チベット佛教
   説明: C:\Users\Owner\katada202\kyoto\button1.gif     古寺巡礼(寺院案内)   仏像案内    佛教     

近年ダライ・ラマを頂点とするチベットの仏教は世界にジワリ浸透している、インドに於ける上座部仏教を初めとして後期大乗仏教の中観派・唯識派の他に密教経典の金剛頂経等を比較的忠実に継承している、即ちチベットはインド密教の継承国とまで言う研究者も存在する、チベット大蔵経などは正確に訳されており中国の様に創作と思惟される訳ではない、一例を挙げれば金剛手灌頂タントラでは大日経等など、漢訳に比べて精度が高い様である。
宗派に依るが多くは密教色の濃い仏教である、但しチベット仏教は日本佛教との共通点が比較的多く観られる、即ち大乗の範疇にあり密教を包括した仏教である、しかし教義・修行法に於いて微密さ厳格さに大差が観られ、異教的と言える。
輪廻転生を信じ観音信仰に篤い佛教で、中心に観音菩薩が転生したとされるダライラマ十四世(チベットのゲルク派を率いる)や現在中国に拘束され行方不明のパンチェンラマpan chen bla maに代表されている、ダライ・ラマも現在は中国軍のチベット武力侵攻で亡命してインドのダラムサラのマクロード・ガンジで亡命政権の内に居る、因みに十世パンチェンラマは1989年中国のチベット統治策の誤りを告発する演説を行い不審死、十一世は正規の十一世で生死不明が一人と中国が指定した十一世と称する人物と二人のパンチェンラマが居ることになる。

七世紀頃に初めてチベットを統括したソンツンガムポsrong btsan sgam poの支配下に於いて土着信仰のボン教と融合したニンマ派の場合は教団組織が弱い民俗宗教で、巫術(ふじゅつ)を含んだ古代信仰と習合している宗派もあるが、・ニンマ派 ・サキャ派  ・カギュ派 ・ゲルク派など全体的に釈尊が起した初期の佛教に最も近い教義であろう、これ等の相違はサキャ派とカギュ派が密教色が強いとされている

