伝教大師 最澄  767822年 

    説明: C:\Users\Owner\katada202\jinnmei\button1.gif             天台法華宗   延暦寺   仏像案内   寺院案内   高僧    法華経


日本に於ける天台宗の開祖で866年、没後44年目に弟子の円仁と共に日本最初の大師称号、伝教大師の諡号が与えられた、最澄は腐敗した南都仏教から新しい日本流の大乗佛教を興した、要するに「大乗の大乗」とか「世俗仏教」と言われる思想の触媒を果した最大の革命者と言える、即ち世俗仏教に対する賛否で最澄に対する評価は大きく分かれる。
最澄曰く、法華経の根幹は総ての人間に佛性がある、仏の本質を誰もが所持しており、これが大乗仏教の真意であると言う。 

渡来系の三津首の家系で本名を広野と言い滋賀郡(現在の大津市)古市郷に生を受ける。   

14歳で近江国分寺に於いて大安寺行表(ぎょうひょう)722797年)に付いて得度し最澄とした、785東大寺に於いて具足戒を受ける、爛熟期の南都仏教界と決別の理由は定かではないが、六根相似(ろっこんそうじ)の位(仏と同じ境地)を目指しての隠遁とも言える、五濁悪世を嘆いた願文を残して日枝山(比叡山)に隠遁し12年間に亘り草庵に篭る、余談になるが得は当初「得」と記述されていた、梵語のターラヤティー(tārayati 覚りのせかいへ渡る)、すなわち僧籍に入る事であるが娑婆すなわち此岸から彼岸に渡る事を意味する。  
788年比叡山に一乗止観院(現在の根本中堂)を創設し自彫の薬師如来1435年焼失)を安置するが天台宗が公認されたのは806年である。
最澄の薬師信仰は篤く、後白河法皇撰の「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)(注8)253、には「近江の湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし、何ぞの海、常楽我浄の風吹けば、七宝蓮華の波ぞ立つ」と謡われている。   

長期間草庵に篭り「願文」をしたためて経典類を読破する内に鑑真が請来した智顗の著作である「天台小止観」や、後述するが1,法華玄義」(二十巻 大正三十三№1716 経題を詳しく注釈) 2,「法華文句(もんぐ)(二十巻 大正三十四 №1718) 3,「摩訶止観」(二十巻 大正四十六 №1911)(以上を天台三大部とも言う)、経典等々の鑑真が招来したと思惟される天台経典に着目し、人間は総てが成仏できると言う一乗思想に活路を見出す、この間神護寺に於いて法華経の講会講師(主に法華十講)を勤める等知名度は広がる、最澄が第一級の宗教家と認知されたのは797(延暦16年)に内供奉十禅師(注6の一人に任じられた事に始まる、因みに鑑真は「四分律行事鈔」等を著わした道宣が興した南山律宗(四分律宗)系の僧であるが天台教学の碩学であった、天台教学のメインは法華経であり、キーワードは「総ての人間に仏性がある、総ての人が仏性すなわち仏の本質を所持している」以上を大乗仏教の本質と思惟していた。
閑話休題、前述の法華三大部とは天台三大部とも言い、摩訶止観を筆頭に日本天台宗に於いてもバイブル的存在である。 1、法華玄義は智顗の講義を弟子が筆録した法華経の意義を論じた書で妙法蓮華経玄義とも言い20巻に纏めてある。   2法華文句は同じく智顗の講義を弟子に依る筆録書で妙法蓮華経文句とも言い法華経の注釈書。   3摩訶止観(注7)智顗の講義を弟子の筆録書で天台摩訶止観とも言い天台の観心すなわち修行法を説いた10巻の書。  (摩訶止観 śamatha-vipaśyanā サマータ ヴィパッサナー) 

