1173~1262年 本願寺 浄土真宗 仏像案内 寺院案内 高僧
四百年の垢が累積した平安末期には、政治の腐敗、既存仏教の堕落等から為政者や宗教者達が飢饉等々にも無力、即ち末法の時代に登場したのが、法然、親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮である、中でも師・法然の
見真大師 ・藤原一門(注5)の傍流日野家の出身、1181年九歳の時に一門の宗家筋に当たる関白・九条兼実の実弟で天台座主を長く勤めた慈円(注2)の下で僧籍に入り範宴を称したとされるが、比叡山に於ける20年間に法相・三論・天台・密教を学んだとされるが行動は定かではない、しかし「恵信尼文書」すなわち妻である恵信尼から覚信尼(親鸞の娘)への手紙に記述がある様に、比叡山に於ける親鸞に与えられた地位は堂僧(注10)、その他大勢の一人即ちワン オブ ゼム(one
of them)であり、延暦寺に於いて栄達に可能性はゼロに等しいとされた。
「雑行を棄てて本願に帰す」と言い、29歳の時に比叡山(範宴を名乗る)を離れ法然の門に入り「善信房綽空」と名乗る、因みに綽空とは後述する七高僧の道綽と源空から取り、後に改名した善信は善導と源信から、最後の親鸞はインド人の天親と中国人の曇鸞からの命名と山折哲雄氏は言う。
親鸞は生涯を法然の弟子として信順すなわち絶対憑依して終えた人である、但し他の弟子達とはセクト(sect)行動に出た様である、親鸞の本願念佛の法門を示したのは師である法然を含む七高僧(注16 下述)であるとの絶対
ひたすら善導に傾倒した法然は偏衣善導であるが、親鸞は偏衣法然(注18)と言えよう、浄土三部経すなわち・大無量寿経・阿弥陀経・観無量寿経に於ける優先順位等に対する軽微な相違はあるが、宗派名に於いては浄土真宗の開祖は法然であると述べている。
親鸞は浄土三部経を「
従って浄土真宗の最高経典は大無量寿経となる、六字名号(注17)すなわち念仏であるが唱える事を優先する「行不退」と、信ずる事を重要視する「信不退」があるが親鸞は「信不退」にスタンスを置いている。
鈴木大拙氏は「親鸞は罪業からの解脱を説かぬ、即ち因果の繋縛からの自由を説かぬ」と言う、要するに人間の背負う一切皆苦を行や呪などでの解放は説いていない、弥陀の本願の強調であろう。
親鸞の信仰哲学は往生すなわち成仏を主張と思惟される、すなわち「
法然に弟子入りする前に六角堂に篭り、聖徳太子の本地仏とされる救世観音(如意輪観音)を拝んだ太子の示現伝承(注1、11)が残るが、太子の著述とされる三経義疏と、親鸞の著した三帖和讃~絶対他力の哲学、や法然の専修念仏との隔たりは大きい、平安時代末には聖徳太子信仰が興隆し太子像が造像される等流行を見せるが太子の示現伝承は疑問視せざるを得ない、示現とは如来や菩薩等が姿を変えて衆生の前に現れる事を云う、因みに聖徳太子の呼称の起りは平安時代以降であり以前は「厩戸王」等と呼称されていた、この様な示現伝承は日本霊異記や今昔物語にも存在する様で親鸞に限定された伝承ではない、注13に於いて遠藤氏説の要点を挙げた、また千葉乗隆(1921~2008年4月21日・元龍谷大学学長)氏に依れば、聖徳太子伝承はチベット仏教を広めたブータンのソンツエン ガンポ王の業績が重ね合わされていると言う(仏教への旅・ブータン編・五木寛之・講談社)。
親鸞は「
親鸞の激しさは関東在住時代に著した代表作「教行信証」の「
恵信尼文書と言えば親鸞には不詳な点が多々あり実在否定論も存在したが、1921年(大正10年)本願寺から恵信尼の書状十通が発見された、これは 彼女が越後から京都の娘・覚信尼に宛てられた書状類で親鸞の実在は証明(注4)された、また親鸞に破門されたとされる長男の善鸞であるが、親鸞直筆の破門状等は存在しない様だ、また善鸞の長男である
六角堂夢告(注13)には真言密教の教科書とも言える
