鎌倉時代

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鎌倉仏教と言えば新しく日本独自の流れを構築したと言える、内容的には釈尊を宗祖としているが南都佛教天台真言は無論の事発生時期に大差はない、但し個々には異教とも言える程の相違がある、・念仏宗系の浄土宗浄土真宗・時宗、禅宗系の臨済宗曹洞宗・黄檗宗、・日蓮宗等々の相違は著しい。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の 理をあらはす。おごれる人も久しからず。‐‐‐‐‐」(注4)、平家物語ではないが無常観(sakāra・サンカーラ)が定着した時代である、鴨長明の随筆「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(方丈記)、また佛教僧侶が葬儀の祭主を担当する様になった時代でもある。
他力本願による「浄土門」と伝統的な従来からの仏教の「聖道門」の二元対立の時代でもある、894
年遣唐使が廃止されてから300年経過して徐々に中国文化から離脱して純日本製の仏教のすなわち易行道(いぎょうどう)仏教(注2)が始まった時代と見てよいと思う、又大衆に根を広めた庶民救済すなわち真の宗教が始まった時代と言える、従って鎌倉時代には禅宗日蓮宗などの新宗派はむろん南都仏教も改革の意志に燃えた個性豊かな高僧も多く輩出した、即ち初期には「「法然(1133~1212」「栄西(1141~1215」「親鸞(1173~1262」中期には「道元(1200~1253年)」「叡尊12011290」「蘭渓道隆(1213~1278」「日蓮(1222~1282」「無学祖元(1226~1286」「一遍(1239~1289」「一向俊聖(1239~1287」「忍性(1239)~1287年)」等々である、個性と言えば日蓮の立正安国論(注4)はセンセーショナルであった、但し大阪大学の黒田俊雄1926121日~1993126日)教授は「権門体制論」(顕密体制論)すなわち「鎌倉新佛教に於いても天台、真言宗の密教寺院や興福寺東大寺の顕教寺院が中央でも地方に於いても主流であった」と主張されていた、ひろさちや氏は鎌倉佛教の祖師達は空海の喧伝した三密加持(注6)を分解したと言う、三密はとても無理として一密を目指した、即ち*身密は道元、*口密は法然ー日蓮、*意密は親鸞が極めたと言う、総て賛成とは言えないが面白い見解であろう。 

鎌倉のトーテムポールtotem poleと言えば鎌倉大仏すなわち高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)の阿弥陀如来であるが、建立の経緯は定かとは言えない、鎌倉幕府の歴史書とも言える吾妻鏡に記述される勧進僧「浄光(じょうこう)」とあるが所属宗派僧籍も不明な人である、また著者不明な「東関紀行」には木造の尊像が書かれている、また吾妻鏡には釈迦と誤記されている為に与謝野晶子が間違えたのかも知れない。 「鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」 与謝野晶子

因みに鎌倉大仏を詠んだのは与謝野晶子だけでなく、*正岡子規「
火に焼けず 雨も朽ちぬ 鎌倉はだか仏常仏(つねぼとけ)かも *伊藤佐千夫「かまくらの大きほとけは青空を み笠と着つつよろず代までに みほとけの尊く放つ御光を 仰ぐすなはち罪ほろぶとふ こしかたの かさなる罪も御仏の 光に浴みて消えざしめやも」等があるが晶子ほどに知られていない、また鎌倉大仏を所有する高徳院は当初は浄土宗大本山・光明寺の奥の院であった。    *浄土宗大本山光明寺(神奈川県鎌倉市材木座6丁目1719)

