金光明経(こんこうみょうきょう)(金光明最勝王経) 
                 
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空の哲学や懺悔滅罪などを説き大乗佛教マハーヤーナ・Mahāyānaの範疇に入るが、中村元氏に依れば密教すなわちタントラTantraへ移行する為の中間項的な経典で四世紀頃北インドでの成立が言われる、金光明経の重要部分すなわち四方四仏は華厳経毘盧遮那と共に密教の根幹である大日経に利用されている、但しチベット佛教に於いては所作タントラ(bya ba; kriya)即ち初期密教の範疇に組み込まれている。
梵語原典と漢訳が三、チベット語の他に蒙古語、ソグド語、ウイグル語、コータン語、カムルク語の訳がある、特に懺悔は経典の中枢をなし各巻に於けるテーゼ(theseである。
「金光明経」(suvara prābha sūtra スヴァルナプラパーサ スートラ)曇無讖(ぢんむしん)訳・dhamakema・ダルマクシェーナ・四巻・421年)や「金光明最勝王経」(義浄訳・十巻・703年)とも呼ばれているが漢訳(注2の段階での相違で同一経典と解釈されている、呪文や儀礼等々密教的な要素を加えた義浄の訳が筆量的には二倍を超える、中村元氏は梵語原典には四巻すなわち北凉の曇無讖(どんむしん)訳が一番忠実と言われる、金沢大学の森雅秀氏に依れば一度に成立した経典ではなく段階により次第に質量が増加している経典と言う。 
佛教儒教などと違い個人救済の宗教であり経典もそれに沿った典籍で占められるが、為政者の為に国家の興隆繁栄の論法を説く「正論品十一」注7)に記述される様に集団
(国家)救済の経典である、即ち国家権力者の為の経典と言える、奈良時代から平安時に於いて重要視された経典である、聖武天皇の勅命で法華経等と共に日本各地の国分寺に金光明経を置く事が義務付けされた、梵語名で黄金の輝きを意味する、梵語名をSuvaraprabhāsa‐sūtra(スヴァルナプラパーサ・スートラ)と言う、因みに金光明経は哲学及び表現法などに法華経の影響を受けていると言われている、その為か釈尊の寿命は八十歳ではなく無限永遠と説いている。
また金光明経には四天王を初め天部の各尊が紹介されて行動する、国家護持を唱え王法正論やジャータカから捨身飼虎の記述がある。
密教経典の範疇ではないが
Tantric Buddhismへ移行する為の道標とも言える経典である、呪術的かつ密教的色彩を持ち政治思想をも内包している、この経典を信仰し称えれば四天王等の加護があるとされ、光明皇后が熱烈に信仰した経典である、また日本に於ける国分僧寺建立を初め寺院建立に大きな影響を与えた経典である、また経典に依る「吉祥悔過会」が回を重ねられて天武天皇の時代675年には金光明経による豊穣祈願や、694年には地方にも経典が配布されて読誦指令が出された、聖武天皇の勅願で金光明最勝王経十部を各国分寺に置かれた。

834空海に依り宮中で行われる後七日御修法が開始されるまでは正月八日から金光明経を講説する御斎会が行われていた、密教的色彩に付いて中村元氏は仏陀の生命の永遠を説くなど、法華経の若干の特徴を発展させて密教に移行する為の中間的な役割と指摘されている。
仏教
ユダヤ教や儒教等とは異なり個人救済の宗教であり、経典の大部分は個人救済を説いているが、金光明経は国家
(集団)救済(正論品11)をも含めて説いている、しかも祈祷、呪力で国を護るのではなく、正しい統治により神からの守護があるとされる、王者の履行すべき義務を説き鎮護国家を維持する責務をも説かれているが、金光明経の根幹は「金光明懺法(せんぼう)」にあるとも言われる様に懺悔すなわち悔過(けか)・鎮魂的な一面を無視することは出来ない経典である、また鎮護国家に付いて「四天王護国品」では四天王が如何にして国を守るかが言われている部分が有る、脱線するが正式名称を「金光明経四天王護国之寺」とする東大寺では「こんではなくきんこうみょう」と発音している、聖武天皇が興した国分寺は「金光明経四天王護国之寺」(尼寺は法華寺)の寺名で各地に存続している、閑話休題、金光明経には懺法の懺とは悔過を言い法は懺を行う方法「観世音懺法」が著名である、また金光明経に関連する法会に薬師寺の最勝会、興福寺の維摩会がある、また奈良時代の四大寺、五大寺と呼ばれた処で帝の病平癒等の祈願会に必ず読まれていた。
金光明最勝王経の大吉祥天女品が著名で吉祥悔過の本尊として信仰された、東大寺法華堂の塑像や薬師寺の画像(国宝)などが嚆矢と言えよう。 
金光明経は経典の功徳に始まり妙幢菩薩
(Ruciraketu・ルチラケーツ)が金鼓を撃つバラモンを夢に見る等の形で登場し述べている、法華経との類似点も多くあり80歳で没した仏は仮設の姿と説いている、因みに妙幢菩薩とは地蔵菩薩の別称と言われる。
余談になるが日本書記の仏教伝来の書き込みは金光明最勝王経をベースに書かれているのは定説であると「観音・地蔵・不動」速水侑著 吉川弘文館に書かれている。
本生譚
(ジャ-タカ、
Jātakaにある法隆寺の玉虫厨子に描かれている捨身飼虎や、流水(るすい)長者の逸話で子の魚を助けた物語も記述されており、最勝会や鳥魚を放す放生会はこの経典を論拠としている、そして最後は釈迦如来・諸尊の賛歌で終了している。 