二十七才の冬に四天王寺を訪れ良秀僧都に・法華経・勝鬘経を学んだと言う記述もあるが前述の如く浄土真宗では両経とも無視している、正木晃氏は「六角堂夢告」(注13)には意味が同じのモデルがあり「覚禅鈔」の「如意輪末車去車」を挙げておられる、因みに「歎異抄」の内で「正像末和讃」皇太子聖徳奉賛があるが、親鸞のみではなく平安末時代は天台宗を筆頭に太子和讃は大勢を占めていた。
歎異抄が出たので一言、近年歎異抄がキリスト教の聖書からの引用が言われている、マタイ福音書22、37 - 40等からか、愛(アガペー )、羊の群れ(stray sheep)、黙示録(アポカリュプシス(古代ギリシャ語 Ἀποκάλυψις)等々の関連を言う図書が発行されている。
ちなみに浄土七高僧とは ・大乗仏教を理論化(中論)即ち難行の陸路を廃して易行の水路を起こした龍樹(150~250年頃)・浄土論での天親(400~480年頃)(以上インド僧) ・浄土論に往路と還路を示す等の註釈した曇鸞(476~550年頃年) ・観無量寿経を註釈した道綽(562~645年) ・観想念仏の善導(613~681年頃)(以上中国僧) ・源信(942~1017年) ・法然(1133~1212年)である、親鸞が龍樹を嚆矢としたのは鳩摩羅什漢訳の「十住毘婆沙論」に於いて菩薩にランクを付けた、即ち行に優れた菩薩と敗壊の菩薩(非力無力の菩薩)とに分け弥陀の本願にすがる「他力易行」を唱えて浄土教の道を開いた事であろう、七高僧の中で異色な僧は曇鸞である、曇鸞は元来神仙思想家であり修行を終えた後洛陽で菩提流支と言うインド僧に出合い、不老長寿の秘術を尋ねたところ観無量寿経を示されて浄土信仰に宗旨替えしたとされる僧である、閑話休題、親鸞の呼び名について、二番目の天親から「親」を、次の曇鸞の「鸞」からの命名と言われている。
親鸞の太子和讃には「和国の教主」と讃えている記述があり、慈円が愚管抄に於いて「太子は観音菩薩の化身」と述べているが、この時期聖徳太子信仰の興隆は太子と同じ運命を背負っていたとも考えられる早良皇親王(崇道天皇一族)の怨霊供養とオーバーラップしているとの説がある。
法然は比叡山を離れ吉水を拠点に幅広い階層から脚光を受けていた、吉水教団で信頼を篤く親鸞は法然自筆の僧綽空(後に善信)・題字を授かり「専修念仏」の会得した高弟で無ければ許されない「選択本願念仏集」の書見写しの許可を受けていた。
師の法然は既存佛教を否定し専修念仏のみを標榜した為に比叡山や南都の教団の浄土教弾圧は激しく、念仏禁止の訴えを後鳥羽上皇に起した。また1206年には承元の法難即ち住蓮・安楽と後鳥羽上皇の女房達との密通疑惑事件等も加わり法然と共に流罪になり、親鸞は越後へ流れる、親鸞が流罪に連帯したのは既に妻帯していた可能性もある、流罪中の親鸞の憤慨は愚禿親鸞と称した事に表されている。
1211年流罪は解かれるが越後に留まり豪族の娘恵信尼を妻とした、僧侶の正式な結婚は親鸞が嚆矢であるが、平安時代には僧侶の八割は隠し妻が居たとの記述がある程僧侶の風紀は乱れていた、後白河法皇や臨済僧・無住道暁(1226~1312年)が沙石集の中で述べているが「隠す上人、せぬは仏」と言われた時代に於いても大きな決断と言える、親鸞が読んだか疑問であるが、最澄著との風評で末法燈明記と言う偽書に童貞者は悪魔の化身との記述がある様だ。 (正木晃著 呪文 ビイング ネット プレス)
日本佛教に於いて僧侶の婚姻は宗派の長ではなく、太政官布告に依って行われた、1872年(明治5年)4月25日の太政官布告133号で肉食、妻帯、長髪を認めた、「自今僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」(僧侶肉食妻帯蓄髪等勝手タルベシ)。