但しここに宗派の発生が華厳等より古い為か、天台を修めようとした最澄の錯覚があるのかとの記述があるが、南山律宗(四分律宗)系であるが中国天台の碩学であった艦真の影響が有ろう、見逃せないのが東大寺の落慶法要の呪願導師を勤める為に大安寺に止宿していた唐僧で天台の碩学、道璿(どうせん)の弟子で大安寺行表(ぎょうひょう)に従って最澄が出家している為かも知れない、道璿は華厳・律・北宗禅を習得しており行表を介して最澄に伝わる、これが日本天台宗に於いて円・の兼学すなわち”顕密一致”となった発端と言える。 
日本に請来していた南都六宗の中には天台宗は請来していない、しかし法相宗のほうが天台宗より60年程度新しい宗派である、即ち天台・智顗の死亡は597年であり、玄奘が帰国したのは638年である、経典の翻訳等の後に法相宗は成立している、因みに中国天台は
玄奘以降法相宗や禅宗に凌駕されており、最澄の留学まで伝えられる事は無かった。 

797年頃即ち31才には内供奉(ないぐぶ)(じゅう)禅師(ぜんじ)に任じられている、内供奉とは禁裏に於いて天皇の安穏を祈る事を職務とし、天皇の看病のほか正月の御斎会で読師等を任務とする。

804年遣唐使派遣の情報を得、朝廷に入唐を奏上し短期留学即ち還学生(げんがくしょう)の身分で許可される。 

中国南部の言語で朝鮮を経た呉音はともかく、漢音を学ぶ機会の無かったと考えられる最澄は、北部すなわち長安・洛陽の言語である漢音が理解できる義真(初代天台座主)と共に唐に着くや長安には行かず天台山に参拝し天台教学を授かる、天台山で道邃(どうすい)行満から円教(天台教学)と梵網菩薩戒、禅林寺で脩然から初期の禅(牛頭宗)、竜興寺で順暁から両部灌頂・三聚浄戒を仏隴寺の僧から天台法門、霊巌寺に於いて密教を受け、戒・禅・密教を学び、密教経疏・天台章疏等の典籍230460巻共に帰国する、在唐期間は移動期間を含めて約8か月、通訳付にしては学習した量は多いが、はたして「四宗相乗」を修得出来ただろうか、コンプリート(conpiete)即ち修得完成からほど遠い様な気がする。
最澄が口伝された著名な言葉に「天真独朗」がある、天真(てんしん)(どく)(ろう)とは最澄が天台山に瑠学中に、道邃から止観の到達点として教授された熟語で、辞書によれば「無相の一念に悟入すれば、生死の別を離れ宇宙朗然とし、凡身そのままに大覚の域に達する」と言う事。
帰国すると桓武天皇は病で伏していたが、宮中に於いて病平癒の祈願をして天皇は平癒したと言う、天皇の病の原因は身内を死なせた事に由来しており怨霊鎮魂の呪を最澄に託したと言える、信頼を得た天台宗は806年には年分度者(注3に二人の得度が叶うようになる、余談になるが天皇家の菊の紋章は、最澄が桓武天皇に比叡山で採取した16弁の菊を献上して以来天皇家の紋章にされ今日まで使われている、この為天台宗は菊の紋章の使用を許されている、但しユダヤ教のラビ、マービントケイヤー師に依れば、皇室の紋章を菊とする事に異論を言う、即ち十六弁の紋章にある中央の○印は平安京出土の物は大きく菊とは言えない、寧ろエレサレムのヘロデ門上注10の写真の紋章に近いと言う、また伊勢神宮のカゴメ紋ともよく似ていると言う、因みにユダヤの紋章・ダビテの星と眞名井神社の紋は同じである。

怨霊鎮魂は密教の得意分野であり宮某中では密教の呪術が待望される様になる、桓武天皇の後継である平城天皇は空海を乙訓寺の別当に任じ更に嵯峨天皇の時代には最澄は密呪に長けた空海にプレステージ(prestige)を譲ることになる。
  