大乗経典の一典しての範疇に位置している、梵語名Suvaraprabhāsa‐sūtra 、黄金の輝きと訳され梵語の原典はネパールに存在する、漢訳は三典があり北凉の(どん)無識(むしん)dharmaksema・ダルマクシェーナ)の四巻本、合部金光明経と言われる八巻本で曇無識、真諦(しんだい)闍那崛(じゃなくっ)()、三人の漢訳を集合したもの、十巻本すなわち金光明最勝王経である。
法華経 ・仁王般若経と共に護国三部経の一典に数えられ法華経をベースに密教が形成される触媒的経典と言える、金光明経は日本のみではなくネパール・チベット等に於いても護国を叶える九宝の一典に入れられていると言う、四世紀のグプタ王朝
Gupta Empireで成立した経典で護国経典的な胚芽はインドに於いても皆無ではない、護国三部経を俯瞰すれば主権、既得権等に対する従属拒否の思想があり、経典の現実への積極性等の好都合なヶ所を取り出して護国三部経としている様である。 
日蓮と言えば法華経オンリーの印象を受けるが、立正安国論に於いて「金光明経、四天王護国品、十二」では生死の河に堕落す、と引用している、また偽経説の強い護国三部経の一典「仁王般若経」や「大集経」「薬師経」等も引用している。
また薔薇門・リグ・ベーダ聖典(
gvedaの影響を色濃く受けており、弁才天が重要なポジションに登場している、すなわち巻78「大辯才天女品第15」、巻10「大辯才天女讃歎品第30」に護法善神として説かれており陀羅尼を唱える事や賢者の沐浴法等を推奨している、また吉祥天の功徳が説かれている、余談かも知れないが弁才天を我が国で最初に伝えたのは金光明経である。
日本に於いては天武期に講説が始まるが、漢訳は当初5種類存在したが414年頃 曇無讖(どんむせん)訳の「金光明経」が最古で、日本では聖武天皇の時代に採用された義浄訳703年)の「金光明最勝王経」(10巻)が最も読まれた、また不空の訳もあり密教的なのは義浄の影響も考えられる。
金光明経には胎蔵曼荼羅の諸尊が記述されているが、開敷華王如来(sa kusumitāja サムクスミタラー)は記述がない。

内容的には権力を掌握するまでの過程でライバル排除に犯した罪等による鎮護国家的の「吉祥悔過」・金光明懺法での供養方法や為政の為の国家護持や現世利益・金光明四天王護国寺による国分寺等が記述されている、特徴として鎮護国家的性格から日本では法華経と共に重要視されてきた、因みに七百三十四年(天平六年)には僧侶になる条件として法華経と金光明経の暗誦が義務付けされている。 
毘沙門天
弁才天信仰の触媒的役割を果たしたとされている、また日蓮は立正安国論に於いて「四天王護国品十二」等を取り入れている。
この経典を基に東大寺や各地の国分寺
(尼)興福寺西円堂等が建立されたが、特筆すべきは金光明懺法に於いてはこの経典を唱えれば懺悔の心を癒してくれるとして、藤原一門が自系以外の天武天皇直系の孫で天智天皇の皇女を母に持つエリートである長屋王、吉備皇女夫妻や安積(あさか)親王達ライバルを抹殺した怨恨からその怨霊により、地震・飢饉・凶作が重なり、更に政権の中枢にいた天平9年(737年)4月17日~8月5日まで5か月の間に、右大臣・藤原武智麻呂(むちまろ)(南家)、参議民部卿・藤原房前(ふささき)(北家)、参議式部卿・宇摩合(うまかい 式家)、参議兵部卿・麻呂(まろ 京家)の藤原四卿(よんきょう)即ち、光明皇后の四兄弟が、ほぼ時を同じくして天然痘疫瘡(えきそう)で死亡(737年)した事に対する恐怖と悔過、怨霊除去の為に利用されたと思惟される、因みに怨霊悔過は日本書紀の改ざんに対する恐怖に有ったと言う説がある(聖徳太子の実像に迫る、林春彦、新人物往来社)