但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」(今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し法要の他は人民一般の服を着用しても苦しからず)。
親鸞には自身の婚姻について
非僧非俗の立場から愚禿親鸞と自称していた、愚禿の意味であるが、辞典には「頭を剃った、おろか者の意から、僧が自分をへりくだっていう語。特に親鸞 が自称に用いた」と記述されているが、禿とは僧籍のない求道者を意味すると言う記述がある。
1214年現在の茨城県笠間市稲田に移り常陸・下総・下野から関東・東北まで布教活動を行い多くの所謂弟子にあたる専修念仏者を輩出するが派閥争いも起こる。
婚姻により親鸞は出家と在家の垣根を取払う事になる、在家の中に於いて衆生を導きプロテスタントに於ける牧師と信徒の関係や、逆説的に見れば聖書にフワンダメンタルなカルバンやルターに相当するかも知れない。
親鸞に於ける信仰の特徴は「神祇不拝」を貫き阿弥陀如来一尊を拝し「念仏は無碍の一道なり」とした、親鸞は権力に阿諛する事を拒んだ様である、また自身は先祖の為の念仏をも不要とした。
1234年親鸞は帰京するが都に於いては未だに念仏信仰者に対する糾弾は厳しく、著述活動や写経に心血を注ぐ、この時期の親鸞の著した作品に「教行信証」正式名称は「顕浄土真実教行証文類」を完成、「唯信鈔文意」「三帖和讃(浄土・高僧・正像末)」「末燈抄」「血脈文集」などがある、代表作の教行信証に於いては師法然が師事し浄土宗開基の根幹である中国の善導(613~681年)の著述「六時礼讃」からの引用が多用されている。
親鸞の教学を要約すればバックボーン哲学の源として法然の教学がある、親鸞は法然をを更に大乗化したもので要諦は「念仏は無碍の一道なる」である、無碍とは「なにものにも妨げられない」を意味する。
親鸞は多くの著述を著したが漢文で書かれた本願念仏の手法を示す「教行信証」の六巻の内第二巻の「正信念仏偈」と弟子の唯円が纏めた親鸞の安心を語る「歎異抄」(注5)に代表されよう、歎異抄=親鸞と思惟されるが唯円が親鸞没後約30年後に、教えの変節を危惧して著した書である、その他五百首を超える和賛を詠んでおり*浄土和賛、*高僧和賛、*正像末和賛、が著名で是を三帖和賛と言われている。
「歎異抄」とは親鸞の強烈な信仰心と論理思考(logical thinking)の守護者と、晩節まで共に行動した弟子の立場からの著述である、有名な「善人尚持て往生を研ぐ、いわんや悪人をや」の悪人正機説も書き込まれている、但し悪人正機説(注15)に付いては法然からの口訣相承説が有力視される、すなわち一枚起請文を法然から授かった源智の「法然上人伝記(醍醐寺本)」には「善人尚ほ以て往生す、況や悪人をやの事」口伝これあり、の記述がある、また「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」であるが、「大般涅槃経(ダルマラクシャ・曇無識訳)」に概ね同様の記述がある、また前述の関連もあり日本で最初に述べたのは法然との説も現れてきた。
親鸞の悪人正機説は絶対他力であり自力救済を否定すれば僧侶と在家信者とは区別が存在しない、これが僧侶の婚姻を初めて正当化した根拠となる。
親鸞は1262年11月28日に三条富小路の善法坊に於いて90年の生涯を閉じる、浄土真宗・真宗の開祖であるが、「正像末浄土和賛歌」にある様に最後まで法然に師主知識の御徳を持ち法然の弟子としての姿勢を貫いたと考えられる。
「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし」親鸞の浄土観に付いて述べれば「本願寺親鸞大師御己証并辺州所々御消息等類聚鈔」、すなわち末燈鈔に依れば浄土は十万億土の西方に在るのではなく現世に在ると解釈できる、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」すなわち信仰が定まる時、そこが浄土に居ると言える。