密教に於いてチベットと日本の相違は
生起(しょうき)次第、と究竟(くきょう)次第に代表されるが、瞑想して心身に浸透する生起次第は中期密教と共通点が多いが、究竟次第はジョルすなわち性的ヨーガを必須としており後期密教が主体である、空海が将来した中期密教と共通点は無いに等しい。      (密教+ヨーガ=性交)
ソンツンガムポ
王の時代に伝播した仏教は一時停滞したが十世紀後半に密教と将来と共に隆盛をみる、当初は中国やネパールからの伝播であったが、遅れてインドから伝わり次第にナーランダ
(Nâlandâ)寺を中心としたインド直伝の佛教が正統とされて主流となる、更にイスラムに追われたインド僧が移住して・上座部theravāda)大乗部Mahāyāna・密教Tantrismが定着して確固たる礎となる、薬師寺の元管主、橋本凝胤師に依ればチベット語は六世紀にサンスクリット文字をベースに作られた様で経典の翻訳は容易であったと言われている。
チベット佛教の方針を定めた要因として、八世紀後半テイソン・デッエン、チベット皇帝がナーランダ゙寺
Nâlandâからインド佛教界の複数の重鎮と敦煌の禅僧を招き論争させ、瞬時に覚ると言う禅の「頓悟(とんご)」ではなく修行を積み重ねる「漸悟(ぜんご)」を言う大乗を採用した。    
チベットは十二世紀最後半に壊滅したインド佛教の最後の到着点である、チベット仏教の真髄と言える教義に六波羅蜜から利他などを説いたナーランダ僧院大学のシャンテイデーヴァ
śāntideva・七世紀後半)即ち
寂天(じゃくてん)(中国名)が著した「入菩薩行論(にゅうぼさつぎょうろん)(入菩提行論・Bodhisattvacharyāvatāra、ボーディサットヴァチャリヤーヴァターラがある、これはクリスチャンの聖書にも匹敵する根幹教義でチベット仏教総ての宗派で採用されている、もう一つインド佛教壊滅と概ね同時期にインドの行者ミトラヨーギンが持参した108種の曼荼羅、即ち「ミトラ百種」とされる教義がある。
中国や日本ではほとんど見られないが、チベットでは「持金剛」と言う密教仏が、女性の裸身姿を抱きしめる菩薩が多く見られる。
中国人が吐蕃(とばん)と侮蔑的な文字で記述したチベットは主に密教主体の国であるが、同一宗派内に顕教も存在する、後述するがニンマ派では比重は小さいが採用される、正統派と言える最大宗派でダライラマ十四世の所属するゲルク派では顕教を正しく修得の後に密教に入るが密教の比率が高い、正木晃の著述に依ればゲルク派の開祖、ツオンカパ13571419年)は「この世界では佛と成るには深甚なる金剛乗(密教)と波羅蜜乗(顕教)と二種あるが金剛乗がはるかに優れている-----」と自伝詩で述べている(空海と密教美術 角川選書)
密教でもチベットは後期の密教である為に空海の請来した中期密教とは「淫し仏教」と誤解されるほど異なる、比較的近い曼荼羅maṇḍalaの描く大日如来に於いても胎蔵曼荼羅金剛界曼荼羅の両部曼荼羅にもあるが一切智の毘盧遮那が多い、但し本尊は毘盧遮那から・グヒヤサマージャ(秘密集会 Guhyasamāja)、ヘーヴァジュラ(呼金剛 喜金剛 Hevajra)、チャクラサンバラ(勝楽尊)、カーラチャクラ(時楽佛 Kalacakra tantra)等に変わる。
因みに密教と顕教であるが一方からは外道と決め付けても不思議ではない対立軸にある、後発の密教が優位性の主張の為に、誹謗の意味合いで顕教を呼称したものであり、既存仏教では顕教とは呼称しない。

チベット仏教は外部からはラマ教とも呼ばれる事があるが俗称である、中国に於いてチベット僧を「剌麻(らま)」「喇嘛」等と記述された事から、日本でも踏襲(注1)された事がある、日本では正統な仏教と異なると解釈して、ラマ教を呼称したが、チベットはインド仏教から教義を直輸入しており、日本仏教は儒教、道教が混在した教義、即ち創作と言える程変更された経典を招来している、正統性はチベット仏教の法が高いと言える、余談かも知れないが、チベット仏教のダライ・ラマはノーベル賞を受賞しているが、日本仏教界には候補に挙げられた僧侶は皆無である、1974年ダライラマの命で来日し高野山大学の専任講師や京都大学、東北大学で教鞭を取ったニチャン・リンポチェ師はチベットを訪れたキリスト教宣教師がラマイズムと呼んだことにあると言った、(チベット仏教入門 吉村均 ちくま新書 参考)