桓武天皇が崩御すると南都仏教の攻撃は先鋭化し、更に理趣経の注釈書である「理趣釈経」の貸借をめぐり空海とも絶縁、更に最も信頼し空海に預けていた泰範も空海の弟子となり天台宗・最澄の苦難時代を迎える事になるが、桓武天皇がもう少し長命であれば天台宗は日本仏教界を席巻していたことだろう。
理趣釈経の貸借に関しては、密教は筆受を否定する、空海の請来目録には「密蔵は深玄(しんげん)にして翰墨(かんぼく)に載せ難し」である、密教は文字で理解できると思惟していた最澄への返答とも言われている。
因みに灌頂に付いて空海から最澄に授けられた密教の灌頂は奥義と言える「伝法阿闍梨位灌頂」ではなく、初心者向けの「受明灌頂」と言う略式灌頂であった 
因みに最澄は「理趣経」は自身で請来したと言われる、但し注釈書である「理趣経」に付いては不空ー恵果ー空海と繋がる門外不出とする極秘の書であった可能性がある。
両雄の確執は根深いものが有った、理趣釈経を断られた最澄は「新来の真言家、すなわち筆受の相承を亡泯(ぼうびん)す」と依慿(えひょう)天台宗に於いて空海を罵倒している、また下述する三一権実論争に於いても最澄の論敵を攻撃する激しさには驚かされる、即ち徳一に対して「北轅者(ほくえんしゃ)」「麁食者(そじきしゃ)」「謗法者(ほうぼうしゃ)」「「悪法師」等と罵る、罵倒は峻烈を極め真摯な宗教家の論争とは考えられない、論駁ならまだしも明らかなヘイトスピーチ(hate speech)である、因みに北轅者とは北方の囚人を意味し、麁食者とは人間の食物を食していない者、謗法とは誹謗(ひぼう)正法(しょうぼう)の略語で正法を無視すると言う仏教用語である、また控えめであるが
空海に対しても「新来の真言家は則ち筆受の相承を泯す」と言う。             亡泯=滅ぼす   (注11)
天台宗からの年分度者の75%
近くが資格を取得の後に比叡山を去った意味が理解できる様な気がする。           
最澄の評価に付いて東京帝国大学の初代インド哲学教授の村上専精
18511929年)は「仏教統一論」の中で「‐‐‐‐日本佛教史の中心として見るべき我が国仏教界の偉人なり、‐‐‐‐‐」と絶賛しているが、ライバルに対する敵意や三論、唯識を論宗とする等疑問点も観られる。
20世紀の怪僧で毒舌では最澄に負けない薬師寺の元貫主・橋本凝胤師の毒舌を挙げる「最澄という人、あれは物を知らない人」「空海が唐から将来したのは仏教ではない、空海は新興宗教の開祖である、」「日本佛教は宗教にあらず」等々などがある。 


伝教大師最澄は日本最初の大師称号を授かりながら巷間の諺で「富士は静岡にとられ・豆は隠元にとられ・関白は秀吉にとられ・三蔵は玄奘にとられ・黄門は光圀に取られ」「大根漬物は沢庵にとられ」等々と言うが最澄は「大師は弘法にとられ」た最大の被害者であろう、因みに三蔵tpaka・ティピタカ)とは・経蔵
(釈尊の教え)・律蔵(戒律)論蔵(経と律の研鑽)の習得者を言う、また黄門(黄門侍郎(じろう)とは唐に於ける中納言の通常の呼称名である、因みに大師号とは朝廷から下賜される称号で「大導師」の略称である、源は848年中国の慧遠(弁覚大師)が嚆矢とされる。
   

法相宗のエリート僧・徳一との三一権実論争は著名で「真実」と「権(方便)」を論争するもので、徳一の三乗真実や五性各別を説明する「仏性抄」に対して、三乗は権説とする「照権実鏡(しょうごんじっきょう)」で対抗する、この論争は矜持(きょうじ)の衝突でもあり長期に亘り継続される、即ち最澄の主張は誰でも成仏出来る(一切偕成 悉仏性)と言う事である。 