法然と親鸞の晩年に於ける人間関係は師に対して絶対隋順を標榜しながら微妙であったとも言える、親鸞は多念義派が多い高弟達の中で幸西等と共に一念義を主張する異端に近い待遇であった可能性があり、法然の危篤・臨終の知らせが親鸞には無かったとも思惟される、「七箇条起請文、二尊院本」(七箇条制誡)の署名では百九十人中の八十七番目に綽空(親鸞)の名前がある、しかし親鸞最晩年の「真蹟集成、西方指南抄」では二十二人に絞られている、そこには「承久の法難」で処刑された安楽坊遵西や住連房達も親鸞自身と共に記述されている。
高弟の名前を挙げると隆寛、幸西、証空、弁長、長西がいた。
1826年11月28日(明治9年)明治天皇から見真大師(けんしんだいし)の号を受ける。
親鸞と言えば歎異抄であるが、弟子唯円が念仏に対する親鸞の教義が歪められている事を危惧して真宗の蘊奥である他力本願を平易に説いた書である。
セム的一神教の中でライプニッツの予定調和が言われる、一言で言えば「人の命運は予め神により決められている」である、親鸞も唯円が師の命令に服従を誓った時、命令されても一人も殺害できない唯円に対して「前世から決まっている事」と説いた、前世を神に変換すればカルバンの「予定調和説」である、所詮信者は聖なる神に対しては信仰の奴隷すなわち
親鸞は都に於ける布教には危険が伴い著述活動が多く占めていた、関東の時代を含め多くの著作を残している、・教行信証(顕浄土真実教行証文類) ・三帖和讃即ち「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」等がある。
親鸞は「弟子一人ももたず候う」とされるが、比較的著名な弟子だけでも七十名程に及ぶ、*高田の真仏(栃木県)、*横曾根(千葉県)の性信、*鹿島(茨城県)の順信、*佐島の常念、*河和田の唯円、*奥州大網の如信等々が挙げられる。
親鸞には「直弟二十四輩」と言う二十四人の直弟子がいた、親鸞の「直弟二十四輩」と言う二十四人の直弟子を挙げると*性信 *真仏 *順信 *乗然 *信楽 *成然 *西念 *証性 *善性 *是信 *無為信 *善念 *信願 *定信 *入西 *入信(穴沢) *念信 *入信(八田) *明法 *慈善 *唯仏 *唯信(戸森) *唯信(幡谷) *唯円となる。
親鸞の曾孫にあたる覚如の改邪抄に「それがし親鸞閉眼せば 加茂河にいれて魚にあたうべし」が著名である。
親鸞ほど多くの歴史研究者や作家の題材(親鸞)になった僧侶は稀であろう、小説では・倉田百三(出家とその弟子)・吉川英治・丹羽文雄・五木寛之等長期に亘り著名作家に扱われている。
親鸞に於ける信仰思想すなわち真宗の教義の根幹を為す熟語に「現生正定聚」がある、現生正定聚とは、現生不退とも言われる、弥陀により信じて回向を受ければ往生が定まると言う教えである、要するに親鸞の極めた教義は「信心正因」信心こそが往生出来る唯一の方法である、「称名報恩」念仏を唱え報恩すなわち感謝を示す事に行き着くと説く。
日本仏教を密教を除けば「聖道門」と「浄土門」に分類されるが、法然、親鸞達は絶対他力の浄土門であり、他宗派の浄土門とは峻別される、かさねて言えば親鸞哲学の根幹は「現生正定聚」と「信心為本」にある、現世正定聚とは、現生不退とも言われ阿弥陀如来からの回向を信ずれば極楽浄土への往生が確定する、また信心為本は総てを弥陀に委ねる事を言う、これは強調し過ぎる事はない。
親鸞と蓮如の相違を述べれば親鸞が用いていない宿善開発を蓮如が重要視した事であろう、親鸞の悪人正気説に対して蓮如は現世に於いても善を積めと「御文章」で強調している。