閑話休題、
無学祖元の無学に付いてであるが、無学とは梵語でśaikaと言い、最早学ぶところは無い完成者を言う、因みに有学とはaśaika修行の未完成を言う、他にも分別:無分別も同様で分別を超越した智慧を、無分別と言い悟りとも言える意味合いを持つ。    
しかし本来仏教とは解脱の方法を説いたものである、煩悩から脱却する事が目的の宗教であり、救済や現世利益の思想は、それほど存在しなかった。
この国では南都六宗空海等の影響を受けて中期密教
(純密)の風が広まる、さらに天台から浄土宗浄土真宗禅宗臨済宗曹洞宗日蓮宗と実に多彩な日本製宗派が誕生する(初期の禅宗は趣を異にする)
最澄により戒律を捨てた天台宗も健在でこの時代比叡山から上記の宗派を生んだ多数の俊英が輩出した、・良忍・源信・法然・親鸞・空也・栄西・道元・日蓮等が比叡山に集まった、これをよく高野山と比較され最澄は多くの弟子を育成したとされたが、比叡山が地理的条件に恵まれているのと大乗戒壇の勅旨(ちょくし)を受けていた為に人材が集まったとも解釈できる
空海は密教の教義を完成させていたのに対して最澄は法華経を優先しながらも自身の教義体系が未完成のまま没した事から教団内より多彩な教義が浮上し多くの宗派が乱立する原因となったと考えられる、事実上記の祖師達は比叡山の中枢から外れドロップアウトした人達との指摘がある、但し良源の一番弟子源信、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗は良源の天台本覚論をベースに成立している。
平安時代の天台宗真言宗までは教団は公的な庇護の元に拡大されたが鎌倉時代に於ける法然・親鸞・日蓮等は唐に求法留学等行わず、権力筋からの援助も殆んど無く、七堂伽藍はおろか全て草庵よる粗末な寺から出発した(禅宗を除く)鎌倉時代の社会的ニーズ、即ち仏法が庶民に浸透した為に育てられた人材といえる。  
その結果、既成宗派が用いた戒律を捨て、日常生活の中で信仰出来る易行、即ち在家往生出来る仏教の完成を見た。
又仏教芸術も建築・彫刻・絵画など爛熟期に入り、特に仏像彫刻において最盛期を迎えたと言えよう、幕府の本丸である鎌倉に於いては当初は奈良や京都の模倣から始ったが蘭渓道隆が建長寺を建立した頃から中国文化を吸収して独自の文化を構築し始めた、また仏像彫刻は東大寺の重源・泉涌寺の俊芿等々の入宋僧が帰国に当りknow-how(技術情報)を持ち帰り大きく進歩した。
彫刻は公家社会の支配から武家社会の支配に変化する事により公家・平家と関係が深かった定朝に代表される円派・院派の時代から平家と敵対関係にあった興福寺に所属する康慶運慶に代表される慶派に移り、形式を重視した繊細な彫刻から力強く写実的な東大寺金剛力士像や興福寺弥勒菩薩坐像・四天王立像・無著・世親菩薩立像、更に中期には蓮華王院二十八部衆等多くに代表される彫刻に変化を見せる。
仏画に於いても浄土信仰の広がりと供に阿弥陀来迎図が多く画かれた。
仏画以外の絵画作品もアンドレ,マルローをして東洋のモナリザとまで言わしめた藤原隆信の作とされる神護寺の伝・源頼朝・平重盛・藤原光能画などもこの時代の代表作と言える、但しモデルは従来から異説は存在したが1995年に源頼朝や平重盛ではなく足利・直義・尊氏・義詮との説が発表された。 
また禅宗の興隆と共に中国に学んだ水墨画も現れた。建築の分野に於いても従来の和様に対して大仏様
浄土寺本堂、東大寺南大門)や禅宗寺院特有の唐様が加わり、鎌倉、京都から地方に広がり更にそれぞれを折衷した作品が現れる様になる。

仏教を強引に時代別に分類すれば、奈良時代は南都六宗を中心とした学問仏教の時代でもあり、平安時代には天台、真言に於ける加持祈祷の仏教であり、鎌倉時代は一神教的な哲学を内包した仏教と言える(・浄土系、阿弥陀如来 ・禅宗系、釈迦如来 ・日蓮宗系、久遠実成の釈迦)。 

・顕得成仏とは結果を言い修行が完成した状態即ち究極の覚りを言う、全てが身口意、大日如来の三密具現とされる、空海の著述「即身成仏義」があり「両部の大経」と「菩提心論」をベースにして著された著作で、これを「二経一論八個(はっか)の証文」と言う、三密修行を別な表現を用いれば *身体に相当を「印契を結ぶ」、*口で真言を唱える、*仏と一体即ち三摩地となる。 

注1、アンドレ、マルロー  19011976年 フランス人文学者で政治家・冒険家、1960年代のフランス文化相 著作に「人間の条件」「王道」がある。

注2、易行道 浄土宗や真宗に代表される哲学で禅宗、日蓮宗もこの範疇に入る、概ね他力本願に分類される、それ以前は自力による行で聖行道(難行道)の宗派と言える。

注3、鎌倉武士の精神的な支柱であった大倉法華堂(源頼朝聖観音菩薩を祀った持仏堂)であるが、廃仏毀釈で廃寺となり白旗神社が建立されている。

4、 立正安国論(りつしょうあんこくろん)(1260年) 
日蓮が北条時頼に提出したプロトコール(protocol)即ち建白書である、略称を安国論と言い、日蓮の代表的著作である。
関東地方に飢饉、疫病、台風被害、地震などの災害が続出した事に対しての対策書の一面もある。
旅行客(時頼)と主人の対話形式をとり、災害の原因に邪教信仰すなわち法然の浄土教を挙げ糾弾する。