法華経では衆生等のレベルに合わせて「三周説法」を言う、三周の説法とは、迹門正宗分に於ける広開三顕一(こうかいさんけんいち)説相(せつそう)で、法説(ほつせつ)(しゅう)(理論)()(せつ)(しゅう)(例え話)因縁(いんねん)(せつ)(しゅう)(理由原因)を言う、従って一乗が真実で三乗が比喩即ち權と言う。

しかし最澄の最大の目的は具足戒の棄捨宣言までして自作の朝廷への要望書である「山家学生式(さんげがくしょうしき)」にある様に大乗戒壇、即ち一向大乗戒(注5の設立であり心血を注ぐが82264日中道院で56歳の生涯を終えた、大乗戒壇の認められたのは最澄没後7日の611日のこととされる、大乗戒壇の承認と時を同じくして年号からの延暦寺を寺名とする事を許される、この時の協力者に文徳天皇で外祖父にあたる太政大臣位で興福寺南円堂を建立した藤原冬嗣(ふゆつぐ)、や桓武天皇の子で後の大納言・吉峯安世などがいる、最澄の政権とのコミットは桓武天皇だけでなく藤原北家との連携が生きていた、最澄の晩年は比叡山の中で絶対的な統率力を失っていた様である、山内に於いて大衆達に主たる権限を簒奪されていたとの指摘もある、比叡山の後継者たる「付法の印書」を義真と円澄とに与えて混乱させ山門派と寺門派との分裂の原因を作り示寂した。
大衆であるが山内のヒエラルキー
Hierarchie 階級制に一応、座主の地位に付く既得権を持つ*門跡(もんぜき)、 寺務を行う*寺家(じけ)事実上妻帯し運営の実務を掌り強訴や政治力を駆使する*大衆(だいしゅ)に分類されていた。

天台宗は円・の四宗兼学であるが仏教の内とは言え隔たりは大きく教相判釈を行い一論にまとめる事は智行具足(ちぎょうぐそく)(智慧と修行を完備した)の最澄にしても至難な事である、最澄は大乗戒壇の設立や三一権実論争にも時間をとられ、法華経を最高経典としたが生涯自身の教義を完成させることは無かった、現在でも比叡山での尊厳は良源912985年)が優るかも知れない、良源は天台本覚思想(誰でも仏になれる)の完成者であり長く座主を務め三塔十六谷を完成し延暦寺を興隆させた天台の功労者である。  
智行具足vs煩悩具足
しかし最澄の功績は鎌倉仏教即ち浄土宗浄土真宗禅宗日蓮宗などの興隆に大きな役割を果たした、即ち比叡山の腐敗を嘆き山を下りた・法然・親鸞・日蓮・栄西・道元達は最澄の思想、哲学への回帰を目指しての下山であったとの主張がある。
最澄の天台宗に於ける細部を規定した著名な著作に前述の「山家学生式」がある、正式には「天台法華宗年分学生式」と言い、著名な言葉がある「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名けて国宝と為す」即ち仏教を信仰し行に努める菩薩僧の養育を意味する言葉であろう、因みに山家とは天台宗を云う。 
要点は「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国の宝となす。故に古人言わく、径寸十枚是れ国の宝にあらず。 むかし、中国の魏王が、自分は、直径一寸もある宝玉を10枚も持っていると自慢しました。すると、斉王は、自分は宝物を持っていないが、立派な家来たちがいて、それが、国の宝だと語ったという、故事があります。 伝教大師は、この故事を引いて、私たち一人一人が国の宝にならなければいけないと、説かれているのです。 「道心」とは、仏道を求める心です。天台宗の教えの根本は、すべて生きとし生けるものは仏になれ、仏への一すじみちをいく教えしかない、というものです。 皆成仏道(だれでも仏になれる道)の実現のためには、すべての他の人々が仏になることを手助けしなければなりません。 これが、一隅を照らすことであり、天台宗徒の生き方です。」
(天台宗HPから引用)