因みに宿善とは宿世すなわち前世過去の世を意味する、「宿善」の語は、浄土三部経や親鸞の著作には記述がない、但し源信の往生要集・唯円の歎異抄・蓮如の正信偈大意・御文、等々に観られるが「宿善」の解釈は、真宗連合の内部でも異なる様である。
親鸞の主な著作を挙げると漢文に*教行信証 *浄土文類聚鈔 *愚禿鈔 *入出二門偈、 和文に*唯信鈔文意 *尊号真像銘文 *浄土三経往生文類 *如来二種回向文 *三帖和讃(浄土和讃、高僧和讃、正像末和讃) *弥陀如来名号徳、等々である。
故小室直樹氏に依れば法然、親鸞、日蓮の教義には天台本覚論がベースにあると言う、天台本覚論とは比叡山に於ける秘中の秘で日本天台宗の根幹を為す奥義である、平安後期に起こる日本天台宗の衆生は誰でも仏になれると言う現実や欲望を肯定して解釈する理論を言う、本来の本覚に関する教義を拡大解釈した論議である、現実の世界や人間の行動様式が真理であり、本覚の姿と説き煩悩と菩提を同一視した教義で修行、戒律を軽視する傾向に解釈された。
天台本覚論を論拠として日本仏教は世界に類例のない佛教の必須である戒律無視の「所謂佛教」になったと言う論者は少なくはない、中国の天台にも本覚論は存在するが比叡山ほど急進的ではない、因みに本覚とは“本来の覚性”即ち総ての衆生に覚りの智慧を内包している、要するに誰でも成仏出来るという意味合い。
親鸞の説く十種の利益
*冥衆護持の益(多方から護られる) *至徳具足の益(尊い功徳が備わる) *転悪成善の益(念佛で善になる) *諸仏護念の益(仏の庇護を受ける) *諸仏称賛の益(仏に褒められる) *心光常護の益(弥陀の光の守護) *心多歓喜の益(喜びに満ちる) *知恩報徳の益(弥陀の恩を知る) *常行大悲の益(弥陀の慈悲) *入正定聚の益(往生の約束)
注1、示現伝承とは如来や菩薩が姿を変え現世に現れる事を言う、六角堂に籠り救世観音から「法然の下へ行け」後に「行者、宿報にてにてたとい女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生のあいだ、よく荘厳にして、臨終に引導して極楽に生じしめん」 と言われた、親鸞はこれで公然と妻帯したとされる、因みに示現伝承は当初に於いては吉祥天等であったが平安時代頃から菩薩が引用される様になる、示現とは神や如来、菩薩が衆生救済の為に霊験を持って登場する事を言う、六角堂に於ける示現伝承にも、以前にもよく似た伝承が存在した。
親鸞を研究した真宗大谷派系の佐々木正師の親鸞聖人正明伝から解釈した「親鸞始記」に親鸞の隠された真実があると言われる。
但し注⒒の件すなわち六角堂伝承は親鸞が述べたものでは無い様で恵信尼から娘の覚信尼に宛てた遺文第三通に記述のみの様である。
示現伝承を親鸞が信じたとは到底考えられない、三帖和讃すなわち「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」を著す論理性にセンシティブ(sensitive)な親鸞から
注2、慈円(慈圓) 1155~1225 吉水僧正と呼ばれ諡号は慈鎮和尚(じちんかしょう)と言い、関白で法然の最大の理解者である九条兼実の実弟、幼少時に青蓮院に入り居宅する、比叡山に上るが一時期、護持僧を務めた後鳥羽上皇、 関白・九条兼実の力を背景に異例の速度で昇進を果たし1192年天台座主に就任、後座主を四度(62代・65代・69代・71代)勤め勤め親鸞の得度を行う、法然を庇い青蓮院の中の勢至堂を与え後に知恩院となる、1197年後白河上皇の六女・宣陽門院や源通親等により失脚する。
慈円の著作に「天台観学講縁起」「毘廬遮那別行経鈔」,史論書「愚管抄」・歌集「拾玉集・しゅうぎょくしゅう」等があり、歌人・哲学者として著名である、「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をいう」。
