覚鑁(かくばん)

          10951143                        仏像案内   寺院案内     密教       高僧

 


  

正覚坊(しょうがくぼう)覚鑁と言い諡号は興教大師と言う、13歳のころ上洛して広沢流の流れをくむ仁和寺の成就院寛助に師事する、真言宗各派・興福寺東大寺に於いて三論・唯識・華厳を勉学したと言われる、東寺との主導権争いに破れ疲弊していた高野山を再興した真言宗中興の祖である、中川委紀子氏根来寺を解く・朝日新聞)に依れば覚鑁を祖と仰ぐ寺院は六千余寺におよぶと言う、新義真言宗の開祖で佐賀県の出身。

時代を隔てた隔世の師空海に対して尊敬は篤く「佛は大日、法は真言、所は高野、高野に定尊(空海)」と言い、浄土教の台頭に対してこれに対抗する為に、その思想を取り入れて再編が必要とされた真言宗を改革し新たに密教世界を構築した。
覚鑁は主著に於いて大日如来蜜厳浄土を目指して「五輪九字明秘密釈(ごりんくじみょうひみつしゃく)」著し浄土教を取り込む教義として鳥羽上皇の信頼を受け後ろ盾もあり活躍する、摂関家とコミットしていた
天台宗などに比べて教義研究の遅れを指摘し、真言教学の再興を目指して台密を含む全密教法流の統一を目指す事により胎蔵金剛を両部不二とした、また二律背反(独、Antinomie・アンチノミー)とも言える密教と浄土信仰を融合させる等宗派の復興に勤めた、因みに浄土信仰との融合には尊格の定めが必要であり大日如来のみ一尊を「普門総徳の尊」とし阿弥陀如来等の如来等を「一門別徳の尊」とした、特に仏身論に於いて大日経疏で空海の解釈を更に精緻に理論化したのは根来の覚鑁や頼瑜(らいゆ)などである。
真言宗は勢いを盛り返すが改革が急進過ぎた事と、真言僧として傍流の出身であることが守旧派東寺金剛峯寺の既得権者)からの反発に遭い根来寺に移る。

1114年高野山に於いて往生院青蓮や最禅院明寂に学び1121年に寛助僧正より伝法灌頂を受ける。 

公家貴族等と広く交流し伝法会の再興に尽力する、1132年鳥羽上皇の御幸を受けて高野山に院御願寺大伝法院を完成し、途絶えていた二季伝法会すなわち修学会・練学会を復活する。
覚鑁は大伝法院と金剛峯寺の座主に就任するが、守旧派の抵抗から大伝法院と密厳院を根来に移し移住する、1143年大円明寺を完成後に没する。新義真言宗が成立する事により従来の系統を古義真言宗と呼ばれる、因みに新義真言宗とは「新しい真言宗」と言う意味である。
覚鑁が高野山を追われた原因の一つに鳥羽上皇から下賜された大伝法院とその荘園の関係から覚鑁が灌頂を受けた御室御所(仁和寺)の圧力を嫌った一団の仕業との説がある。
新義真言宗の系列に豊山派
長谷寺(妙音院・専誉) ・室生寺派室生寺 ・智山派智積院(智積院・玄侑)がある。
著書に「密厳諸秘釈」「五輪九字明秘密釈」「一期大乗秘密集」「密厳院発露懺悔文」などがある。
 

作家の永井路子氏は覚盛や叡尊による改革を「宗教ルネッサンス」とまで言っている、が「既存仏教の構造改革」に尽力と映る、特徴は浄土の思想を部分的に採用して極楽成土では無く、自土すなわち娑婆を密厳国土とした事にある、従って三時思想に依る末法(正法、像法、末法)は存在しない事になる、要するに真実の教えは「常住不変」である。  
覚鑁と言ば新義真言宗とされるが当時疲弊した真言宗を再構築したのは覚鑁である、著作の「密厳院(みつごんいん)発露(はつろ)懺悔文(ざんげもん)」は総ての流派に於ける真言僧の多くが聖典化するほど多く読まれている、特に現在に於いては懺悔文を座右の銘とした反省がなければ為らない日本の僧侶は宗派は問わず多数派である。
覚鑁と言えば密教学の研究所とも言える高野山や根来の大伝法院建立であるが、玄宥の智山派の智積院や妙音院・専誉の豊山派の長谷寺には踏襲されていない。  

2007
327日 佛は大日・・2014年6月27日常住不変 2016年1月28日加筆 




  

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