1133~1212年
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、四百年の間に垢が累積した、政治と既存仏教の腐敗堕落等飢饉にも無力化した、即ち末法の時代に登場したのが日本独自の哲学を内包した、法然、親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮である、中でも法然の
日本に招来された佛教が呪術儀礼の乗せられた鎮護国家及び学問すなわち、為政者の為の佛教から、法然により民衆の為の佛教に改革された、僧侶には高位に就き法会を行い官位の獲得を目指す者と、権勢とは距離を置き遁世的な行動を採る僧に分類されるが、法然は後者に属する。
我が国には十三宗五十六派と云われたほどの多くの宗派が存在するが、その多くは招来した教義をアレンジした教義であると言える、法然の興した浄土宗が純粋に日本で興された宗教に於ける革命(revolution)であり日本仏教宗派の嚆矢と言える、法然の哲学は膨大な思想的究明の後に到達した衆生にも理解しやすい”南無阿弥陀仏すなわち他力本願”である、法華経、安楽品による天台の「四安楽の行」、即身成仏を看板とする密教の「三密の行」等々の難行を凡人には不可能視した教えである、因みに四安楽の行とは・身安楽行・口安楽行・意安楽行・請願安楽行を言う、また三密とは・身密・口密・意密を言う、後述するが即身成仏の実例は無い。
法然房・源空と言い浄土宗の開祖で幼名を勢至丸と言う、但し幼名に付いては父が勢至菩薩の様な人物になる様に等々、伝承の可能性が強く定かな証明は出来ない、幼くして父母を失い僧籍の叔父の元で育てられたには確かな様である、13歳頃に延暦寺に上り東塔西谷や東塔で学び1147年戒壇院で受戒、天台三大部(注7)を修学する、最初に師としたのは西塔北谷の学僧源光である、次に源光の推薦で叡山のエリート僧で「扶桑略記」の著者とされている皇円と変わるが、天台座主の育てようとする皇円の元を離れた、皇円の意思に関して疑問がある、この時代に叡山の座主は皇統か摂関家の出身者しか就任は不可能な時代であった。
1150年遁世僧の集まる西谷(現在の青龍寺)の叡空に師事し25年余りを報恩蔵(一切経が置かれる図書館)に於いて典籍の研鑽などで過ごす、その頃に法然房・源空の名を受ける、しかし観想念仏を主張し源心の系列の叡空と対立する、善導(注11)による「
法然の体験した一部を記録した非公開の書があると言う、その「三昧発得記」に依れば37日間まいにち七万辺称えた称名念佛に於いて浄土の聖相を感得したとされる。
法然は大変な読書家であった、「聖教を見ざる日なし、木曾の冠者花洛に乱入の時、ただ一日聖教見ざりき」(法然上人行状絵図巻五)」とある、法然は八万四千を超える膨大な経典を読破し天台教学は無論の事、南都教学、「一切経」の総てを習得し勢至菩薩の再来とも言われた、さらに精緻な浄土の分析や往生方法を求めていた、法然は仏教の要諦である三学に対して非器(注5)即ち覚りに到達できない事を悩みながら、源信の往生要集(注9)を研究する内に唐僧で浄土五祖の第三祖で中国浄土教の完成者である善導(613~681年)の著した観無量寿経疏(観経疏)に出会い、
董遇の言葉ではないが、「読書百遍、義自らあらはる」意自ずから通じたのであろう(魏志)、比叡山を離れ善導の念仏行者・遊蓮房・円照を訪ねた、そして東山大谷に庵を構えた、田村芳朗氏の説を借りれば、親鸞は「末代、凡夫、辺土の自覚から現世及び人間を否定して阿弥陀仏の他力による来世浄土への往生を説き他力往生としての念仏一行をえらびとった」と言う、ちなみに浄土五祖とは曇鸞・道綽・善導・懐感・少康の中国の五人を言う、別に鎮西派では・釈迦・善導・法然・弁長・記主(1199~1287年)を言う記述も見られる、因みに弟子の親鸞は七高僧を挙げている、「竜樹」「天親」「曇鸞」「道綽」「善導」「源信」「法然」である、また何人でも往生が可能と説いたのは「賛阿弥陀仏偈」の著者は七高僧の三番目の曇鸞である。
