉は道鏡と共に日本密教の黎明期を構築した僧侶で空海の先達であり密教すなわち雑密(空海以前を雑密と言う)のパイオニアである、また変化観音信仰を日本に広めた先達である、特に唐に留学中に流行した千手観音に対する信仰が篤く、日本仏教界に於いて千手観音信仰を飛躍的に興隆したのは玄昉の力量と言える、行動として「玄昉願経」すなわち「千手千眼観世音菩薩大悲心(だいひしん)陀羅尼経」を千巻写経している、この陀羅尼経を様々な修法に使用したとされる、因みに東大寺不空羂索観音葛井寺の千手観音などは玄昉の関与が指摘されている。 
玄昉は唐に伝えられた総ての経典を網羅した「開元釈教録」を招来しており、これを読破していたと考えられる、即ち唐に伝えられていた経典に通じていたと思惟される、玄昉が齎した五千巻の経典には両部の大経即ち「大日経」「金剛頂経」や「蘇悉地(そしつじ)経」など純密・雑密に於ける重要経典も含まれていた、即ち玄昉は道鏡と共に密教将来に於ける先達の役割を果たしている(正木晃著・空海をめぐる人物日本密教史)、また正木晃氏は玄昉が日本に於ける変化観音信仰の先達と指摘されている。
閑話休題、
玄昉、道鏡などの雑密から空海の純密までの隘路に関して、玄昉、道鏡の出自に対して、武内孝善氏は空海の母方の「阿刀氏の一族から、玄昉、善珠、道鏡、玄賓など奈良から平安初期を代表する高僧を少なからず輩出している」と言う、(空海はいかにして空海となったか、角川選書)、道鏡は弓削姓であるが、同じ物部氏の末とされている。
ここで注意すべきは即身成仏を言う正純密教すなわち純密と、現世利益を言う雑部密教すなわち雑密の区分方法は空海を基準点にしたものであり日本以外では使用されていない、因みに恵果、空海以前を「初期密教」、以後を「中期密教」に分類する事もある。

但し空海は「純密(正純密教)」と言うタームは使用していない、しかし当初は空海が請来した経典群の整理に於いて大日経系を「胎蔵部」、金剛頂系を「金剛部」とし、何れにも属さない密教系経典を雑部と分類したことに始まる、初期密教すなわち雑部密教と正純密教、中期密教との最大の相違は本尊に相当する世尊如来が釈迦如来から毘盧遮那仏(大日如来)への移設と言える。
玄昉には奇妙な伝承がある、新薬師寺の近く高畑町921に大宰府から飛来してきた玄昉の首塚と言われる頭塔があるが俗説である、また大宰府の観世音寺の境外に胴塚とされる板碑(いたび)がある、東大寺要録には土塔と記述された頭塔は華厳経を基に作られており良弁(ろうべん)の弟子である実忠(じっちゅう)の作と言われている、因みにこの頭塔は日本のピラミッドと言う人も居りw30mH10m7段ありピラミッ型で構成されている。
定かとは言えないが玄昉は道鏡と共に物部系の出身と言う記述もある
(林春彦・聖徳太子の実像に迫る)。
735(天平7年)玄肪の帰国は吉備真備の他に、東大寺の大仏開眼に於いて大安寺に居住していたバラモン僧で開眼会の導師であった菩提遷那(ぼだいせんな)咒願師(じゅがんし)(呪願師)を務めた唐僧道璿(どうせん)、仏哲等の渡来と同時であった、因みに吉備真備は儒教、道教を学ぶ「二教院」と言う日本最古の学校を開設している。

続日本記(しょくにほんぎ)の書かれている神話性を持つ死亡記事すなわち「卒伝(そつでん)」に依れば帝の「看病僧」であった玄昉、道鏡等は権謀術策の世界では驚嘆な中傷を受けている、反して権力機構から外れた玄奘の弟子である道昭等は高い評価を受けている。

 

1、 密教は日本に於いては雑密すなわち雑部密教と正純密教(純密)分類されている、また空海以前すなわち雑密は前期密教に、空海が請来した純密は中期密教に分類されている、後期密教は中国や日本には左道(淫し)佛教としてタブー視されていたが、チベットやブータンなどは後期密教すなわちタントラ佛教であり近年見直しがされている、玄昉や道鏡は雑密僧にも分類出来る、因みに雑密の熟語は空海の「真言宗所学経律目録」が嚆矢と言われている、空海は純密と言う熟語は使用しておらず両部と呼称していた、この二項対立を始めたのは慧光(16661734年)と言う僧が嚆矢で江戸時代中期以降である、大乗仏教と言う潮流の内で主流的な流れに中観派と瑜伽行唯識派がある、この内から密教への流れがあり、中観派は胎蔵密教へ行き、瑜伽行唯識派は金剛界密教への道を辿ったとの説がある。 




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2011113日紫袈裟他 2016年4月14日 2017年3月4日加筆    



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