疫瘡が下火になった頃に、金光明最勝王経が採用されて効能が見られた、これが国分寺、及び国分尼寺誕生の触媒になった様だ。
興福寺西金堂の建立には光明皇后の母、橘夫人の供養の為とされているが、藤原一門が行ったライバル殺害を懺悔した儀礼の中心経典である、経典の中で
金鼓(きんく)と記述される華原磬(かげんけい)(興福寺所蔵の国宝)を打ち鳴らして怨霊回避を祈願する願望が強い聖堂であった、また金鼓が光り輝く事から金光明経の経名が出来たとも言はれる、因みに金金鼓懺悔品」に於ける妙幢菩薩が観た夢の物語が知られている。
懺悔の目的は過去現在に犯した業や煩悩を消滅させる事にある、「滅業障品」には罪、煩悩が業障となり地獄等に落ちると言う、業障とは三障四魔があり、その内三障に・煩悩障・業障・報障がある、また四魔は・煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔であり修行中にい起こる障害である。
因みに東大寺の正式名称は金光明四天王護国寺で総国分寺とも言い、各地方に点在する国分寺、国分尼寺と共に金光明経を基にして創建された事は藤原四兄弟の死との関連が考えられる、「建久御巡礼記」「法華寺縁起」にある衆生に対して光明皇后の湯屋に於ける垢すりの記録も怨霊除去に関係があろう、閑話休題国分寺建立の詔で寺院が増加し僧尼のレベルが低下し、後に法華経と金光明経の暗誦が僧職に付く必要条件に加えられた
また光明皇后の(いみな)安宿(あすかべ)媛と言い出家して光明子と称した、彼女の金光明経に対する執着が説明出来て井沢元彦氏の言う東大寺が怨霊に対する鎮魂の寺説は否定できなくなる、その他建前とは別に本心は同様と思惟されるが持統天皇も重要視しており、宮中に於ける最勝会(御斉会)の履行や各地方の国に書写を命じている、因みに光明子晩年の正式名称は天平応真仁正(おうしんにんしょう)皇太后と言う。
奈良時代の作品で国宝で奈良国立博物館所蔵の「紫紙金光明最勝王経」 H26.3 W764.9cm 高野山竜光院「紫紙金字金光明最勝王経」「細字金光明最勝王経}平安時代が著名である(注1      

金光明経 捨身品に本生譚(Jātaka ジャータカ)に法隆寺玉 虫厨子や大長寿院 本宝塔曼荼羅に描かれている捨身飼虎図の素となる説話が知られている、因みに施身門偈図は涅槃経巻十四に記述がみられる。*中尊寺末の大長寿院「紺紙著色金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅捨身飼虎図」(第十幀は捨身品)。
因みに仏教は因果律が総てであり「善因楽果(ぜんいんらくか) 悪因苦果(あくいんくか)」即ち良い行動には良い報いがあり、悪事を行えば悪の酬いがあると言う、しかし前述の本生譚に依れば何回も六道を体験し善道を繰り返した事により現世では僅か六年の修行で覚ることが出来たと言う。



1、 金光明経、経典は京都国立博物館所蔵(白描絵料墨書・巻子装 鎌倉時代)高野山竜光院2点が国宝指定を受けている、その他重文指定は断管を含めて東京国立博物館・高野山龍光院等に数点存在している。  

2 「金光明最勝王経」は十巻本と言われ金光明経を加筆増幅した経典で全1031品から成る、「合部金光明経」八巻本は曇無鑯・真諦・闍那崛多等複数の漢訳本を集成した経典である、最も原典に忠実な訳本に四巻本がある、「金光明経」で曇無識(dharmak
ema ダルマクシェーマ)の訳で和訳(中里貞隆訳・国訳一切経・大東出版社)もされている。                                                