その他の著作に「依憑(えひょう)天台宗」、徳一の仏性抄に対する「照権実鏡(しょうごんじっきょう)」、()法華秀句(ほっけしゅうく)」、南都宗派を論破した()顕戒論(けんかいろん)」、や「法華(ほっけ)去惑(こわく)」、「内証仏法(ないしょうぶっぽう)血脈譜(けちみやくふ)」「天台法華宗年分学生式」など多数がある、但し顕戒論などは日本以外の仏教徒から観れば支離滅裂と言えなくもない、「末法燈明記(注9)」と言う”堕落思想容認の聖典”で仏教終末論的な著作が最澄作と伝承されているが、山折哲雄氏は否定的で不詳と言われている。
末法燈明記や言う仏教終末論
であるが、仏教にも末法思想や終末論が言われるが、仏教本来の正統思想ではなくカルト仏教的な哲学との小室直樹説がある、殺戮を繰り返すセム的一神教と異なり仏教にはジェノサイドgenocideは無論の事、最後の審判的な思想がない、無限に近い因果律の仏教哲学の特徴と言える。   
最澄の菩薩戒(円頓戒)は日本仏教界のみの戒律で他国の仏教界に於いては戒律とは認知されていない、日本以外では菩薩戒だけの納戒では僧侶とは認められていない、因みに上野雅文著「最澄再考ペリカン社」に依れば比叡山で得度し、仏教に対して原理主義的とも言える道元ですら中国に於いて正式な僧としての認知を受けられなかったと記述されている。 

阿耨多羅(あのくたら)三菩提(さんぼだい)の仏たち我が立つ(そま)冥加(みやうが)あらせ給へ (新古今和歌集1920

    

