重源

        (俊乗上人)11211206年              高僧    仏像案内     寺院案内

平安末から鎌倉時代初期の真言僧で号を俊乗房と言う、治承の乱すなわち1180年平重衡(しげひら)の攻撃を受けて興福寺と共に崩壊した東大寺再建の大勧進事業の立役者である。

13歳で上醍醐に入山し密教を学び後に法華経信仰の勧進聖すなわち「持経者」(注3として如法経会を行う等念仏門に傾注する、俊乗房・重源を名乗り紀貫之の子とも言われる、大勧進就任時の年齢は六十歳の高齢であった、以後二十五年間の長きに渡り稀代の難事業に貢献する。
醍醐寺の開祖・聖宝の系列の修験者で宋国にも三回学んだとされ現地で栄西とも同一行動をした事が在る、鋳造・彫刻や天竺様の土木建築技術者など当時としては最先端のシステム工学を駆使し傘下に治めていた、宋国の陳和卿(わけい)・鋳物師、草部是助・慶派集団の快慶など重源に帰依する技術集団を掌握していたが「聖濁併せ呑む」様な人品との資料もある、因みに和歌山県の泉福寺の梵鐘には「観進入唐三度聖人重源」と記述されているが真偽の程は定かではない。
   

1181造東大寺大勧進の宣旨を授かり、三年ほどで大仏鋳造を終え、1203年には分業・流れ作業を取り入れ、慶派佛師や大工・石工を駆使して大仏殿・南大門等を完成させる。 

寄木造の発達もあるが、南大門に於ける造像技術の革命とも言える金剛力士像の短い製作期間が話題になるが重源の取り入れた組織工学に負うところが大きい、復興事業に付随するが、道路・橋梁等の環境整備に貢献している。 

大原談義に参加して12歳年少の法然ともコンタクトがあり阿弥陀信仰にも篤く、専修念仏の伝道に於いて地方に力を注ぎ比叡山等の抵抗勢力を巧に避けていたようである、勧進活動としては浄土寺に代表される様に各方面に別所(2)を設け庶民からの勧進も可能で円滑な組織を形成して達成した,当時すでに著名であったと考えられる重源が無名に近い法然に浄土三部経の講義を依頼する等、法然の名声を高める一翼を担ったと考えられる、現在も東大寺と知恩院とは宗派を離れて親密であるのは重源と法然の信頼関係の延長かもしれない。
重源が指揮した再建東大寺も1567年に松永久秀の攻撃を受けて大仏殿は全焼・毘盧遮那佛は頭部を破壊され創建当初の部分は約60%弱である、著作に「南無阿弥陀仏作善集」等がある。
 


重源を偲ぶ東大寺俊乗堂には国宝・俊乗上人像坐像 (木造彩色 藤原時代 814cm・重文指定の快慶作の阿弥陀如来987cm 鎌倉時代)愛染明王(984cm 藤原時代)が安置され75日に開示されている。 

その他重源の関係した別所とされる浄土寺重源坐像 木造 82,5cm 1234年、鎌倉時代   阿弥陀寺(山口県防府市牟礼)重源坐像 木造 88,2cm 鎌倉時代  等が存在する。 

 

1、天竺様  重源が採用した様式で、現存する建築は東大寺・南大門と浄土寺が存在しており、宋の建築様式で大仏様とも言う、少量の材料で大建築を作れる構造、柱に挿肘木を貫通、上部に行くに従い材を大きくすることにより長い庇の持出梁を支える。対象様式として和様・禅(唐)様などがある。

2、別所 所属していた寺
を出た僧侶が滞在して宗教活動を行う施設や所領を言い、財政基盤の確立と宗派の発展、所謂布教活動の前線基地を目的とした、別所は自治性を持った所が多く後に系列内外の大寺院の末寺等に変化した、東大寺の別所は浄土寺(播磨、兵庫県)の他三重県伊賀市の新大仏寺・山口県防府市(周防)の阿弥陀寺等があり、備中(岡山)摂津渡辺(大阪府)高野山が東大寺七別所と呼ばれた。

3、持経者 法華経を信仰する聖を言い、如法経会とは法華経を主とした写経会を言い円仁を嚆矢とする、因みに聖とは民間での布教者。 




200657日 200878日注3他 2014年7月7日 加筆

 



 

 

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