3、 護国三部経 「法華経」・「金光明経」・「仁王般若経」を言い、特に金光明経は鎮護国家に対する思想を強調したもので陳の文帝が取り入れたとされる。日本に於いては天武天皇が律令制国家建設の為に仁王般若経と共に重要視したと思はれる。 


4仁王(にんのう)般若経(はんにゃきょう)   正式名称は不空訳が「仁王護国般若波羅密多経」、鳩摩羅什訳が「仁王般若波羅蜜経」と言い、梵語経典は発見されて無い、インドではなく中国に於いて成立した可能性の高い経典である、従って経典の起源・時期は定かではなく疑経説が有力視されている。 鳩摩羅什と不空の訳とされる経典があるが、主に真言宗が不空訳を、天台宗が鳩摩羅什訳を用いている様だ。
天台智顗が護国経典として重要視しており、中国天台宗を中心として日本でも「金光明経」・「法華経」と共に護国三部経の一経に数えられている、特に玄宗皇帝に帰依された不空による仁王護国般若波羅密多経陀羅念誦儀軌に密教化された護国思想や五大力菩薩、五大金剛、五大明王の哲学が説かれ空海円珍により請来された、因みに五大明王はインドで信仰された形跡はなく軍荼利明王、金剛夜叉明王、鳥枢沙摩明王の尊挌は発見されていない。 

上下2巻・8品で構成され、国家興隆と安寧が説かれ、また菩薩の修行法を示し般若経典の結経に位置付けされるが疑経説がある。
疑経説はともかく中国・朝鮮半島で重用され、日本に於いても奈良~平安時代にかけて大極殿、紫宸殿、等に於いて仁王般若会が天皇の下で行われた、現在でも五大力菩薩を供養する仁王会は真言宗、天台宗等で行われている。
護国思想は多くは「護国品」「受持品」「嘱累品」に説かれている、また七福神信仰の起こりとも言える経典であり「七難さって七福来る」と記述がある。


 
5、 金光明経には胎蔵界曼荼羅の源流とも考えられる仏が説かれている、また「四天王護国品」には毘沙門天の存在が記述されている、また中尊寺の大長寿院が蔵する「紺紙著色 金光明最勝王経 金字宝塔曼荼羅図
(平安時代末)」が国宝指定を受けている、余談になるが1079年(承暦三年)に書き写された「金光明最勝王経音義」にはイロハ歌の原型が記述されている。 

6
義浄 (635715年)  張氏の出身で唐時代の律僧、玄奘三蔵に心酔しインドに渡り約20年間留まり、各佛跡地を歴訪し経典を請来し「金光明最勝王経」「薬師瑠璃光七佛本願功徳経」等漢訳を行う、著作に「南海寄帰内法伝」「大唐西域求法高僧伝」がある。

注7、 
正論品十一
爾時佛告地神堅牢。過去有王名力尊相其王有子名曰信相。不久當受灌頂之位統領國 土。爾時父王告其大子信相。世有正論。善治國土。我於昔時曾為大子。不久亦當紹父王位。爾時父王持是正論。亦為我。我以是論於二萬善治國土。未曾一念 以非法行。於自眷屬情無愛著何等名為治世正論。地神。爾時力尊相王為信相大子。是偈