日本は鎌倉時代に漸く独自の思想を構築したと言われる、この思想を衆生に知らしめた思想人は法然が嚆矢であると井沢元彦氏は言う、要するに小説等々の文学には文化の蓄積は不要に近いが思想には文化・精緻な言語の蓄積が必要になる。
法然は自著「選択本願念仏集」において正しく浄土に往生する方法として「三経一論これなり」と言う、三経とは浄土三部経であり、一論とはインド僧・天親(七高僧の2)の浄土論の事である。
因みに浄土三部経を挙げると①仏説無量寿経 二巻 曹魏康僧鎧訳(大経) ②仏説観無量寿経 一巻 劉宋畺良耶舎訳(略称『観経) ③仏説阿弥陀経 一巻 姚秦鳩摩羅什訳(小経)である。
浄土三部経の根幹は”南無阿弥陀仏”であるが「法然の編集力、松岡正剛著、NHK出版」に依れば浄土三部経に於いても観無量寿経に二ヶ所記述があるのみで無量寿経、阿弥陀経、に記述はない、Sanskrit語やpāli語の文献や史料にも無いとの記述がある、善導による創語の可能性も考えられる。
善導の観経疏(観無量寿経疏)の内容を敢えて重複する、順彼佛願故の部分をそのまま著すと「一心専念陀陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」(一心に専ら阿弥陀如来の名を称へて、いつ何処でも時間の長短に関係なく、常時これを意識し継続する事が往生への道である、即ち阿弥陀如来の請願に順ずる)となる。
法然は比叡山を離れて吉水に隠棲するが梅原猛氏に依れば吉水は青蓮院の支配地であり慈円の庇護下で移る事が出来たのではないかと言う、法然が世間の認知をうけたのは1186年天台宗の顕真の依頼で参加した勝林院(現在の京都市左京区大原勝林院町1187)に於ける各宗派の碩学達との大原談義にある、既存宗派の教えは理論的には精緻であるが覚りの境地には遠く称名念仏により無智や破戒者でも往生が可能なことを論破した,法然は厳しい行を必要とする聖道門と口誦念仏で良いとする浄土門が有ると言い衆生には浄土門の選択を言い脚光を浴びた、さらに浄土門の行(saṃskāra・サンスカーラ)でも「正行」と「雑行」とに分類した。
法然の庇護者と言えば九条兼実、慈円兄弟であるが、他にも後の法連坊信空の父で右大弁職の藤原行隆、華厳宗の名僧慶雅、醍醐寺の三論の碩学寛雅、東大寺の重源等などがいた。
法然は矛盾点を内包した膨大な経典群を精査して「自力聖道門」と「他力易行門」に分類し、易行すなわち浄土門を選択した、教義・哲学よりも教団の装飾性に粉飾され国家儀礼・呪術や祈祷に偏る既存の佛教を否定した、また往生要集釈を著し源信の「往生要集」から多くの肯定意見を持ちながらも空也・源信による厳しい観想・修行をも否定し、何人にも理解できる専修念仏(称名念仏)信仰即ち浄土宗、立宗の書である「選択本願念仏集」を作り上げた、「せんちゃく」とは簡易に解釈すれば阿弥陀48願の内18願を最重要視する事でもある、要するに法然以前の念仏は往生の一つの手段に過ぎなかったが念仏のみに絞られた事に成る。
これは中国に於ける禅宗の六祖の衣鉢を競った神秀の難儀な「漸悟禅」(念仏系の聖道門)を否定した、慧能の易行とも言える「頓悟禅」(念仏系の浄土門)に繋がる。
法然は念仏のみを選択したが自身は持戒僧として生涯を終えながら弟子には破戒を容認していた、持戒が弟子である親鸞との最大の相違といえる。
「選択本願念仏集」は九条兼実の依頼で著述されたが一枚起請文を除けば唯一の著作である、直筆は内題の21文字のみで口実筆記で著されているが後の仏教界に与えた影響は測り知れない、法然の撰述に選択本願念仏集は著名であるが、華厳宗を中興した明恵は「摧邪輪」を著して邪論であるとして批判した。
