三経義疏(さんぎょうぎしょ)

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法華経・維摩経・勝鬘経の三経典に於ける注釈書を意味している、近年異論が本格化しているが聖徳太子の著作と言われてきた、法華義疏(ほっけぎしょ) 4巻・維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)三巻・勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)一巻の総称を言う、因みに義疏とは注釈書的な意味合いを持つ。  
近年は太子の著作を否定する説が多い、法華義疏は法雲、維摩経義疏は智蔵、勝鬘経義疏は僧旻(そうみん)と云う梁の時代の碩学者の作で如何に明晰な頭脳でも在家に解説できる内容ではないとの説が言われている、同じ佛教とはいえ義疏と呪術は相反する部門である。
因みに義疏を著すには教理、経典を理論的に解明し、更に独自の哲学を加味したものが義疏(解説書)である、これらの義疏は複数存在するが前記を三経義疏の正統すなわち本義と言われるが、勝鬘経義疏は鳩摩羅什
の弟子・僧肇(そうじょう)(384~414年)が本義とする論調が多い。
聖徳太子は606年に勝鬘経法華経を講じた記録もあり、維摩経についての義疏の製作は密接な関係をもっているとの説が言われている。
聖徳太子伝補闕記によれば勝鬘経義疏が611年・維摩経義疏が613年・法華義疏が615年に成立したとされるが、中国の義疏には歴史的変化があり、五世紀後半の作品のコピー的である、現在に於いて聖徳太子説は太子の実像を含めて否定的な学説が多くを占めている。
例えば太子の真筆と言われる法華義疏は梁の法雲の法華義記と70%は全く同じと言われる、さらに勝鬘経義疏の場合敦煌から出土した勝鬘義疏本義と約70%が同文とされる、また義疏本義は中国に於いて6世紀後半の著作とも言われ時代が合致しない。
前述の法華義疏4巻は太子の自筆説が言われる草稿本が現存しているが、太子自筆説も疑問視されている。 
また千葉乗隆1921~2008421日・元龍谷大学学長)氏に依れば、聖徳太子伝承はチベット仏教を広めたブータンのソンツエン ガンポ王の業績が重ね合わされていると言う(仏教への旅・ブータン編・五木寛之・講談社)
聖徳宗を呼称する法隆寺20世紀までは法相宗の寺である、明治5年の太政官布告で真言宗に組み込まれたが、1950年聖徳宗として独立以後「宗法則」に於いて三経義疏を基軸教典として活動しているが法相すなわち
唯識との共通性は如何かと思惟される、また三経の共通点は大乗菩薩行を強調した点にあり浄土門との共通性は感じられない。   

私見を述べれば 「卷八十一 列傳第四十六 東夷(あずまえびす) 俀國」に記述された俀王(たいおう)多利思北孤(たりしほこ)による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)の文言で知られる国書には天子とあるが、聖徳太子は天子、大王、帝ではない、また飛鳥時代の寿命から観れば摂政になった20歳は壮年と言えよう、14歳の頃無役?で戦闘に参加したとされるが、資質、人望は如何であっだろうか。 


 


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