本願寺

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1262年親鸞の没後に東山大谷に墓所が設置されたのを嚆矢とする。
1272年親鸞の末娘の覚信尼が38歳の折り関東に於ける門弟たちの援助で自身の住居に廟堂を建て親鸞影像安置し留守職に就く。
後二代留守職は覚信尼の子覚恵を三代は覚恵の子覚如が継承した。
覚如が出たので、親鸞の実在を疑問視する説を覆し存在を知らしめた書として、覚如が詞書(ことばがき)を書いた伝絵が三組存在している、*善信聖人絵(琳阿本)(りんなぼん)()*善信聖人親鸞伝絵(高田専修寺本)(せんじゅじぼん)、 *本願寺聖人伝絵康永(こうえい)本)、がある。 
覚如は廟堂を寺院とすることを計画、浄土宗との関係から名称も専修寺から本願寺に変更するなど紆余曲折を経ながら蓮如の時代に大躍進を果す、寺名の根拠はは十三世紀に廟堂に対して亀山天皇から「久遠実成阿弥陀本願寺」と下賜された事に始まる
七条堀川の本願寺
(西本願寺)と烏丸の真宗本廟(東本願寺)の両寺があり、西は浄土真宗・本願寺派を名乗り、東は真宗・大谷派を名乗る。合わせて寺院数約2万1千・信徒数約千三百万人を超える大教団である。
沿革は仏教浄土真宗親鸞編で述べているので繰り返さない、但し最大の特徴は何処も”絶対他力”である。
宗主親鸞は偶像崇拝を否定する処から見るべき仏像は存在しないが、国宝指定の文化財には観るべき作品が多くあり鎌倉時代の作品で紙本墨画・親鸞聖人像をはじめ12点の国宝・25点の重要文化財を持つ。建築物には狩野探幽のタイプの違う障壁画を持つ白書院や黒書院など貴重な文化財を残しているが、烏丸通に東面する東本願寺は北に大師堂・南に本堂を配置されており1895年に再建された為文化財指定は無いが、御影堂(ごえいどう)大師堂東大寺の大仏殿に次ぐ規模であり、寺の持つ文化財として親鸞の真筆とされる国宝の「教行信証」は歴史的にも貴重な財である、閑話休題、御影堂であるが東西本願寺では「ごえいどう」と発音されるが他寺では「みえいどう・みえどう」と発音される宗派が多い、閑話休題、親鸞の師法然の記述であるが、お東では法然上人と書き、お西では法然聖人と記述される(親鸞六の顔---- 大澤絢子 筑摩書房)
伽藍配置は東西ともに通常の寺院と異なり正面南に大師堂を北に本堂が廊下で接続されて横に配置するのが真宗寺院の形式とされる。特に大師堂は宗祖親鸞をまつる真宗の中心的な建物で本堂より広く、信徒の入る空間を重要視されている。
本願寺の名称由来として大無量寿経48願の内、第18願を王本願と言い、「十方の衆生が阿弥陀如来の浄土に入る事を念じて南無阿弥陀佛を念ずれば往生を遂げさせる」この請願から本願寺と言はれる。(念仏往生之願 設我得佛 十方佛 十方衆生 至心信楽欲生我国至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法)
建築としては西本願寺の飛雲閣(ひうんかく)(最後尾に写真掲載)が卓越しており非対称の日本建築美の到達点と言える作品で、京都には京都五閣とも言われる名建築があり、京都三名閣と言われる鹿苑寺の金閣 ・慈照寺の銀閣 ・西本願寺の飛雲閣に ・大徳寺呑湖閣(どんこかく) ・東福寺伝衣閣(でんねかく)を加えた名閣を言う。
因みに
滴翆(てきすい)(えん)と言う庭園の滄波(そうろう)()に隣接する飛雲閣の初層は(しょう)(けん)殿(でん)・八景の間・茶室・船入(ふないり)の間など、二層目は歌仙のの間、三層は茶室(てき)星楼(せいろう)、外観には初層が唐破風と入母屋、二層目は寄棟千鳥破風、三層目は宝形造、と多様を極めている
仏像に願しては東西とも指定を受けた然したる像は無いが、定朝の子孫を自称する田中紋阿・文弥親子による1879
(明治12年)作の木像、釈迦三尊像が東本願寺大門に安置されている。
親鸞を開祖とする寺院に東西本願寺・仏光寺・専修寺等を含め日本最大の信者を有する宗派であるが、宗派の呼称は真宗とか浄土真宗などフランクに呼ばれているが浄土真宗は西本願寺の宗派名であり、真宗は東本願寺と仏光寺・専修寺等九派の名称である、本来は真実の教えと言う意味であり宗派名では無かった、しかし法然の教義を更に進めて大乗仏教の終着点とも言える浄土信仰を完成したと言える、通常呼ばれている寺名は東本願寺・西本願寺であるが正式名称は、お西(浄土真宗本願寺派)は本願寺であり、お東(真宗大谷派)は「真宗本廟」と言う。