一枚起請文では比叡山随一の碩学と言われた法然は「学文をして念の心を悟り申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思ひとりて申すはかには別の子細候はず」と言い、究極は「同唱十念」ただ単純に念仏のみを強調している。
法然の核となる教えに観無量寿経の心すなわち「安心起行」がある、安心には三心があり・至誠心(誠実な心)・深心(深く信ずる心)・回向発願(願往生の心)を言う、三心を一言で言えば浄土への往生を信じて疑わない心を言う。
法然は
仏教は鎮護国家の為にあり養老律令(701年・大宝1年)の僧尼令(注10)により僧侶は大衆との接触を禁じられていたが、法然の浄土門は庶民に急速に浸透した。
1189年に関白を勤めた九条兼実の帰依を受け、また大原談義に参加した東大寺の重源から依頼を受け「浄土の正依の経」即ち浄土三部経(阿弥陀経・観無量寿経・大無量寿経)を講義する等脚光を浴びた、さらに法然の弟子・証空・弁長・幸西・長西・隆寛・親鸞らが夫々の方法で浄土信仰を広める、法然は浄土三部経を平等に評価したが「偏依善導」すなわち”偏に善導一師に依る”、から浄土宗に於ける最優先経典は観無量寿経である、因みに法然は1190年の東大寺に於ける講説に於いて往生の奥義は浄土三部経と高説している。
浄土信仰の拡大に既存宗派の妬み、反発は激しく、1205年(元久2年)代に延暦寺や興福寺宗徒の念仏禁止運動や上奏が続く、「承元の法難(建永の法難)」(注6)いわゆる住蓮・安楽事件が起こり、1207年(承元1年)四国流罪の宣旨を受ける、法然は「五障三従の身」と言われた女性にも
時代は下るが日蓮は法然の言う”選択本願念仏集”及び”浄土の
天台宗すなわち比叡山の権勢は三塔十六谷に割拠し互いに競っても、惣寺としての結束に付いて必要時には守られた様で洛内に於いて布教の許可すなわち「允許」は比叡山の山徒、衆徒が実権を持つ「寺家」の承認を必要とした、要するに住蓮・安楽事件は天台の圧力下で起った出来事と言えよう、これに付いてポルトガル人でイエズス会のルイス フロイス( Luís Fróis 1532年 ~1597年7月8日)
同年暮れ大赦により赦免を受けるが、入京は叶わず4年の歳月を大阪で過ごす、1211年に帰京が許され現在の知恩院・勢至堂の所に庵を結ぶが、1212年病に付し80歳の生涯を閉じる。
法然と言えば親鸞が生涯の師としていたが、親鸞と言えば悪人正機説が著名である、要するに悪人正機説は法然からの直伝説が言われている、既に奈良時代に多くの事例が見出せると言う、(親鸞とその時代・平雅行・法蔵舘)、即ち後白河上皇編纂の「梁塵秘抄」に依れば「弥陀の誓いぞ 頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称ふれば 来迎引接 疑わず」と詠まれている、すなわち一枚起請文を法然から授かった源智の「法然上人伝記(醍醐寺本)」には「善人尚ほ以て往生す、況や悪人をやの事」口伝これありの記述がある、また「大般涅槃経(ダルマラクシャ・曇無識訳)」に概ね同様の記述がある、また前述の関連もあり日本で最初に述べたのは法然との説が現れてきた。
法然の弟、源智の言葉として「善人尚ほ以て往生す、況や悪人をやの事 口伝これあり」法然上人伝記(醍醐寺本)が発見され法然が嚆矢と考えられる。
法然の遺言とも言える一枚起請文が著名で、これは常に従っていた勢観房源智に与えた起請文で念仏の真髄を記したものとされる、しかし真筆とされる一枚起請文は金戒光明寺・百万遍知恩寺・光明寺(西山浄土宗総本山・報国山光明寺 長岡京市粟生西条ノ内26-1)など複数存在している。