後述するがラマとは師を意味し、上座部佛教を小乗、イスラム教を回教と呼ぶ程侮蔑性は無いが、中国では無上瑜迦タントラを淫祠佛教的解釈がされた事もあり喇嘛(らま)教すなわち、ラマ教は正確な呼称ではない、チベット佛教は7世紀後半ネパールを経て伝わり上座部系が混在したチベット語訳の経典を使う、因みに無上瑜迦には段階があり、生成過程の観想法である「生起次第」を経て実践段階の「究竟次第」に至る事である。
13
世紀イスラムの侵攻を受けて追われた大勢のインド僧達がチベットに逃れて佛教、中でも後期密教即ち無上瑜伽密教
anuttarayogā tantra アヌッタラヨーガ タントラ)を広めた、王家の婚姻関係や敦煌に於いての重訳(梵語-漢訳-チベット語)から中国佛教とも習合するが後にインド佛教が正統化される、これら多彩な佛教から精霊崇拝や死者儀礼に重点を置く土着宗教で
アニミズムanimism的なポン教(pon)と習合した事で民衆の支持を得て所謂ラマ教と言われる様になる。 
従って多くの宗派が有るが、最大派閥にゲルク派があり代表はダライラマである、チベット佛教には四大宗派がある、最古のニンマ派
(密教が大)から ・サキャ派(顕教やや大)・カギュ派(密やや大、妻帯僧が居る)・ゲルク派(最大宗派、顕教が大、戒律が厳格)を言う、因みにチベット語に翻訳された経典を漢字では「蔵訳」との記述がある、蔵とはチベットを意味し蔵または西蔵と記述しチベットと発音したとされる、因みにチベットでは20世紀前半まで鎖国政策の国であったが、チベットに受け入れられた者を「入蔵者(にゅうぞうしゃ)」と呼称された 
初期佛教のインドでは宗派の違う僧侶達が同じ
サンガEarly Sangha共住していた、日本でも南都佛教では各宗派兼学であったが東寺が真言宗の専属寺院として独立する、日本以外でもやがては宗派毎にサンガを持った、しかしチベット仏教では現在でも巨大寺院でゲルク派、サキャ派、シャル派が共存していると言われる。(空海と密教美術、正木晃著、角川選書)
チベット佛教の特徴は「転生活佛」ルク Tulkuにある、世界最大級の規模と言われるポタラ宮13階建て 総高117m 建築面積13000㎡に住むダライラマは観音菩薩の転生で生き佛即ち活佛である、ダライラマに次ぐ地位にパンチェンラマがありダライラマの転生を認定する役割を持つが、現在表面に出ているパンチェンラマは中国政府の押し付けによる者で本物のラマは生死不明とされている、閑話休題、ポタラとは観音菩薩(アバローキテシュバラ avalokiteśvara bodhisattva)が住む浄土、即ち「ポータラカ」に由来し中国文字では補陀落(ふだらく)となる。
またチベット文化はインド文明を崇拝したのに対して中国文明に対しては殆ど注意をはらってこなかったと言う、----知識階級に於いても漢文が読めた人は極めて稀であった(初めてのチベット密教美術、正木晃著、春秋社)
前述の中国文明への注意であるが、時代は少し下るが、インドを植民地とした大英帝国が隣国のチベットの鎖国に動いた為ではないだろうか。
チベット密教は後期密教を採用しており、金剛乗即ちインド佛教の最終到達点とされている、空海が日本に請来した中期までの密教とは教義は踏襲しているが著しく変質した様に見える教義である、
男女合体尊チベット語でヤブユムYab-yum即ち男尊が配偶者と性的に結合した状を描いた例が多く存在している、これはチベットだけでなくインド、ブータン、ネパール、によく観られる。
これ等ヤブーユムを配しての秘儀を聚輪 (しゅうりん)(Gaacakra ガナチャクラ) 儀軌と呼ばれる様だ。