注3、三経義疏 聖徳太子の著作とされ(異論も在る)法華義疏(ほつけぎしよ)四巻・維摩経義疏三巻・勝鬘経義疏一巻を言う、太子作に対する異論説は津田左右吉を筆頭に多く指摘があり、敦煌に酷似文書が発見されている。
注4、 20世紀初頭まで親鸞の実在を疑う説も存在したが、1921年西本願寺から妻の恵信尼自筆の「恵信尼消息」10通が見つかる,また親鸞直筆が確実視される「無量寿経註」「阿弥陀経註」が発見され実在が証明された。
1920年 辻善之助著(東京帝国大学助教授時代) 「親鸞聖人筆跡の研究」に於いて親鸞の実在を証明した書がある、また2007年京都 常楽寺(高田派)に親鸞の遺骨らしい人骨が発見された。
注5、 歎異抄と悪人正機 親鸞を顕す両輪に「教行信証」と「歎異抄」があり教行信証は手法を示し、歎異抄は心すなわち思想を示しているとされる、著作者の記述は無いが、弟子唯円が念仏に対する解釈が歪められている事を危惧して真宗の蘊奥である他力本願を平易に説いたとされる、但し如信(親鸞の孫、善鸞
の子)、or覚如(本願寺第三世)の著作説もある。
親鸞と晩年まで苦楽を共にした唯円作が大勢を占める、本願寺第八世蓮如の書写本が最古とされる、歎異抄の構成は *真名序 *第一条~第十八条 *後序
*流罪にまつわる記録、と言う構成である。
歎異抄が一般化した歴史は90年ほどで新しいが、梅原猛氏に依れば”宗教史上卓越した書”と言う、内容に於いて*教行信証*浄土和算 *浄土文類聚鈔 *愚禿鈔 *入出二門偈、 和文に*唯信鈔文意 *尊号真像銘文 *浄土三経往生文類 *如来二種回向文 *三帖和讃、浄土和讃、高僧和讃、正像末和讃) *弥陀如来名号徳、等親鸞自作と響きとして異質な面がある様だ。
歎異抄の第三条に記述される本願他力の意趣を尊重した記述である、善人とは他力本願でなく自力で成仏・往生を目指す異教徒・異端者を言う、悪人は無信仰者を指し法律違反者を言うわけではない、阿弥陀如来の本願は総ての人間をサルベージの対象としており、親鸞の教えは善人・悪人の差別は存在しない。
歎異抄に於ける出色は「父母の供養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだ候ず。そのゆえは、一切の有情はみなもって世々の父母兄弟なり」と述べている。
阿弥陀如来のサルベージを信仰し他力による本願の意趣に心酔する親鸞を描く歎異抄は「序」「親鸞の語録1~9」「唯円の歎異抄10~18」「述懐」で構成されており、先祖供養の否定や、お布施の徴収に消極的である、蓮如以来宗門の中で封印され存在を知られていなかった、徳川時代に真宗の深励の「歎異鈔講林記」(真宗大系)・了祥の「歎異鈔聞記」(続真宗大系別巻)は存在したが「歎異鈔聞記」が出版されのが明治41年である、以後真宗・大谷派の清沢満之師たちの努力で浄土真宗の外にも大きく脚光を浴びた著作である。
歎異抄を扱う戯曲に「出家とその弟子」倉田百三著・新潮文庫がある。
因みに歎異抄は親鸞の滅後に真宗教団内に興った異論や異端を歎いた書であり、如信説・覚如説・唯円説がある、一向一揆の思想は歎異抄が原点との説がある。
この時代の思想は親鸞だけでなく後白河法皇の編んだ「
因みに十悪五逆の内で十悪とは、身口意(からだ・言葉・心)で犯す十悪を言う。
十悪とは、1殺生、2偸盗、3邪婬、4妄語、5両舌、6悪口、7綺語、8貧欲、9瞋恚、10愚痴。
五逆とは、1殺母、2殺父、3殺阿羅漢(聖者を殺す)、4出仏身血(仏身を傷つけ出血さす)、5破和合僧(教団を破壊する)となる。
注6、藤原摂関家 鎌足を祖とし不比等に引き継がれ長く朝廷を支配した一族で歴代天皇の外戚を続け日本史の中でも藤原時代の名称まで残し天皇家に次ぐ名門。不比等の子供達の系列から凄惨な確執を繰り返した後10世紀(藤原時代)には藤原武智麻呂の南家に対して藤原房前の北家が覇権を持つ、鎌倉時代に五摂家に別れ近衛・九条・鷹司・二条・一条を名乗り摂政関白を独占する。(藤原不比等―鎌足を父に宮廷歌人額田王と同一人とも言われる鏡王を母に持ち大宝律令・貨幣経済・成文法等を導入して藤原一門の千三百年にわたる栄華の礎を築く)
