法界寺

                              仏像案内     寺院案内     空海      佛師

 
法界寺の山号は東光山と言い藤原一門(注1、参照)の末流で北家の流れをくみ儒学・歌道をよくした日野家の菩提寺である、過日はこの付近は藤原摂関家の墓地や関連遺跡等もあり牙城でもあった、また奈良と京都を往来の道すがら東大寺興福寺との関係も密であった、因みに寺名の「法界」であるが華厳経の最終品に経典の核心と言える「入法界品」がある、法界とは梵語でダルマ ダイトウdhárma と言う様で「真理の世界」「法の要素(3)」を意味する、本質的な姿すなわち真如(しんにょ)とも言う。
京都市郊外も都市化が進んでいるが、法界寺はまだ鄙びた風合いを残す中で、かっては栄華を極めた藤原一門のプレステージ(prestige 維新 威光) を見る思いのする寺である。
1世紀中期に日野資業(すけなり)が山荘を寺に改装し薬師堂にしたとされる、この寺に最澄の自刻で円仁伝来とも伝えられる日野家の至宝・三寸程の仏像鞘佛(さやぼとけ)として体内に収めた本尊薬師如来が安置されている事から・「日野薬師」・「乳薬師」などと呼ばれており、総本山の醍醐寺が至近距離に存在し、現在に於いても薬師堂に涎かけを奉納して安産・授乳・子授け祈願で賑わいを見せる。

法界寺の阿弥陀如来像は阿弥陀には稀少と言える密教像である、光背は中心部は二重光背である、定朝様であるが平等院の像とは対照に、やや柔和なイメージを持つ丈六仏で阿弥陀浄土美術の豊富な平安時代に於いても傑作の尊像である、当寺の阿弥陀如来が結ぶ上品上生印を最高の往生を示すと言い「力端印(りきたんいん)」とも言う、この阿弥陀像は親鸞の幼少時からの念持仏であったとされる。
阿弥陀堂は1221年承久の乱で焼失するが1226年頃には再建されている、栄華を極めた藤原一族の持仏堂に相応しい建築で四天柱には金剛界曼荼羅の64尊や宝相華唐草が柱絵として描かれ、内陣の20面に壁画も阿弥陀如来や飛天などが描かれ復建時の優雅さが感じられる。

日野家は五摂家の末流であるが室町幕府に於ける歴代の将軍に正室を送り繁栄を極めた、一族の氏寺として定朝を初め院覚や康助の作になる丈六佛を安置した阿弥陀堂・薬師堂・観音堂・五大堂・弥勒堂等多くの堂宇を持ち隆盛を見たが鎌倉時代の火災と室町時代の兵火により平等院鳳凰堂と共に浄土教芸術の傑作とされている阿弥陀堂一宇を残して悉く失う。
寺は衰退を見せるが江戸時代に入り親鸞が日野家出身と言う事から宗祖の生誕地として本願寺が復興に尽力し現在でも真言宗の寺ではあるが阿弥陀堂の復建には法然の弟子聖覚(11671235)が関与しており、旧境内に親鸞の「えな塚」や「産湯井戸」「日野誕生院(日野別堂)」があり浄土真宗門徒の聖地の一つとなっている。

また法界寺のポイントを言えば、現在は真言宗醍醐派の寺であるが、薬師堂に安置される本尊・薬師如来は秘仏で最澄自彫と伝えられる薬師像が施入されていると伝承される様に最澄か円仁の流れがあり創建時は天台宗の寺であった、閑話休題法界寺には南都焼き討ちの張本人とされる若き公達(きんだち)・平重衡(しげひら)(1156年^1185)の遺体を荼毘に付した所でもある。 
元旦から五穀豊穣・所願成就などの修正会が続けられ結願日114日の裸踊で知られる。
西国薬師
を巡礼する霊場に薬師如来を本尊とする49ヶ寺が参加しており、法界寺は三八番札所となっている。                        

真言宗醍醐派     所在地    京都市伏見区醍醐日野西大道町     ℡ 075-571-0024  
                   
 法界寺の文化財     表内は国宝    印重要文化財

     名       称

           適                   用

   時    代

  阿弥陀堂

 桁行き5間 梁間5間 裳階 宝形造 桧皮葺き

  平安時代

  阿弥陀如来坐像

 木造漆箔 280,0cm  定朝様  飛天光光背

  平安時代

薬師堂(法界寺本堂)桁行5間 宝形造 拝観否 桧皮葺 室町時代   奈良伝燈寺より移築  

薬師如来立像 木造 88,8cm 藤原時代   本尊 秘仏

十二神将像 木造彩色 玉眼 61,6~78,9cm 鎌倉時代 秘仏 

●内陣壁画   

1, 藤原摂関家(五摂家) 鎌足を祖とし不比等に引き継がれ長く朝廷を支配した一族で歴代天皇の外戚を続け日本史の中でも藤原時代の名称まで残し天皇家に次ぐ名門。
不比等の子供達の系列から凄惨な確執を繰り返した後10世紀(藤原時代)には藤原武智麻呂(むちまろ)の南家に対して藤原房前(ふささき)の北家が覇権を持つ、当初は近衛家と九条家が覇権を競っていたが鎌倉時代に幕府の力で五摂家に別れる、近衛基実から・近衛家・鷹司家、 九条兼実から・九条家・二条家・一条家となり摂政関白を独占する、中でも近衛家が覇権を所持していたが頼朝追討宣旨で失脚し九条家と覇権を分け合う。
また藤原姓は橿原市高殿町付近の地名からともされる。
傍系(閑院家など)に日野三条・久我・醍醐・今出川・姉小路・山科・花山院・広幡・西園寺・徳大寺・難波・飛鳥井・冷泉・坊城・烏丸・大炊御門・中炊御門・観修寺等があり本来は全て藤原姓である。
五摂家による禁裏支配制度は後醍醐天皇の御世を除き明治維新まで継続した、1884年に華族令により廃止になり五摂家は華族筆頭として公爵位を授けられた。
藤原不比等とは鎌足を父に宮廷歌人額田王と同一人とも言われる鏡王を母に持ち大宝律令・貨幣経済・成文法等を導入して藤原一門の千三百年にわたる栄華の礎を築く。


2、鞘佛 仏像の胎内に小規模の仏像を施入された外の仏像を言い現在も厨子に納め秘仏とされる像が多い。

注3、法の要素は十八界あると言われる、まず十二処に六根すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意と、その対象となる六境の色・声・香・味・触・法がある、十二処に識すなわち眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識が加わり十八界となる。  六根+六境+六識≂法界  

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2006115日注2、他2017年5月4日 2022年3月26日 4月7日加筆

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