「性的ヨーガ」が興隆しヒンズー教の性力派(シャークタ派)と交流を受け、佛法の慈悲(男性)、智慧(女性)の融合、すなわち性的快楽を覚りに結びつける教義が取り入れられている、尚インドには性的快楽を語ることに抵抗感はない様である、チベット密教は多くの美術作品が世界に知られており、青銅像やタンカと呼ばれるチベット佛画が存在している、インドからの亡命僧が多く関わり男女間の性的快楽が表現されている、しかし儒教文化に馴染んだ中国に於いて元、清の時代に信仰された様であるが経典は「秘密集会タントラ」(施護訳)「一切如来金剛三業最上秘密大教王経」など漢訳されているが日の目を見ていない、本来は淫姿と見られタブーであり、その影響を受けた日本に於いても生殖崇拝的な左道すなわち後期密教が受け入れられる事は無かった、但し明治維新まで真言立川流に左道密教の跡が見られたと言う、外部からラマ教と呼ばれた様に師を大切にし「四宝」佛法僧に師宝を加えている、因みに左道の左は邪と解釈される、チベットには秘仏すなわち日本的には左道と言える観音の一尊に、蓮華網観音(蔵語ペーマダワ・pad ma daa ba 梵語パアドナジャーラpadmaāla)と言う妃を抱擁しながら踊る変化観音が観られる、チベット仏教は教義としては倶生乗(ぐしょうじょう)すなわち男女交歓を肯定する経典と言えよう。    
チベットには多くの宗派があるが、諸経派は個々に強力な氏族が背景にある。
解脱(げだつ)せず何度の娑婆sahā  saskta大地の意味もに生まれ変る「転生活佛(てんしょうかつぶつ)」のダライラマやパンチェンラマの所属する、顕教と密教を併修し、インド仏教を重要視したゲルク派に加え、大印の秘法やナーローの六法(修行体系)など神秘体験を強調する・カギュ派、覚りの証果すなわち道果説を中心教義とする・サキャ派に、古密教を中心とする・最古の歴史を持つニンマ派で四大宗派を形成している、その他政治的に独立国であるブータンにはダライラマの所属するゲルク派から独立したドウク派があり健在である、ブータンと言えばチベット佛教の経典や願文が書かれた、「ダルシン」やルンタ即ち(経文旗・祈願旗)が、
ドチュラ峠等を初めとして、いたる処に翻っている、また僧侶がタシゴマンと言う移動式寺院で祈りを奉げている、閑話休題、輪廻転生を信じるチベットやブータンでは日本の様な墓は無い。  
重ねて言えばラマ教の呼称は現在では宗教関係者以外から言われている名称で、近年発行された著述の多くにラマ教の呼称は限定された場合にのみ使用されている、侮蔑用語ではないが誤解を招きやすく使用は適切とは考えられない、国名・宗派名
(チベット佛教・ブータン佛教)若しくは「後期密教」を使用すべきと考える、因みにラマとは師(上人)を意味し梵語はguru(グル)、チベット語でbla ma(ラマ)である、またチベットでは信徒を「ナンパ」と言い、佛法を「チョエ」と呼び、教義すなわち釈迦の教えを「サンギェキテンパ」としている様だ、因みにダライとは海を意味すると言い、チベット人は自国を観音浄土すなわち補陀落山と考えていると言う。
外部から観たチベット佛教の特徴は繰り返し行う五体投地(praipatya pañca-maṇḍala-namasārea)と鳥葬と時輪タントラに使用する砂曼荼羅と考える、鳥葬は死者の躯体を解体して放置し鳥に餌を提供した後に骨を埋葬する、頭蓋骨杯や吹奏用具等に使用される、砂曼荼羅すなわち時輪タントラ
(カーラチャクラ・kalachakraは着色した砂で熟練した僧侶が時間をかけて製作するが灌頂儀式が終了すると曼荼羅は解体され砂は再利用される事は無い、但し鳥葬はゾロアスター教でも行われる。
現在チベット仏教の本丸はインドにあり1965年にダライラマによるチベットハウスである、ここでは四大宗派の代表が交互に講座を開くなど本来の活動をしている。

閑話休題、特にチベットなどの後期密教の国では密教を金剛乗vajrayāna、ヴァジュラヤーナ)or真言乗mantrayāna、マントラヤーナ)と呼称するのに対して顕教を波羅蜜乗と呼び金剛乗の優位を強調している。

チベット仏教の瞑想修行は生起次第(しょうきしだい)究竟次第(くぎょうしだい)に分類される、「生起次第」とは、総ての世界は仏たちが集合する曼荼羅世界である、総てが曼荼羅を形成上不可欠な瞑想である、仏を瞑想し心身に浸透させる行を言う、「究竟次第」とは日本に伝来しなかった、性的ヨーガに関する行法がある為に秘密のベールにあり淫し邪教と見られた、因みに究竟とは絶対最高・究極の性愛瞑想とでも理解すべきか、後期密教瑜師婆伽処(ゆしばばがしょ)」、女性尊の女陰で説いている。
チベット仏教では無上瑜伽タントラ時輪タントラが頻繁に言われるが、カーラチャクラ・タントラ()(りん)タントラ・Kalacakra tantra,とはインドで著された後期密教最後の教典である、インド直結のチベット密教には聚輪(しゅうりん)gaacakra三昧耶(さんまや)薩埵(samaya-sattva智薩埵(ちさった)(jñāna-sattvaなどのタームがよく表れる。