また藤原姓は橿原市高殿町付近の地名からともされる。
傍系に日野・久我・醍醐・今出川・姉小路・山科・花山院・広幡・三条・西園寺・徳大寺・難波・飛鳥井・冷泉・坊城・烏丸・大炊御門・中炊御門・観修寺等があり本来は全て藤原姓である。
五摂家による禁裏支配制度は後醍醐天皇の御世を除き明治維新まで継続した、1884年に華族令により廃止になり五摂家は華族筆頭として公爵位を授けられた、親鸞の日野家は一門の中では儒学の家であった。
注7、親鸞は法然と共に流刑還俗させられている事もあり名前を範宴・綽空・善信と変えている。
注8、聖徳太子信仰は関西方面に於いては長期間におよび篤く信仰されたが、関東に於いては儒学者・林羅山や、大日本史を編纂した水戸学の安積澹伯等の評価は逆評価が出されていた。
注9、真宗十派 親鸞の法脈を直接継ぐ宗派で以下の様になる。
真宗十派と主な寺院(総本山)
浄土真宗・本願寺派(西本願寺) 京都市下京区堀川通り
真宗・大谷派(真宗本廟(東本願寺)) 京都市下京区烏丸七条上ル
真宗・高田派 専修寺 三重県津市一身田町
真宗・佛光寺派 佛光寺 京都市下京区堀川七条上ガル
真宗・興正寺派 興正寺 京都市下京区堀川上ガル
真宗・木辺派 錦織寺(きんしょくじ) 滋賀県野洲市木部826
真宗・山元派 証誠寺(しょうじゅじ) 福井県鯖江市横越町
真宗・出雲路派 毫摂寺(ごうしょうじ) 福井県武生市清水頭町
真宗・山門徒派 専照寺 福井市みのり2丁目3-7
真宗・誠照寺派 誠照寺 福井市本町3丁目2-38
注10、宗門に入るには”一山大衆”とも呼ばれ家柄等により”宗徒”すなわち学生 ・堂僧 ・
注11、救世観音から告げられた夢告とは「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」 汝が戒めを破り女犯を行うならば、女人姿になり添い遂げ浄土に導こう。
注12、高僧和讃とは親鸞の「三帖和讃」即ち「浄土和讃」「正像末和讃」「高僧和讃」の三部の著作を言う、高田派では「皇太子聖徳奉讃」を加えている、正像末和讃の誡擬讃には「自力諸善のひとはみな、仏智の不思議をうたがえば、自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける」と戒めている、親鸞は七高僧(本文中)を挙げているが、師の法然は「浄土五祖」として・曇鸞・道綽・善導・懐感・少康を挙げ他に慧遠(廬山)や慈愍の記述もある。
注13、 六角堂夢告と如意輪末車去車 本尊変王玉女事
六角堂夢告ー行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽。
如意輪末車去車ー若発邪見心 淫欲熾盛可堕落於世 如意輪我成王玉女 為其人親妻妾共生愛 一期生間荘厳以福貴 令造無辺善事 西方極楽浄土 令成仏道莫生疑。 (空海をめぐる人物日本密教史、正木晃、春秋社)
*六角堂夢告との関連について、遠藤美保子氏の記述、親鸞自身は六角堂参詣には言及していないうえ、親鸞の著作とされるもののうち、聖徳太子に言及する文献は「非常に偏りがある」ことを指摘します。 初期真宗教団のうちで勢力があった高田派系の親鸞伝ですら、観音の夢告に触れていないことに着目するのです。
「皇太子聖徳奉讃」「粟散王聖徳太子奉賛」とは、作者が異なっているのではないかと疑われるばかりか、両方とも親鸞作でない可能性がありと指摘されている、また遠藤氏は「親鸞には特筆すべき程の信仰は無かった」と結論している。
(「日本宗教文化史研究」第12巻2号[通巻第24号]、2008年11月)。