法然の大師号は天皇から概ね50年ごとに新しく拝領しており東山天皇、1697年の円光大師から ・1711年、東漸大師 ・1761年、慧成大師 ・1811年、弘覚大師 ・1861年、慈教大師 ・1911年、明照大師 ・昭和天皇、1961年の和順大師 ・2011年平成では法爾大師まで継続している。
寺内大吉氏は自著・法然讃歌(中公新書)の中で法然の呼称は第2祖で鎮西流の祖である聖光房弁長(1162~1238)をはじめとする弟子たちに説いた法爾自然の縮語では、と言われている、因みに法爾とは法蔵菩薩(阿弥陀如来)の誓願であり、自然とは救われる人の法悦と言われている,親鸞も末燈鈔(5)に於いて解釈を述べている。
法爾自然の僧法然の思想は佛教の本質すなわち「一切衆生悉有佛性」にあるだろう。
1、真理にのっとって本来あるがままであること。あるがままの姿。自然(じねん)。法爾。 2、浄土真宗で、自力を捨て、阿弥陀仏の願力のままに計らわれていること。以上1~2が国語辞典に記述されている。
法然は他力本願の本丸であるが精進も説いている、「勅修御伝」の「一丈の堀を越えんと思わん人は、一丈五尺を超えんと励むべし」が代表であろう。
五木寛之氏は禅宗の六祖・慧能と法然の共通性を挙げておられる、すなわち法然の他力による易行と慧能による頓悟禅の易しさである、自力の難行から他力の易行へ、精緻な理論と行に厳しい漸修禅と易行とも言える頓悟禅との相違である。
法然の弟子数は非常に多く、門流も多彩である、*幸西の一念義 *隆寛の多念義 *弁長の鎮西義 *証空の西山義 *長西の九品寺義 *親鸞の真宗義がある 、これらのセクトは互いに競い合ったが、他の宗派より戦いは少なかった。
小室直樹氏に依れば法然の主張は天台本覚論がベースにあると言う、天台本覚論とは比叡山に於ける秘中の秘で日本天台宗の根幹を為す奥義である、平安後期に起こる日本天台宗の衆生は誰でも仏になれると言う現実や欲望を肯定して解釈する理論を言う、本来の本覚に関する教義を拡大解釈した論議である、現実の世界や人間の行動様式が真理であり、本覚の姿と説き煩悩と菩提を同一視した教義で修行、戒律を軽視する傾向に解釈された。
天台本覚論を論拠として日本仏教は世界に類例のない、佛教の必須である戒律無視の世界の佛教国に類例のない「日本佛教」になったと言う論者は少なくはない、中国の天台にも本覚論は存在するが比叡山ほど急進的ではない。
注1、九条兼実平安末期の公卿、月輪関白・法性寺関白などと呼ばれた、藤原忠通の三男、天台座主・慈円の実兄、1160年非参議・1164年内大臣・1166年右大臣・源頼朝に接近1191年関白となる、1202年出家し円証と名乗る、念仏信者で法然の最大の理解者、五摂家の内、直系の子孫が二条家・一条家を起こす、1202年得度して円証を名乗り月輪殿に住んだ、父の忠通と共に法性寺に葬られた、兼実の日記「玉葉1191年9月29日」に堕落した他の破戒僧達と比較して「近代名僧達、不知一切戒律事、‐‐‐‐近代上人皆学道、又有効験」と法然を讃えている。(一遍と中世の時宗・7今井正晴著・大蔵出版)
実弟の慈円(1155~1225)は吉水僧正と呼ばれ諡号は慈鎮と言い、幼少時に青蓮院に入り居宅する、比叡山に上るが後鳥羽上皇、 関白・九条兼実の力を背景に異例の速度で昇進を果たし1192年天台座主に就任、後座主を四度(62代・65代・69代・71代)勤め親鸞も得度を行う、後鳥羽上皇の護持僧や源頼朝とも親交をもつ、法然を庇い青蓮院の中の勢至堂を与え後に知恩院となる。
青蓮院に於いて慈円は天台の秘法である熾盛光法を21回に亘り祭主を務めている、台密三昧流を継承している。
慈円の著作に「天台観学講縁起」「毘廬遮那別行経鈔」史論書「愚管抄」・歌集「拾玉集・しゅうぎょくしゅう」等があり、歌人・哲学者として著名である、「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をいう」 。
