大衆の為の布教に努め浄土信仰は空也が嚆矢と言える、天台座主の延昌に学んだとされ、自らは市聖を名乗るが阿弥陀聖・市上人などと呼ばれた。
時宗の祖で賦算と踊り念仏で知られる一遍が生涯の師と仰いだ僧で空也の経歴は記録が無く定かではないが、天皇の皇子と噂されていた。
在家信者(優婆塞)として三宝を敬い各地を遍歴し浄土信仰の伝道に努める、尾張の国分寺に於いて得度し空也を名乗る、壮年期に入り帰京し金鼓を打ち鳴らし念仏を唱えて徘徊すると共に、大般若経600巻の写経、病人や貧者の救済と念仏の功徳を伝え西光寺現在の六波羅蜜寺を開き70歳の生涯を六波羅蜜寺で閉じる、空也が発展させ念仏道場を開いた月輪寺には法然や親鸞も訪れたと言い、六波羅蜜寺の空也像と同じく口から南無阿弥陀仏の六文字を発する空也像が安置されている。
「一度も南無阿弥陀仏と いう人の蓮の上に のぼらぬはなし」拾遺和歌集
注1、優婆塞 梵語の(upāsaka)の音訳で在家信者いわゆる僧籍にない佛教信者を言う、女性を優婆夷(upāsikā)と言い修験者も優婆塞と呼ばれた、また得度以前の修験者をも言われた。
注2、三宝 佛・法(佛法)・僧を言う。
六波羅蜜寺 ●空也上人立像 木造彩色 玉眼 117、6cm 鎌倉時代 康勝作(運慶第4男)念仏を唱える空也の口元から南無阿弥陀仏と唱え六尊の弥陀が描かれる傑作
月輪寺 ●空也上人立像 木造玉眼 119,1㎝ 鎌倉時代