1、 三一権実論争  三乗一乗権実諍論(そうろん)」「法華権実論争」とも言う、三一権実論争の三とは上記の・菩薩乗・緑覚乗・声聞乗を言い、一とは唯一無二を言い一乗(一仏乗)を言う、難解な語彙を使用すれば ・頓悟(瞬時に悟る事)ー-漸悟(時間をかけて悟る) ・性皆成仏ーー直道成仏 ・無仏性不成仏 ・速痴成仏vs三劫成仏すなわち歴劫(りゃっこう)成仏の論議である。 端的に言えば法相の依経とする()(じん)(みっ)(きょう)Sadhi-nirmocana Sūtra, サンディ・ニルモーチャナ・スートラ)と天台の法華経の内、いずれを釈尊の真実の教えかの論争である。   *分類するとサンディ」(sadhi) が「結合・連結」「ニルモーチャナ」(nirmocana)が「解放」(「解脱」)「スートラ」(sūtra) が「経」となる。
インドに於いて大乗仏教の興起を嚆矢として、唐の天台宗と法相宗の間において繰り返し行はれた論議を日本に持ち込まれたものである、どちらが「真実か権(仮の姿・方便)」であるかを論議するもので、一乗とは(一つの乗り物)三乗 ・声門乗(
Śrāvakayāna・シュラーヴァカヤーナ 阿羅漢になる為の教え) ・縁覚乗paccekabuddha・プラティエーカ・ブッダ 辟支仏(びゃくしぶつ)目指す 独覚) ・菩薩乗(仏に成る)を言う。
徳一が仏性抄(ぶつしょうしょう)を唱えて最澄を批判、最澄は照権実鏡(しょうごんじつきょう)をもって反論、この大論争は最澄が延暦寺へ帰山後も長期間続いた。
権を著した熟語に権化アバターラ(avatāra)があり、熊野権現、東照権現の権現も意味合いを同じくする。 最澄の論敵を攻撃する激しさに驚かされる、即ち徳一に対して明らかな
hate speechを発している、北轅者(ほくえんしゃ)」「麁食者(そじきしゃ)」「謗法者(ほうぼうしゃ)」「悪法師」等と言い峻烈を極めたヘイトスピーチは敬虔な宗教者の言語とは考えられない、因みに北轅者とは北方の囚人を意味し、麁食者とは人間の食物を食していない者、謗法とは誹謗(ひぼう)正法(しょうぼう)の略語で正法を無視すると言う仏教用語で、中国天台僧・(たん)(ねん)の十四誹謗の説に依拠して、「如何なる高僧でも凡夫である以上完璧はありえない、憍慢(きょうまん)懈怠(けたい)(けい)()浅識(せんしき)不解(ふげ)不信(ふしん)顰蹙(ひんじゅく)疑惑(ぎわく)誹謗(ひぼう)軽善(きょうぜん)(ぞう)(ぜん)(しつ)(ぜん)な等がある。 
最澄は「守護国界章」に於いて、徳一を「北轅者、麁食者、謗法者などの蔑称で呼び徳一で呼ぶ事は無かった、原因として南都六宗即ち仏教勢力の多くは朝廷に従わない寺院が多かった為に、最澄最大のバックボーンである桓武帝の意向を加味したとの指摘もあるが旧勢力の南都佛教と新興の密教から天台を護るための焦りもあろう。
徳一とは(生没年不詳、749~824頃)平安時代初頭の法相宗のエリート学問僧で藤原仲麻呂の子とされている、興隆する天台宗・真言宗に対抗する南都仏教側の尖兵で、筑波に中善寺・会津の恵日寺(慧日寺)等を創建する。
興福寺の修円(しゅえん)に学んだと言う説もあるが推定年齢で徳一は20歳近く年長と考えられ20代前半に会津方面に居を構えている、修円は空海や最澄と並ぶ秀才とも言われ室生寺の形態を整えた法相学者であるが密教に造詣が深く、むしろ空海や最澄と懇意であり疑問視される。
最澄が会津滞在中の徳一を訪れ、三一権実(さんいちごんじつ)論争を行う、徳一の言う、五性各別とは要約すれば人間が成仏出来るか否かはその人の素質により五段に分類し1、菩薩定性、2、緑覚定性、3、声聞定性、4、不定性、5、無定性とされる、これと逆の解釈が一切(いっさい)偕成(かいじょう)で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)と論争することになる。
三一権実論争は817年~838年まで継続したが徳一は弟子を持たず一応終止符がうたれる、最澄・徳一の死後一世紀半の後、即ち963年村上天皇の要請で行われた「応和宗論」に於いて法華経の解釈論を交えて再燃した。
後日源信は「一乗要決」に於いて三一権実論争に於いて三乗説を方便即ち権と論破し一乗説を真実の教えとした。
徳一は三乗論のフォローを空海に依頼したと言う説もあるが真言宗未決を著しており、空海としても「秘密曼荼羅十住心論」(空海注2、解説)で解決しており三一権実論争に加わるのを避けたのではないか。
徳一の著書に三乗真実、五性各別を説明する「仏性抄」「中辺義鏡」「慧(にち)羽足(うそく)」等を著してとされるが、現存するのは「真言宗未決」のみである。
最澄には法華一乗思想の確信があった、それは既存哲学の様に歴劫(りゃくごう)修行(∞に近い)を必要としない「直道(じきどう)」すなわち「最も近い道」で成仏に至ると言う哲学があった、因みに
智顗の法華経を最高経典した事例の他に著名な教判を挙げると、華厳一乗、玄奘による唯識すなわち解深密経の三時教判、が知られている。 
覚者に成る為には三障すなわち以下の障害を克服しなければならない、・煩悩障(貧欲、瞋、痴漢) ・業障害(法に反する) ・報障(法に従えない)がある。
インド哲学の権威・宇井伯寿氏は「即身成仏の実例は挙げられない」と言う。
*宇井伯寿  本名茂七と言い曹洞宗・東漸寺(とうぜんじ)第34代住職 愛知県宝飯郡小坂井町大字伊奈1930年 東京帝国大学教授  1941年 駒沢大学学長  1953年 文化勲章を受章  196381歳で逝去。


