勝鬘経(しょうまんぎょう)

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正式名称は「勝鬘師子吼一乗大方便方広経(しょうまんししくいちじょうだいほうべんこうきょう)」と言う、原題の梵語名はśrīmālādevī -sihanāda-sūtra (シュリーマーラーデービー・シンハナーダ・スートラ)で「如来真実義功徳章」から「勝鬘章」まで15章で構成されている、五世紀中盤に求那跋陀羅(ぐなばどら)による漢訳が通常は用いられる、人名であるがśrīmālāの意訳は「秀でた花輪」の意味をもつが、梵語原典は失はれているが漢訳二典とチベット語訳が存在するが、 バラモンの出身で求那跋陀羅(Guṇabhadra ぐなばっだら)と言う僧侶の訳が多用されている。   
勝鬘夫人獅子吼経の獅子吼(ししく)観音とはヒンドゥー教Hinduの三大神の一尊であるシヴァŚiva神の変化身が仏教で観音菩薩に採用された尊格で梵語でシンハナーダ(sihanāda)と言う。

勝鬘経は維摩経から少し遅れて34世紀頃に登場し、5~8世紀に漢訳された経典である、大乗仏教に於ける中期に相当し大乗の理想を強調している、即ち大乗仏教の哲学を華麗な表現で包み込んだ経典である、高貴な女性の理想的な姿とした在家仏教の代表的な大乗経典である、表現を変えれば勝鬘経は維摩経と共に在家信者が説き、釈尊が称賛し承認する経典である、勝鬘経の特徴として女性が説く経典である為か、他の経典の様に変成男子(へんじょうなんし)として生るのではなく成仏しても女性である。
人は誰でも仏性が備わっていると言う「如来蔵」を説く経典である、実在したコーサラ国
(舎衛国)の王姫でアヨーデヤー国Ayodhya阿鍮闍国(あゆじゃこく)、すなわち女性の在家信者である優婆夷(うばい)upāsikā(注4波斯匿王(はしのくおう)の息女である勝鬘夫人が釈尊のサルベージを受けて説き承認されたとされる教典である。 
勝鬘経義疏であるが、真偽の程は定かではないが606年聖徳太子が推古女帝の依頼を受け三日間を要して講義したと日本書紀に記述がある、重ねて言えば「十大受章・三大願」(注1)の説法を同席していた釈尊が承認するという経典で、特筆すべきは在家の女性(śrīmālā)の説法として著名である、因みに勝鬘夫人の両親すなわちコーサラ国のパセーナデイ国王
波斯匿とマッリカー王妃は実在した人で、その両親と釈尊は親交が存在した様である、また釈迦族Śākyaはコーサラ国の属国であった。   

中期大乗仏教に於いては竜樹を祖とする中観(ちゅうかん)派と弥勒を祖とする唯識派が代表哲学であるが、弥勒の流れをくむ如来蔵哲学を持つ、因みに如来蔵(仏性)とは何れの人も覚者になれる可能性を言う哲学で密教の成立の触媒になっている。 
自性清浄の心、理想の在家仏教を賛歌し真実の教えとして人間はすべて平等に成仏する事が出来ると説く「一乗思想」を唱える、また一切の衆生は煩悩にまとわれているが、本性は清浄無垢で如来の心を備えていと言う「仏性」即ち*如来蔵章に於いて即ち一乗真実の如来蔵を説いている、更に*第七章では「聖諦」
phags pai hden pa チベット語)甚深微妙の義すなわち聖なる真理を説いている、因みに如来蔵は法華経の「一仏乗」に相当すると思惟される。
身・命・財を捨てることに仏の教えがあると言う、またインドのバラモン等土着信仰に於いては女性蔑視が通常化していたが、原始仏教に於いては女性を差別化していなかった様である、しかし紀元前一世紀頃に上座部に於いて女人の五障
(注3)が言われ女性差別が元に戻る、そこに阿閦仏阿弥陀仏信仰が興り解決法として「変成男子(へんじょうなんし)転女成男(てんにょじょうなん)」」すなわち男性に性転換がいわれた、これを完全な女性成仏に導いたのが維摩経や勝鬘経であると植木雅俊氏(仏教の中の男女観・岩波書店)は言う。 

勝鬘経と共に女人が説いた特異な経典がある、中国や日本では省みられない「大荘厳法門経Manjushrivikriditasutra)である、勝金色光明徳(しょうこんじきこうみょうとく)と言う娼婦が森の中で男に法を説く経典がある。          iDhammacetiya-sutta, ダンマチェーティヤ・スッタ)

釈尊が最後の旅でヴェーサリー(saṃskṛt Vaiśālī ヴァイシャリー pāḷi語 - Vaishali)と言う所にある、遊女アンバパーリーpāḷi語 Ambapālī、saṃskṛt 語 Āmrapālī )が所有するマンゴー林に於いて食事を接待した故事がある様に、インドに於ける娼婦の社会的地位はそれほど卑しい職業でなかった可能性がある。

勝鬘経の日本仏教界に在家仏教を積極的に肯定した影響は大きなものがある、聖徳太子の作とされる「三経義疏」の一つとして勝鬘経義疏等の注釈書も多い、太子が三経義疏の一典に加えたことに対して当時は推古天皇の御代であったとの指摘をインド哲学の権威・中村元氏が言われている、これは推古天皇と勝鬘夫人をオーバーラップさせている様だ、但し聖徳太子著作とされる「法華経義疏」に付いて否定論が多い、「勝鬘経義疏」についても古写本の研究者で敦煌の碩学・藤枝晃氏は、敦煌よから発見された「勝鬘義疏本義」と七割が同文でと言う、三経義疏の太子著作説には疑問点が多い様である。 


勝鬘経の構成  *如来真実義功徳章 *十受章 *三大章 *摂受正法章 *一乗章 *無辺聖諦章 *如来蔵章 *法身章 *空義隠覆真実章 *一諦章 *一依章 *顛倒真実章 *自性清浄蔵章 *如来真子章 *勝鬘章。  


1、十大受三大願  己を戒め悟りに至るまでの十の戒(十大受章)   1世尊菩薩に至るまで犯心を起こさず ・2、・・・・・・慢心を起こさず ・3、・・・・・・恚心を起こさず ・4、・・・・・・嫉心を起こさず ・5、・・・・・・慳心を起こさず、  ・・・・・・蓄財せず等 610以下略。 
三大願 (三大願章) 高邁な哲学で 1、善根を持ち一切生で正法智 ・2、無厭心を持って衆生を説く ・3、身命財を捨て正法の護持。

2、コーサラ国(舎衛国 Śrāvastī) 当寺実在した大国で、釈迦族もこの国に従属していたとされる、パセナーデ王(Virūḍhaka)・マリッカー夫人(MallikA devI)も実在したとされる。アヨーデイヤーは現在に於いてもガンジス川支流に存在している、四天王寺別院の勝鬘院本堂には勝鬘夫人像が置かれている。  

3女人五障 「法華経」の「(しん)解品(げほん)」には女人成仏が不可能な理由として挙げられている、即ち・欺・怠・瞋・恨・怨がいわれる。
とは信じる事を知らない。  とは仏教徒としての怠け。  とは怨む。  とは嫉妬。  とは死後も恨みを継続する。  

4優婆夷 ()()(そく)upāsakaとは世俗在俗の生活を営み仏教に帰依する男性を言い、女性の在家信者は優婆夷(うばい)upāsikā)と呼ばれた。


2007424日注1・注2 2008123日 201153日 2014年11月2日 2015年4月7日推古天皇の要請 2016年9月28日 2017年1月10日 3月23日 2021年1月22日加筆

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