日蓮は浄土教を捨てて法華信仰に回帰するなら、世界は悉く仏国土となる為に災害は絶滅すると言う、即ち正法の樹立を優先させそれが国土の安穏をもたらすと言う。
佛教書ではあるが、飢餓・疫病・等の災害除去の手法として10項目で構成されており1~8までが法華経以外の経文や他宗の批判、9で他国の侵略等、10法華経の正当性など内乱・外圧がテーマの書である、法華経のみを信仰し他の宗派を禁止しないと社会不安・内乱・外敵侵略が起こると時の執権北条時頼に提出したもの。
しかし立正安国論を作成の参考文献は法華経のみではなく金光明経・大集経 ・薬師経 ・一切経蔵 ・仁王般若経などが利用されている、外敵侵略すなわち弘安の役(1281年)を的中させたとの説があるが、立正安国論から14年経過しており、予言は時間と規模を外せば概ね当る。
これが日本以外の国で起これば提出者の命は完全に断たれている.

5、諸行無常とは梵語でsakāra(サンカーラ)と言う、沙羅双樹は鶴林とも言う、これは釈尊が涅槃の時近くの沙羅双樹が白鶴に見えた事からとされる。

注6、
三密加持(かじ)とは、大日如来の働きが祈祷者に宿る事を言う、有相の三密(三密業)とは身、口、意の三業(さんごう)を言う、加持とは梵語のadhisthana(アディシュターナ)で如来・菩薩が呪力によりパワーが衆生に伝えられる事を言う、また入我我入(にゅうががにゅう)一体る)同意る、身、口、意とは三業すなわち*身業(しんごう)kāya-kamma)身体上の動作・所作、*口業(くごう)vacī-kamma)言語、*意業(いごう)mano-kamma)意識・心の働き、(三摩地に至る)の略称である。
三摩地とは心に曼荼羅をもち仏と一体の境地を言う,この一体の境地を目指す行を「三密加持」という。

 
 

鎌倉時代の主な文化財 

彫 刻   

東大寺・  金剛力士   

興福寺・  弥勒仏  千手観音  維摩居士  文殊菩薩  四天王   

蓮華王院・  風神  雷神  二十八部衆  千手観音   

高徳院・  阿弥陀如来   

浄土寺・  阿弥陀三尊   

金剛峯寺・  八大童子   

六波羅蜜寺  ・十一面観音     などなど 

建造物   

東大寺・  南大門  三重塔  鐘楼  開山堂    

興福寺・  三重塔  北円堂   

極楽坊・  本坊  禅室   

般若寺・  楼門   

薬師寺・  東院堂   

秋篠寺・  本堂   

大報恩寺・  千本釈迦堂   

西明寺・  三重塔  本堂   

妙法院・  蓮華王院   

浄土寺・  浄土堂  などなど 

工芸品   

建長寺・  梵鐘   

西大寺・  舎利塔  宝塔壷  など 

絵 画

東京国立博物館  一遍聖絵 餓鬼草紙 平冶物語絵巻 虚空蔵菩薩像 地獄草紙

京都国立博物館  餓鬼草子 金光明経 病草子 山越阿弥陀図

五島美術館    紫式部日記絵巻

大東急記念文庫  理趣経 

根津美術館    那智滝図 

藤田美術館    玄奘三蔵絵 巻第五  紫式部日記絵巻 

神護寺      源頼朝・平重盛・ 藤原光能像 両界曼茶羅図 山水屏風 

禅林寺      山越阿弥陀図 

東寺       十二天像 

粉河寺      粉河寺縁起 

光明寺      当麻曼荼羅縁起 

高山寺      華厳縁起 鳥獣人物戯画 仏眼仏母像 明恵上人  

醍醐寺      絵因果経 閻魔天像 訶梨帝母 五大尊像 五幅 五重塔初重壁画 文殊渡海図 

知恩院      阿弥陀二五菩薩来迎図 法然上人行状絵           など


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20141116日 2017年9月5日 10月11日加筆更新

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