漱石をして「京は所の名さえ美しい」と言わしめた嵯峨野小倉山の麓に二尊院はある、季節により桜・紅葉が美しく離宮や公家達の別邸が存在した風雅な処である。
本尊に姿形の似た釈迦如来と阿弥陀如来の二尊
その後寺は荒廃していたが鎌倉時代には法然の最大のスポンサーである関白・九条兼実(注1)の肝いりで法然が居住し禁裏や五摂家(注2)が帰依した事もあり天台宗・浄土宗・真言宗・律宗の四宗兼学の寺であった。
天台の寺としては荒廃廃墟化していた二尊院は法然の弟子筋に当たる湛空・叡空による労苦の末に興隆し、土御門帝から後嵯峨・後深草・亀山・後宇多・伏見帝の出家の折に戒師を務めるなど隆盛を極めた。
しかし南北朝・応仁の乱で堂宇を失う、1521年三条実隆等の尽力で本堂・勅使門の復元が叶う、また江戸時代には320石の寺領を受けた。
現在の堂宇は江戸時代初期に伏見城医薬門を移設した総門から入り、勅使門(唐門)・本堂・総門・鐘楼や高僧・五摂家関連(注2)の墓などがあり嵯峨野小倉山にかけて五万坪程の境内を有している。
また二尊院は「桜・紅葉の馬場」と言われた景勝の地で天竜寺・大覚寺と共に嵯峨三名跡に数えられている。
当院の代表的文化財に本尊の釈迦如来と阿弥陀如来があるが作風が快慶の作品によく似ていると言われる、向って右側の釈迦如来は通常の「施無畏与願印」、往生を勧める
総門は重厚な雰囲気を持つが、1613年伏見城の薬医門を移築されたものである、また1988年に再建された勅使門(唐門)の勅額(現在は本堂にある)は後柏原天皇とされている。
ここに日本特有の文化的遺伝子が見える、「月影や四門四宗もただ一つ」松尾芭蕉が善光寺に於いての句であるが如実に表れる。
二尊院の縁起を読めば外国人いわゆるセム的一神教徒(ユダヤ、キリスト、イスラム教徒)には不可解に映ることだろう、それは法然の遺骨まで奪おうとした天台宗寺院に明治に入り回帰した事にある、二尊院と言う寺名の根拠は法然の浄土信仰に於ける最大の影響を与えた唐僧で浄土五祖の第三祖・善導による釈迦如来の戒律と阿弥陀如来の念仏と言う「観経䟽」からの主張を信じて二尊を信仰するシステムを取り入れた思想から来ている、また法然を慕った湛空達が再興した寺であり、1227年の嘉禄の法難後に専修念仏の中心は知恩院、知恩寺や金戒光明寺ではなく二尊院であった、禅宗の言う「仏性に南北なし」と言うべきか、ましてや二尊院には著名な「
十九世紀まで四宗兼学の寺であったが多くの帝の戒師を務め、禁裏の仏事を司る「黒戸四ヶ院」(注3)の1寺を務めていた為の建前とも思惟される、重ねて言えば二尊院は法然の弟子である湛空・叡空が中興した寺であり浄土宗に強い影響力がある、故に二尊院は東山大谷に存在した法然妓堂が知恩院として興隆するまでは百年以上京都に於いて法然信仰の拠点であった寺である、さらに比叡山による法然の廟あらしから逃れた法然の遺骨が埋葬されたとも言われる二尊院に於いての天台回帰である、また法然は生涯に於いて比叡山から強烈に敵視された僧である、法然は七箇条制誠を創るなど回避に努めるが「住蓮・安楽事件」と延暦寺の僧兵達から受けた「嘉禄の法難」等で苦難を味わう。
九条兼実、慈円兄弟(注1)と法然・親鸞との関わりを考慮しても日本人の仏教教義に対する希薄さの最たる例かも知れない、最大の世界宗教、キリスト教で言えばパウロの墓所(バチカンのサンピエトロ大聖堂)をイスラムに譲渡したり、敬虔なプロテスタントがマリア像を崇拝して平伏す様な、不可思議で、絶対にあり得ない形態を連想する。
二尊院は法然上人二十五霊場の17番札所でもある、また境内の堂の中に「空公行状碑」と言う二尊院を中興した湛空の石碑が在る、これは北宋の梁成覚と言う石工に依るものである。
祖師像に付いて梅原猛氏に依れば他の祖師の御影像は1~2種類から模写されているが法然の場合は多数あると言う、二尊院には「流罪の旅」に出る姿、叡山の法然堂の像、白河法皇に「往生要集」を説いている知恩院の像、知恩寺には「大原問答」に参加した像など多様であると言う。
二尊院は公家達の仏事を担当する”御黒戸四ケ院”の一院として権威を示していた、因みに御黒戸四ケ院とは *
宗派 天台宗 所在地 京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27 ℡ 075-861-0687
●阿弥陀如来 木造 漆箔 78.8cm 鎌倉時代 阿弥陀如来 釈迦如来
●法然上人画像 絹本著色
●三条西実隆像画 絹本著色
●法然上人七ヵ条制法・蒔絵箱
●浄土五祖像画 絹本著色 浄土五祖とは曇鸞・道綽・善導・懐感・小康の宋国の五僧を言う。
●十王像画 絹本著色
●釈迦三尊像画 絹本著色 他
2007年12月29日更新 2011年7月22日加筆
注1、 九条兼実(かねざね) 平安末期の公卿、藤原北家の嫡流忠通の三男、天台座主を四度務め若き親鸞に得度を与えた慈円の実兄、1160年非参議・1164年内大臣・1166年右大臣・源頼朝に接近1191年関白となる、1202年出家し円証と名乗る、念仏信者で法然の最大の理解者、五摂家の内、直系の子孫が二条家・一条家を起こし九条家と共に五摂家での勢力を強めた。
注2、 五摂家とは 鎌足を祖とし不比等に引き継がれ長く朝廷を支配した一族で歴代天皇の外戚を続け日本史の中でも藤原時代の名称まで残し天皇家に次ぐ名門。
不比等の子供達の系列から凄惨な確執を繰り返した後10世紀(藤原時代)には藤原武智麻呂(むちまろ)の南家に対して藤原房前(ふささき)の北家が覇権を持つ、鎌倉時代に五摂家に別れ近衛基実から・近衛家・鷹司家、 九条兼実から・九条家・二条家・一条家となり摂政関白を独占する、中でも近衛家が覇権を所持していたが頼朝追討宣旨で失脚し九条家と覇権を分け合う。
傍系に久我・醍醐・今出川・姉小路・山科・花山院・広幡・三条・西園寺・徳大寺・難波・飛鳥井・冷泉・坊城・日野・烏丸・大炊御門・中炊御門・観修寺等があり本来は全て藤原姓である。
五摂家による禁裏支配制度は後醍醐天皇の御世を除き明治維新まで継続した、1884年に華族令により廃止になり五摂家は華族筆頭として公爵位を授けられた。藤原不比等とは鎌足を父に宮廷歌人額田王と同一人とも言われる鏡王を母に持ち大宝律令・貨幣経済・成文法等を導入して藤原一門の千三百年にわたる栄華の礎を築く。
注3、御黒戸四ヶ院 宮中の葬儀を含む仏事を司る盧山寺・般舟三昧院(はんじゅ)・遣迎院・二尊院を言う、黒戸とは黒戸の御所の略称で清涼殿の北面の場所で禁裏を意味する。