青蓮院に於いて慈円は天台の秘法である熾盛光法を21回に亘り祭主を務めている、台密三昧流を継承している。
注2、一枚起請文 法然が逝去する2日前に弟子の源智の与えたもので、「一枚消息」「御誓言の書」などとも言い、念仏の真髄を易しく記述した請文で法然の遺書的な作、浄土宗に於いては日々の勤行に読誦されている、教義として最優先にランクされる名文書である、法然直筆とされる文書(法然上人真筆御遺訓)が金戒光明寺・百万遍知恩寺等に存在する、因みに起請文とは神仏たてた誓い、即ち己の言動に偽りの無い誓いの文を言う。
一枚起請文
「唐土我朝にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細(しさい)候(そうら)わず。
ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために所存をしるし畢(おわ)んぬ。
建暦二年正月二十三日 大師在御判 源空(花押)」
*三心=至誠心・深心・回向発願 *四修=善導による修行法で恭敬修、無余修、無間集、長時修、 二尊=釈迦如来と阿弥陀如来、 *本願=阿弥陀四十八願、 *一代の法=釈尊が生涯に説いた仏法、 *両手印=法然の両手形印、 *邪義=間違いの教義、
注3、法然上人二十五霊場
法然の遺徳を偲び誕生から入寂に至るまでの遺跡地を二十五霊場として設定されている、江戸時代中期から盛んになり多くの著名寺院が参加している。
1 番 |
誕生寺 |
岡山県久米郡久米南町誕生寺80 |
2 番 |
法然寺 |
香川県高松市仏生山町甲3215 |
3 番 |
十輪寺 |
兵庫県高砂市高砂町横町1074 |
4 番 |
如来院 |
兵庫県尼崎市寺町11 |
5 番 |
勝尾寺 二階堂 |
大阪府箕面市栗生間谷2914-1 |
6 番 |
四天王寺 念仏堂 |
大阪市天王寺区四天王寺
|
7 番 |
一心寺 |
大阪市天王寺区逢阪2-8-69 |
8 番 |
報恩講寺 |
和歌山市大川117 |
9 番 |
当麻寺 奥院 |
奈良県北葛城郡當麻町當麻1263 |
10番 |
法然寺 |
奈良県橿原市南浦町908 |
11番 |
東大寺 指図堂 |
奈良市雑司町406-1 |
12番 |
欣浄寺(ごんじょうじ) |
三重県伊勢市一ノ木町2-6-7 |
13番 |
清水寺 阿弥陀堂 |
京都市東山区清水町1丁目 |
14番 |
正林寺 |
京都市東山区上馬町533 |
15番 |
源空寺 |
京都市伏見区瀬戸物町745 |
16番 |
光明寺 |
京都府長岡京市粟生西条丿内26-1 |
17番 |
京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27 |
|
18番 |
京都市右京区嵯峨清滝月輪町7 |
|
19番 |
法然寺 |
京都市右京区嵯峨天龍寺立石町1丁目 |
20番 |
誓願寺 |
京都市中京区新京極通六角下ル桜之町 |
21番 |
勝林院 |
京都市左京区大原勝林院町187 |
22番 |
知恩寺 |
京都市左京区田中門前町103 |
23番 |
清浄華院 |
京都市上京区寺町北ノ辺町 |
24番 |
京都市左京区黒谷町 |
|
25番 |
京都市東山区r林下町 |
|
縁故本山 |
京都市左京区永観堂町 |
|
|
青龍寺 |
大津市坂本4220 |
注4、一心専念弥陀名号、行往坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故‐‐の大筋は、常時南無阿弥陀仏の名号を称え続けるのが修行者の任務だ、これが弥陀の本願に叶う道だ。