無上瑜伽タントラ
Anuttarayoga Tantraの一つで釈尊の晩年の口伝を編纂したとされる典籍である、即ち「Kala」は時間で「Cakra」は輪を意味し漢訳で時輪と言う、また
瑜伽とは梵語sasktaでyoga(ヨガ)の音訳である、原義としては“相応”、“結合”を意味するがヨーガとの解釈が適当と考えられる、タントラの日本語の意訳であるが正木晃氏は「連続」「相続」が有効らしいが、タントリズム、即ちイズムは「教え」を意味する、但しチベットに於いては前後期関係なくタントラTantraと呼称する
密教美術品であるが正木晃氏は文化大革命やチベット動乱等々があり、シャル寺等一部の例外を除いて、中世まで遡れる作品は意外と少ないと言う。
日本では特別視されている般若心経法華経はチベット佛教では普通の経典扱いの様子である、但しチベット大蔵経に於いて般若心経は般若部と呪すなわち密教部に収録されている。

チベット佛教のスタンスを英訳した書に「チベット死者の書」がある、チベット語の原題 「バルド・トドゥル」Bardo Thodolと言い米国の人類学者(エバンス・ヴェンツ)の英訳と言うよりも著作かも知れない作品がある、ここには中陰(ちゅういん)(antarā-bhava アンタラー ババ)すなわち死亡から49日間が記述されている、因みにトドゥルとは解脱的な意味合いと解釈する
中期密教と後期密教の比較をインド後期密教・松長有慶著・春秋社を参考に記述する、①憤怒形、多面多臂、②女性配偶者を抱く、yab-yun チベット語)、③主尊の交代(大日如来~金剛薩多 阿閦如来 等)、④殺生 セックスの容認、⑤人間の生理活動の応用である。

チベット佛教は日本の真言宗と僅かながら交流がある、チベット佛教僧院すなわち日本別院
(龍蔵院デブン・ゴマン学堂日本別院)が広島県広島市東区牛田東3丁目3-41(高野山真言宗牛田山龍蔵院内)に創設されている、また豊山派で東京の護国寺ではチベット仏教に関する勤行、供養が行われている、ダライラマ十四世も2011年には高野山に於いて灌頂、講演を行った事がある、大脱線するがオーム真理教の教義は好いとこ取りであるが、基本的にはチベット密教を模倣している様だ。 
オーム(oṃ)はチベット仏教会では観音菩薩の真言に成る、マントラの前後に唱えられるのが”オーム”である、和訳すれば「然り」またキリスト教では「アーメン'āmēn
に相当する様だ、語源としてはオーム真理教のオームと同意である。



1、真宗大谷派の学僧・小栗栖(おぐるす)香頂(こうちょう)1831年~1905年)の著作でチベット仏教を目撃して書かれたラマのバイブル的存在の「喇嘛教(らまきょう)沿革」1836年 明治9年)が存在し、他の学僧達も追従していた、因みに現在では喇嘛教(ラマ教)と言う呼称は不適切として使用されていない


20141220日 佛教より独立 2016年1月23日 6月9日 2017年3月10日 4月29日 5月5日 10月24日 11月7日 2018年3月3日 9月9日 9月25日 12月5日 2019年4月16日 7月26日 2021年8月11日 11月30日 2023年6月5日加筆 




     説明: C:\Users\Owner\katada202\kyoto\button1.gif           古寺巡礼   仏像案内    佛教  

inserted by FC2 system