親鸞と蓮如の相違に付いて述べれば親鸞が用いていない宿(しゅく)(ぜん)開発蓮如重要視であろう親鸞悪人蓮如現世積めと「文章」強調てい
因みに宿善とは宿世すなわち前世過去の世を意味する、「宿善」の語は、浄土三部経や親鸞の著作には記述がない、但し源信の往生要集・唯円の歎異抄・蓮如の正信偈大意・御文、等々に観られるが「宿善」の解釈は、真宗連合の内部でも異なる。


閑話休題世界の宗教の共通点としてインドを起源とする数珠がある、東西本願寺付近は仏具等を扱う店が軒を連ねるが、中村始著、般若経典に依ればインドに於いては数珠はジャパマーラー
(japa-mālāと言い、japaは念誦を意味しmālāは輪を意味すると言われる、古代ローマ人などがjapaをジャッパー(バラ)の輪と聴いたと言う、これがロザリオ(ポルトガル語rosario)・ロザリウム(ラテン語rosarium)・ローザリー(英語rosary)・ローゼンクランツ(ドイツ語rosenkranz)などキリスト教国やイスラム圏に広がったとの記述がある。
仏教では「木槵子経(もくげんじきょう)」と言う数珠の効養を説いた経典があり、木槵子(むくろじ)の実を108個束ねて環を作り安寧や安楽の祈願に使用する様に記述されている,イスラムではタスピーフと言い99個を環にしている。

浄土真宗に行は無いとされるが、大谷派(東本願寺)では坂東曲(ばんどうぶし)と言う行的な行事がある、これは親鸞が流罪の折に荒波に晒される中で念仏を唱え続けた姿を具現し、体を揺らしながら念仏する行である、閑話休題、女性の信仰に対する篤さの証明に東本願寺にある毛綱に観られる、網が切れて資材運搬に難儀するや、女の命とも言える黒髪を切り、径13mm 長さ100㍍以上の黒髪ロープ(毛網)を53本も寄進した、一向一揆も、信長軍との石山攻防に於いても女性群の力なしには不可能であった、と思惟できる。


蓮如が建立した山科本願寺跡には堀と浄土真宗本願寺派と真宗大谷派(長福寺)の別院が建てられている、当時築かれた城壁すなわち土塁跡は山科中央公園となる。


東西本願寺には親鸞を祀る廟所があり、所在地は下欄に記述した。 


真宗 浄土真宗
     浄土三部経  ・阿弥陀経(鳩摩羅什訳) 観無量寿経畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)大無量寿経(こう)(そう)(がい)



所在地
本願寺  
(西本願寺) 京都市下京区堀川通花屋町下ル   ℡ 075371-5181   宗祖の廟所 大谷本廟(西大谷) 東山区五条橋6丁目514  ℡ 075531-4147
真宗本廟
(東本願寺) 京都市下京区烏丸通七条上ル    ℡ :075-371-9181   宗祖の廟所 大谷祖廟(東大谷) 東山区円山町477       ℡ 075561-0777
全国各地に東西の別院がある、お西は浄土真宗本願寺派○○別院、お東は真宗大谷派○○別院と地名を入れて呼称する、但し通称は西別院・西御坊さま---東別院・東御坊さま等と呼ばれている。

*浄土真宗と言う用語に対して親鸞が嚆矢ではない様で、宗派と言う解釈(特に本願寺派)だけでなく、「死後浄土へ往生できる為の教え」と解釈すべきである。

  

国宝の書

西本願寺  三十六人家集  ・無量寿経註(親鸞筆)  ・阿弥陀経註(親鸞筆)  ・阿弥陀経註、

東本願寺  教行信証(親鸞筆、坂東本六冊)


 本願寺の文化財

 寺   名

名   称

  

  

備考

構  造

屋  根

時  代   

 西本願寺(本願寺)  

 親鸞聖人像 

紙本

墨書

   

  

 

桃山時代

 仝    上

 黒書院

21,5

14,0

   

寄棟造

柿 葺

江戸時代

○ 

仝   上

 白書院

38,5

29,6

  

入母屋造

 本瓦葺 

江戸時代

○ 

仝   上

 北能舞台

1

1

一重

入母屋切妻

桧皮葺

桃山時代

○ 

仝   上

 伝 廊

4

2

 

両下造

柿 葺

江戸時代

○ 

仝   上

 唐 門

    

 

四脚門

唐破風

桧皮葺

桃山時代 

○ 

仝   上

 飛雲閣

25,

13,3

三重

 

柿 葺

桃山時代

 仝   上

 36人家集

  