「一心の弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久遠を問わず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名ずく、彼の仏願に順ずるが故にーーーーーーーーー」、これが専修念仏を唄道するきっかけになったとされる(さすらいの仏教語・玄侑宗久・中公新書)。
注5、三学非器 仏教の要諦に三学がある・戒・定・慧が言われる、非器とは器量及び力量不足を言う、戒は戒律の厳守、定は行、修行を言う行動、慧は智慧で単なる学問ではなく正見すなわち覚りに繋がる。
注6、承元の法難(建永の法難)1207年法然の吉水教団が南都(興福寺)比叡山(天台宗)等の既存教団より専修念仏禁止の奏状される、後鳥羽上皇によって専修念仏を停止され、法然の門弟4人は死罪、法然と親鸞を含む門弟7人が流罪に処された事件。
注7、天台三大部 智顗が採用した鳩摩羅什訳の注釈書で法華三大部とも言う、1、総論の法華玄義、2智顗の法華経解釈書である法華文句、3智顗の哲学とも言える摩訶止観、を言う。
注8、浄土宗に於いて唱える念仏の回数に関して一念義派と多念義派に別れたが、多念義派勢力が強く一念義派は異端的な存在であった、親鸞や安楽坊遵西や住連房達も一念義派であったとされるが、他の弟子のように法然の弟子の地位に安住する事は無かった。
そこに承元の法難(建永の法難)が興る、遵西、住連による謡うような艶やかな六時礼讃に惹かれて後鳥羽上皇が留守中の寵愛する松虫姫と 鈴虫姫が安楽坊遵西や住連房の許に出奔した為に上皇の逆鱗に触れ両名は死罪とな
る、法然、親鸞は流罪となるが、他に一念義派の西意善綽房・性願房の二名も死罪とされた。
注9、 985年(寛和元年)源信の著作で極楽浄土への道標的な書物で総序に「それ往生極楽の教行は獨世末代の目足なり、道俗貴賎、たれか帰せざる者あらん。ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。理智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯のもの、あに敢てせんや。‐‐‐‐‐‐‐」と記述される。
注10、 養老律令とは大宝律令(701年・大宝1年)に続いて757年(天平宝字元年)日本で施行された基本法令である、律10巻12編、令10巻30編で構成されている、律令は明治維新まで継続したが平安中期には形骸化していた。
注11、善導(613年~681年)とは中国浄土教の僧である、三論を専攻し法華経、維摩経を誦するが浄土変相図から口称念仏に変わる、称名念仏を主張して浄土思想を確立する。姓は朱氏。
終南大師、光明寺の和尚等とも呼ばれる、法然に多大な影響を与えた僧で日本の浄土宗では浄土五祖の第三祖とされる、親鸞の浄土真宗では七高僧の第五祖とされ善導大師との尊称がある、同世代の僧侶に玄奘がいる。
日本では多数派である善導の流れを汲む法然・親鸞の浄土信仰すなわち「
著作に「観経疏」(本疏 解義分)「法事讃」「観念法門」「往生礼讃」「般舟讃」等がある。
善導の「散善義」に説かれている浄土への往生の
1, 読誦正行ー浄土の経典を読誦。
2, 観察正行ー心をしずめて阿弥陀如来と浄土の様子を観察。
3, 礼拝正行ー阿弥陀如来を礼拝。
4, 称名正行ー阿弥陀如来の名号ー南無阿弥陀仏を称える。
5, 讃嘆供養正行ー阿弥陀如来の功徳をほめたたえ、衣食香華などをささげて供養。
以上の五正行をさらに正定業と助業に分類される、善導は4、声明正行をメイン即ち正定業とし、残りを正定業を助ける助業とした。
2006年4月30日 2012年3月17日 2013年10月21日 起請文修整 2015年1月2日 10月18日注10 2016年5月23日 2017年10月29日 2018年5月3日 8月28日加筆