浄土真宗は迷信を否定する宗派である、真宗の祖・親鸞の六角堂夢告に関しては理解できない、親鸞に付いて「五木寛之著・佛教への旅・講談社・日本アメリカ編」の記述のコピーである、「親鸞は博覧強記の勉強家であると同時に、学を究め、論理を究めることについて、とことん徹底した人だった、ーーーーーー」。
注14、磯長夢告 十九歳の折、磯長(現大阪府)にあった聖徳太子の母や妃と共に埋葬されたとされる三骨一廟の磯長御廟に参詣し余命十数年と夢告されたとされる、「我三尊化塵沙界 日域大乗相応地 諦聴諦聴我教令 汝命根応十余歳 命終速入清浄土 善信善信真菩薩」、内容的に注13と共通点はあるが親鸞の教義、行動とは相反する様である。
注15、 親鸞と言えば「悪人正機説」が著名であるが法然からの直伝説が言われる、但し既に法然以前の奈良時代に多くの事例が見出せると言う、(親鸞とその時代・平雅行・法蔵舘)、即ち後白河上皇編纂の「梁塵秘抄」に依れば「弥陀の誓いぞ 頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称ふれば 来迎引接 疑わず」と詠まれている。
注16、 親鸞の七高僧に対して法然は浄土五祖を挙げている即ち中国浄土教の大成者・曇鸞、 浄土門と聖道門の運類者、・道
善導(613年~681年)とは中国浄土教の僧である、三論を専攻し法華経や維摩経を誦すが、浄土宗に変更し、称名念仏を主張して浄土思想を確立する。姓は朱氏。終南大師、光明寺の和尚等とも呼ばれる、法然に大きな影響を与えた僧で日本の浄土宗では浄土五祖の第三祖とされる、親鸞の浄土真宗では七高僧の第五祖とされ善導大師との尊称がある、同世代の僧侶に玄奘がいる。
日本では多数派である善導の流れを汲む法然・親鸞の浄土信仰は中国に於いては阿弥陀如来、浄土を信仰する善導の思想は善導の死後壊滅的に衰退した。
注17、 名号本尊には各種あり本尊は阿弥陀如来であるが真宗・浄土真宗に於いては仏像や絵画は重要でない、名号本尊は墨筆で阿弥陀の名前を
注18、ひたすら善導に傾倒した法然は
注19、浄土真宗と言う用語に対して親鸞が嚆矢ではない様で、宗派と言う解釈(特に本願寺派)だけでなく、「死後浄土へ往生できる為の教え」と解釈すべきである。
佛教のなかの親鸞vs蓮如・道元vs瑩山紹瑾だけで無くキリスト教にも言える、バチカン即ちカトリックの中枢であるサンピエトロ寺院の埋葬者である、パウロに付いてキルケゴールは「イエスは生涯を費やして13人の弟子しか出来なかったが、十二使途にも入らないパウロは一日で100人を弟子にした」と言う、まさしく伝道者すなわちエバンジェリスト(evangelist)の面目躍如である、但し発言の真意は不祥である、因みに「イエスなくしてパウロは無いが、パウロなくしてキリスト教は無かった」と言われている、これは多くの宗祖に多い原理主義と、中興に貢献し大衆に対する伝道路線との相違と言えよう。
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時 代 |
浄土真宗 |
曹洞宗 |
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原理主義 |
鎌倉時代 |
親 鸞 |
道 元(高祖) |
初 祖 |
大衆伝道 |
南北朝~室町時代 |
蓮 如 |
瑩山紹瑾(太祖) |
中興の祖 |
2006年4月6日 12月16日婚姻 2008年12月22日 真宗十派 2011年4月17日法然上人伝記(醍醐寺本加筆)2013年3月14日臨済僧・無住道暁 2014年1月11日七高僧一部 6月29日注15 7月7日恵信尼文書他 2015年2月5日注16、 2016年11月26日歎異抄 2017年9月7日 11月11日 12月18日 2018年3月31日 2019年6月30日 2021年3月26日 2022年3月23日 8月29日加筆