我今當   諸王正論   為利眾生   斷諸疑惑 一切人王   諸天天王   應當歡喜   合掌諦聽 諸王和合   集金剛山   護世四鎮   起問梵王  大師梵尊   天中自在   能除疑惑   當為我斷 云何是人   得名為天   云何人王   復名天子 生在人中   處王宮殿   正法治世   而名為天 護世四王   問是事已   時梵尊師   即偈言 汝今雖以   此義問我   我要當為   一切眾生  敷揚宣暢   第一勝論   因集業故   生於人中 王領國土   故稱人王   處在胎中   諸天守護 或先守護   然後入胎   雖在人中   生為人王 以天護故   復稱天子   三十三天   各以己德 分與是人   故稱天子   神力所加   故得自在 遠離惡法   遮令不起   安住善法   修令增廣 能令眾生   多生天上   半名人王   亦名執樂 羅魁膾   能遮諸惡   亦名父母   教誨修善 示現果報   諸天所護   善惡諸業   現在未來 現受果報   諸天所護   若有惡事   縱而不問  不治其罪   不以正教   捨遠善法   增長惡趣 故使國中   多諸姦鬥   三十三天   各生瞋恨 由其國王   縱惡不治   壞國正法   姦詐熾盛 他方怨敵   競來侵掠   自家所有   錢財珍寶 諸惡盜賊   共來劫奪   如法治世   不行是事 若行是者   其國殄滅   譬如狂象   踏蓮花池 暴風卒起  屢降惡雨   惡星數出   日月無光 五穀果實   咸不滋茂   由王捨正   使國饑饉 天於宮殿   悉懷愁惱   由王暴虛   不修善事 是諸天王   各相謂言   是王行惡   與惡為伴 以造惡故   速得天瞋   以天瞋故   不久國敗 非法兵仗   姦詐鬥訟   疾疫惡病   集其國土 諸天即便   捨離是王   令其國敗   生大愁惱 兄弟姊妹   眷屬妻子   孤迸流離   身亦滅亡 流星數墮   二日並現   他方惡賊   侵掠其土 人民飢餓   多諸疾疫   所重大臣   捨離薨亡 象馬車乘   一念喪滅   諸家財   國土所有 互相劫奪   刀兵而死   五星諸宿   違失常度 諸惡疾疫   流遍其國   諸受寵祿   所任大臣 及諸群僚   專行非法   如是行惡   偏受恩遇 修善法者   日日衰滅   於行惡者   而生恭敬 見修善者   心不顧錄   故使世間   三異並起 星宿失度   降暴風雨   破壞甘露   無上正法 眾生等類   及以地肥   恭敬弊惡   毀諸善人 故天降雹   飢餓疫病   穀米果實   滋味衰減 多病眾生   充滿其國   甘美盛果   日日損減 苦澀惡味   隨時增長   本所遊戲   可愛之處 悉皆枯悴   無可樂者   眾生所食   精妙上味 漸漸損減   食無肥膚   顏貌醜陋   氣力衰微 凡所食噉   不知厭足   力精勇猛   悉滅無有 嬾惰懈怠   充滿其國   多有病苦   逼切其身 惡星變動   羅亂行   若有人王   行於非法 增長惡伴   損人天道   於三有中   多受苦惱 起如是等   無量惡事   皆由人王   愛著眷屬 縱之造惡   捨而不治   若為諸天   所護生者 如是人王   終不為是   有行善者   得生天中 行不善者   墮在三塗   三十三天   皆生焦熱 由王縱惡   捨而不  違逆諸天   及父母敕 不能正治   則非孝子   起諸姦惡   壞國土者 不應縱捨   當正治罪   是故諸天   護持是王 以滅惡法   修習善故   現世正治   得增王位 應各為   善不善業   能示因果   故得為王 諸天護持   鄰王佐助   為自為他   修正治國 有壞國者   應當正教   為命及國   修行正法 不應行惡   惡不應縱   所有餘事   不能壞國 惡因多姦   然後傾敗   若起多姦   壞於國土 譬如大象   壞蓮華池   怨恨諸天   故天生惱 起諸惡事   彌滿其國   是故應隨   正法治世 以善化國   不順非法   寧捨身命   不愛眷屬 於親非親   心常平等   視親非親   和合為一 正行名稱   流布三界   正法治國   人多行善 常以善心   仰瞻國王   能令天眾   具足充滿 是故正治   名為人王   一切諸天   愛護人王 猶如父母   擁護其子   故令日月   五星諸宿 隨其分齊   不失常度   風雨隨時   無諸災禍 以是因緣   諸人王等   寧捨身命   不應為惡 不應捨離   正法珍寶   由正法寶   世人受樂 常當親近   修正法者   聚集功德   莊嚴其身 於自眷屬   常知止足   當遠惡人   修治正法 安止眾生   於諸善法   教敕防護   令離不善 是故國土   安隱豐樂   是王亦得   威德具足 隨諸人民   所行惡法   應當調伏   如法教詔 是王當得   好名善譽   善能攝護   安樂眾生

     

 

 

西 

 

 胎蔵界曼荼羅

 宝幢如来
 r
atnaketu
 

 開敷華王如来 

 samkumitaraja 

 無量寿如来
 amitāyus buddha 

 天鼓雷音如来
 divyadundubhimeghairg
hosa
 

 金光明経 

 阿弥陀如来
 ak
obhya 

 宝相如来
 ratnaketu

 無量寿如来
 amit
āyusbuddha

 微妙声如来
 dundubhisvara
 

 

注8、、日本書紀には「金光明最勝王経」を初め「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」「淮南子」等々の漢籍を下敷きに書かれている様である。
   
   
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