奈良時代の法相宗の僧で 唯識論の権威、父の高志氏は百済系渡来人で、白山信仰者、泰澄の神仏習合・八幡信仰を日本に定着させた。
長安に於いて玄奘三蔵と慈恩大師
六世紀唐に於いて信行(541~549年)を祖とする三階教と言う宗派が流行し玄奘、道昭を介して行基に影響を与えたとされる、三階教とは三時観(正法、像法、末法ー法滅注3)が含まれているが華厳経、涅槃経、法華経、維摩経等々の経典を纏めた宗派で道昭が玄奘の下で学んだ時に請来した経典で「明三階仏法」「略明法界衆生機浅深法」「大方広十輪経」「大集経」等がある、閑話休題、インドでは三時観は千年であるが、女性の出家が許された為に正法のみが五百年に短縮されたと言う記述が存在する様だ。
前半生の行動は定かとは言えないが、15歳で元興寺に入り大乗佛教の中で最難解とされる瑜伽(yogā)(注2)・唯識を学び、法興寺・薬師寺を経て山岳修行すなわち修験者としての修行を行ったとされる、当寺私度僧や民衆のカリスマ的存在に上り詰めており、東大寺創建に於いて聖武天皇から造東大寺大勧進の宣旨を授かり尽力する、749年(天平勝宝元年)大仏開眼を見ることなく逝去するが、在命中はは僧正位にあり僧網の権威をふるう玄昉の行動を阻止する目的もあり745年(天平17年)大僧正位が行基の為に新設された。
また菩薩号を授けられたと言う伝承が有る、師の道昭の勧めで「天下に周遊した」を学び諸国を廻る、彼の元に私度僧が多く集まり民間佛教の伝道と社会事業に尽力する、師の道昭は宇治橋を架設した僧で弟子の行基は特に土木技術に精通していたとされる、因みに独自に剃髪した私度僧に対して官位や勅許を授かるなど戒壇院で得度し僧尼令により保護や規制を受けた僧を官度僧(官僧)と呼ばれた。
また行基により創建されたと言う寺は畿内49院にのぼるとされ布教は勿論こと社会事業の拠点となった、山岳修行時代に豊富な技術者等の人脈を持ち彼の指導による仏像や灌漑工事・橋梁・堤防・港など多く作られたと言いその名声から多くの伝承を残した、因みに行基の関連した寺院は一千四百か所に及ぶとか坂東三十三所
白山信仰に於いて本地垂迹導入の嚆矢と言われる泰澄の影響も言われており、行基の時代は木造の仏像は少ないとされていたが仏師達も傘下にあり行基仏と言われる尊像が造像された様である、行基は木材の中から仏を感得して素彫で多くの神像を含む造仏を行ったとされる、ただし白山信仰の象徴とも言える泰澄から本地垂迹等を学んだとされるが泰澄が実在したか定かではない、行基仏とされる像は地福寺(京都市西京区大枝中山町)をはじめ存在はするが伝承の領域を出ない。
行基作とされる仏像に京都・地福寺の阿弥陀如来や釈恩寺の十一面観音等があるが定かではなく伝承の範疇に入る。
745年 大僧正 また歌の名手で有ったらしく行基の詠んだとされる歌が残っている。
玉葉集 「山どりのほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」
大仏開眼の約3年前に82歳の生涯を終える。
伝承ではあるが行基は弥勒信仰に篤く兜率天の宮に存在すると言われている49院を日本に建立できる様務めたという、根本誠二氏の「奈良仏教の地方的展開」に依れば行基の関連した温泉の出る処に薬師如来を多く奉ったと言う、・有馬温泉(兵庫県)・山中、山代温泉(石川県)・吉奈温泉(静岡県)・作並温泉・三谷温泉(愛知県・木津温泉(京都府)等々をあげておられる。
行基が創建したと伝えられる寺院は集まった弟子たちと共に布教道場いわゆる布施屋が寺院となる、これが行基49院と呼ばれ(寺院34寺・尼寺15寺)多く存在するが、東大寺の造東大寺大勧進、奈良県・霊山寺 長弓寺 京都府・宝積寺 大阪府・金剛寺 孝恩寺 家原寺 喜光寺
獅子窟寺 滋賀県・金剛輪寺など行基による勧請開山すなわち創建伝承寺院は東北地方までにも及ぶ、その他行基による開山伝承の寺院は全国多数にのぼるが、多くは「勧請開山」すなわち行基を慕う法弟・法孫達によるものであろう、因みに行基は法弟たち私度僧の帰依処すなわち宿泊拠点を建立したのであり自身での寺院建立は皆無であると田村圓澄氏は言う(古代日本の国家と仏教・吉川弘文館)。
1180年に東大寺再建の大勧進宣旨を受けた重源は行基の手法を踏襲したと考えられる。
注1、 僧綱所 仏教界を統括する為の組織で624年に薬師寺に置かれた、官位として僧正、僧都、律師、佐官等がある。
注2、 瑜伽 yagā 梵語ヨーガの音訳で「結びつく」を意味する、コンセントレーション・心のコントロール、相応等と訳される、関連は瑜伽行唯識学派に代表される。
注3、
仏教にも末法思想や終末論が言われるが、仏教本来の正統思想ではなくカルト仏教的な哲学との小室直樹説がある、殺戮を繰り返す一神教と異なり仏教にはジェノサイド(genocide)は無論の事、最後の審判的な思想がない、無限に近い因果律の仏教哲学の特徴と言える。
2011年5月1日 注1、 2014年6月30日リンク他 2021年3月10日加筆