  

  

 

 

 

 仝   上

 無量寿経註

  

  

 

 親鸞筆

 

 

 仝   上

 阿弥陀経註

  

  

 

 親鸞筆

 

 

 仝   上

 熊野懐紙

  

  

 

  

 

  

○  

東本願寺(真宗本廟)

 教行信証

 29,7 

 25,9 

坂東本6冊

 親鸞筆 

   

   鎌倉時代

西本願寺(本願寺) 

親鸞・如信・覚如三上人像 上583 

聖徳太子像 絹本著色 掛幅装 1095435cm 鎌倉時代 

善信聖人絵 紙本著色 巻子装 上巻32112480cm 下巻32117640cm 鎌倉時代 

慕帰絵(ぼきえ)十巻 紙本著色 巻子装 32098101425cm 南北朝時代  

●梵鐘 H158.2cm R106.0cm  藤原時代(1150年) 龍頭破損木製で後補 当初は広隆寺所蔵

東本願寺(真宗本廟)  

親鸞上人像(安城御影)絹本著色 掛幅装 128,541,0cm  鎌倉時代 

本願寺聖人親鸞伝絵 紙本著色 巻子装 四巻 40,61089,0cm 南北朝時代  

本願寺聖人伝絵 四巻 紙本著色 巻子装 41,81494,0cm 南北朝時代

●一念多念文意  紙本 26,2cm×18,3cm 鎌倉時代  親鸞筆

阿弥陀堂(本堂) 桁行梁間5間  入母屋造 本瓦葺 江戸時代 

大師堂 桁行7間 梁間9間 入母屋造 本瓦葺 江戸時代

鐘楼 桁行梁間1間 一重 切妻造 本瓦葺 江戸時代

浴室 黄鶴台 桁行5間 梁間4間 一重 寄棟造 柿葺 桃山時代 

玄関・波間 虎間 太鼓間 江戸時代 

能舞台 桁行梁間1間 一重 切妻造 桧皮葺 江戸時代

1本願(プールヴァ・プラニダーナ・pūrva-praidhāna)とは宿願と言い、如来や菩薩が発てた願を言い、利他行の実践を基本とする。
釈迦の前世に於ける善行動を物語化した本生譚(ジャータカ、ātaka)が嚆矢とされるが、インドには四弘請願と言う熟語はない、中国に於いて起こり日本の浄土教で重要視されている。


2、  四弘誓願(しぐせいがん) (本願の梵語sāmānya-praidhā) 釈迦の前世に於ける善行動を物語化した本生譚(ジャータカ)が嚆矢とされるが、インドには四弘誓願は言われていない、中国に於いて起こり日本の浄土教で重要視されている、本願(誓願)とは総ての菩薩が上を目指す必須科目で目的を誓願する事である、誓願を成就する事で如来となる。
誓願には総願と別願がある、四弘誓願とは総願とも言い菩薩が覚者となる為の必須科目で以下の様になる
、菩薩の共通項としての四弘誓願は総願の範疇に入る、また別願は菩薩達が個々に建てた誓願を言う。  
四弘誓願は以下の様になる。

総願 ・衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) 一切衆生の救済   煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんど) 煩悩を絶つ   法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく) 法門(仏法)を学ぶ    仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) 修行し成道を誓う、 とされる。
     別願の例を挙げると、阿弥陀如来の四十八誓願  薬師如来の十二誓願  普賢菩薩の十大願などを言う。


注3、本願寺の呼称は
阿弥陀如来の四十八誓願に由来しており、本来は浄土真宗だけのものではない。
   浄土真宗と言う用語に対して親鸞が嚆矢ではない様で、宗派と言う解釈(特に本願寺派)だけでなく、「死後浄土へ往生できる為の教え」と解釈すべきである。


4、白骨の御文  「それ人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたってたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといいえり。されば(あした)には紅顔(こうがん)ありて(ゆう)べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、ふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、桃李あるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれなり。あわれというも(なかなか)々おろかなり。されば人間のはかなき事は、老少不定さかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をたのみまいらせて、念佛もうすべきものなり。あなかしこ あなかしこ。」 (浄土真宗の基礎知識 大宝輪閣より)

*本願寺八世蓮如が詠んだ御文で人間の無常観を読んだ文である、鎌倉時代の真宗学者存覚が残した「存覚法語」を基に制作された。 

           

*京都と言う処は斬新な作を残すことに貪欲なエトスを所持している様だ、京都タワーを初め(京都のランドマーク(landmark))・京都駅舎、等々を指すがビートルズを生んだ英国と共通点が感じられる、本願寺さんのお蝋燭である。

                         
          ”本願寺さんの お蝋燭” 真宗本廟(東本願寺 手前は鐘楼)御影堂付近より。   本願寺(西) 飛雲閣



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