2、入唐八家 唐に留学した高僧を言い 最澄 ・空海 ・円仁 ・円珍 ・円行(真言宗) ・常暁(真言宗) ・恵運(真言宗) ・宗叡(真言宗)を言う、入唐僧には短期滞在の還学僧と20年を目途とした留学僧があり最澄は桓武天皇勅命の還学僧であるのに対して空海は一介の留学僧であった。


3、年分度者  803年聖武天皇の時代に租税回避など目的とする私度僧を生まない為に中国に習い僧尼令僧尼が設けられ得度が規制された、天台宗は806年に2人認められた、因みに最澄が桓武天皇に進言した年分度者の割り当ては・三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・天台宗が各二名・成実宗・倶舎宗各一名とされていた。


4、法華十講とは法華経八巻・無量義経・観普賢菩薩行法経を言う。


5、 一向大乗戒とは(えん)(どん)(かい)とも言い十重禁戒戒律3参照)・四十八軽戒(戒律4参照)を言う、因みに円頓戒とは法華経の精神で梵網戒を護ると言う意味合いとされる、円頓戒は
円仁による「顕揚大戒論」安然の「普通授菩薩戒広釈」等で補完されて完成を観る。


6、 内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし) 722年に制度化され禁裏内道場に於いて天皇の安全祈願・護持役を果たす高僧を言い定員十人とし平安時代には天台宗と真言宗から選別された。



7、止観 梵語の(摩訶止観 śamatha-vipaśyanā サマータ ヴィパッサナー)である、仏法は六道からの開放を見区的とした宗教である、即ち戒律、禅定、智慧の三学に集約されるが止観は禅定の範疇に入る。

仏法の実箋門を指した代表作に天台智顗の摩訶止観がある、三種正観があり円頓、漸次、不定がある。 止とは散乱及び動揺等を真実に力で止める事、観は真実及び実相を観る、となる。


8
浄土三部経の精神は後白河法皇の編んだ「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には「弥陀の誓いぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称ふれば 来迎引説(いんじょう)疑わず」にある。

因みに十悪五逆の内で十悪とは、身口意(からだ・言葉・心)で犯す十悪を言う。
十悪とは、1殺生、2偸盗、3邪婬、4妄語、5両舌、6悪口、7綺語(きご)、8貧欲、9瞋恚、10愚痴。
五逆とは、1殺母、2殺父、3殺阿羅漢(聖者を殺す)、4出仏身血(仏身を傷つけ出血さす)、5破和合僧(教団を破壊する)となる。


9、末法燈明記 法楽寺の記事をそのまま記述する、「末法燈明記」なる表題は、末法にあっては、髪を剃って袈裟を着ただけの形ばかりの僧であっても、それは「暗黒に等しい時代に光明をもたらすかけがえの無い灯明」であるという主張を表しています。この書の主眼は、今や(平安期初頭)時代は末法に等しい、像法末期であることを人は理解しなければならず、よって国家は正法・像法時における「まっとうな僧尼」のあるべき姿をもって、末法の「破戒することすら叶わぬ無戒の僧尼」を規制するべきではない、というものです。

堕落容認の聖典とも言える末法灯明記であるが、典拠とされる代表的な経典は「大方等大集経(大集経)」である。



10、ヘロデ門の写真は「 http://takashi1016.com/herods-gate-11493」をご覧ください。

注11、
師子相承に付いて師相承とも言うが資は弟子の事である、正しい教えは師から弟子へ、またその弟子へ継承される。



2006216日 201237日 2012417日 顕戒論評 430日村上専精 2013820日円頓戒 2014年8月7日hate speech 2016年1月9日 2017年5月7日 6月13日 2018年2月23日 4月8日 2019年6月27日 2020年4月7日 2021年4月30日 6月1日加筆  

 

 
 
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