鞍馬寺

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 鞍馬寺は標高570mの山中にあり加茂川の源流に近くに位置する、寺号を「松尾山金剛寿命院」と言い、創建の由来於ける伝承が数件交錯している、鞍馬(あんば)(がい)寺縁起に依れば七百七十年唐招提寺の鑑真の弟子である鑑禎(がんじょう)が開祖とされる、後の七百空九十六には造東寺長官で南家の藤原伊勢人が堂宇を創建し、寛平年間(889〜897年)には教王護国寺の峯延(ぶえん)が入寺して真言宗寺院となるが、十二世紀に天台宗に改宗以後、青蓮院の傘下にあった頃に鞍馬寺と称したと伝えられるが桓武天皇が平安京に寺院建立を制限した時代と重なる為に定かでは無い、但し千九百四十九年には、天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となる
観音菩薩
を山の中に安置する信仰は古く、奈良時代頃から存在したとも言われる、前述の藤原伊勢人
(注5も武智麻呂の追悼に関係がある為か観音信仰に敬虔であったとされる。
空華(くうげ)
の萬行
(注7を修すと言う観音の行は「坐水月道場 修空華萬行(くうげまんぎょうをしゅうす)(水月の道場に坐し)」即ち観音の無限の慈悲を行い跡を留めない水月・空華にあるとされる。
寺の興りは護法魔王尊の霊山として修験者や私度僧達の観音信仰や密教呪術の聖地であったらしく境内はおびただしい堂宇が立ち並び十院九坊と言われる賑わいを見せたと言う、
近世の寺領は220石あまりであった様であるが創建以来六度も火災に遭う、現在の本殿金堂は1971年の再建である、因みに空華とは煩悩に霞んで真実があると錯覚する事を言う
鞍馬寺の本尊毘沙門天
(四天王とセットの場合は多聞天と呼ばれる)観音菩薩の配偶者とも同尊とも信仰され、観音信仰が盛んになる800年前後とも言われる、創建当初からの本尊・多聞天は四天王の内の北方の守護神であり平安時代初期説も否定は出来ない、即ち鞍馬は平安京の鬼門に当たり、その守護神として毘沙門天が信仰されたと言える。
鞍馬弘教の特徴は尊天信仰にある、・毘沙門天・江戸時代の作の千手観音・毘沙門天、さらに新しい護法魔王像が前仏である、これら三尊を鞍馬寺では宇宙活力の根幹を意味する「尊天」と呼び本尊としての扱いである、鞍馬弘教と言う宗派を形成し三尊
(身)一体の本尊として重要視されている、因みに一尊に集約された尊天とは毘沙門天、千手観世音、護法魔王の三尊を言う。
毘沙門天は通常は多聞天として四天王の一尊として奉られる事が多いが、独尊や脇侍を従える仏像を持つ代表的寺院である。
鞍馬には経塚が相当数発見されているが、末法時代
(平安初期)の始まりは弥勒信仰の高揚から吉野金峯山寺まで足を踏み入れて埋経されたが、平安後期には近距離の鞍馬や花背(左京区・若狭街道)に移され埋経された様である。 

鞍馬寺では620日に「竹伐り会」と言う伝承に因んだ特異な法会があり境内にある「閼伽井(あかい)護法善神」と言う社とも関連するようだ。
地名は枕草子に「鞍馬のつずらおり」として現れているが、昼間も暗いことから闇山から鞍馬と言われたともされる、丹波から若狭に抜ける街道がある京都市街地から12km北の山中に存在する、近くに貴船神社もあり1929年に京都バスや京福電鉄鞍馬線も開通しており交通手段はそれほど不便ではない。
創建当初は真言宗の寺であったが当寺の10キロエリア内に延暦寺三千院来迎院・勝林院等があり天台宗の牙城ともいえる土地柄から、平安時代末期
(959年)天台宗に改宗し延暦寺の末寺となるが、このエリア内の貴族的な天台寺院とは一線を隔しており庶民的な寺であり、貫主信楽香雲師の時すなわち1947年10月に鞍馬弘教(くらまこうきょう)として独立する。

京都人から「鞍馬さん」と親しまれる鞍馬寺は源氏物語や牛若丸伝説で著名であり、
毘沙門天の信仰が広まると鞍馬御師・願人坊主と呼ばれる法師達が、本尊のご利益や仏等を広め、鞍馬信仰は今昔物語・扶桑略記を初め謡曲・歌舞伎・浄瑠璃・浮世草子と共に大衆に根着いた、しかし当寺の存在価値は保存される文化財に貴重な作品が多く存在する事にある。
鞍馬寺では旧来から毘沙門天の寺であり、平安京の北方を守護する毘沙門天
(国宝)は脇時に吉祥天善膩師童子(ぜんにしどうじ)を従える特異な三尊像や鞍馬経塚の出土品が注目される。
また肥後の法眼別当・定慶の作とされる聖観音菩薩立像は我が国に多く存在する観音像中の傑作と言える。
伽藍は過去六度も火災に遭い文化遺産的な堂宇は存在しない、現在は・本殿金堂・仁王門・勅使門・転法輪堂・不動堂など全て近年の建造である。
また霊宝館等には毘沙門天の寺と言われる様に複数の尊像、聖観音菩薩、等の傑作文化財の他に明治後半から昭和初期に活躍した情熱の閨秀歌人(けいしゅうかじん)与謝野晶子の記念室もある、また十年間鞍馬で過ごしたとされる義経伝説は多くあり、大佛(おさなぎ)次郎の小説・鞍馬天狗などで知られている。 
鞍馬寺は六月二十日に行われる「竹伐り」すなわち農作物の豊凶を占う「蓮花会(れんげえ)」は豪壮と言えよう。                           

鞍馬弘教(くらまこうきょう)
・総本山           所在地    京都市左京区鞍馬本町1074   п@075741-2003              

鞍馬寺の文化財     表内は国宝   ●印重要文化財

名       称

適               用

時   代   

毘沙門天立像

木造((とち))素地 175,7cm

藤原時代

吉祥天立像

木造(桧)  素地 100,0cm 毘沙門天脇侍

藤原時代

善膩師童子立像

木造(橡)  素地  95,4cm 毘沙門天脇侍

藤原時代

経塚遺物

懸佛(かけぼとけ)(観音菩薩 9,4×7,2) 銅水瓶 石宝塔 扉 等 

藤原時代

経塚遺物

経筒銅造 28,4cm  

藤原時代

経塚遺物

 経筒銅造 41,0cm

藤原時代

経塚遺物

金銅三尊像 銅像 中尊24,4cm右脇侍22,9左脇侍21,7cm

藤原時代


観音菩薩立像 木造彩色 玉眼 176,7cm 鎌倉時代   肥後の別当・定慶作 


兜跋(とばつ)毘沙門天立像 木造彩色 167,3cm 藤原時代 等 毘沙門天・丙虎年開扉  鎮守夜叉毘沙門天 


●燈籠 銅鋳造 231,2cm 鎌倉時代 1258年の銘 

●剣 黒漆塗 刃渡り76,0cm


●鎮守由岐社拝殿 1610年(慶長15年) 鞍馬寺最古の社 


注1、善膩師童子、毘沙門天の子供であり吉祥天は毘沙門天の妻である為、鞍馬寺と同形式の三尊像は多い。

2、兜跋 中国の故事に倣い王城鎮護の為に造像されたもので吐蕃(とばん)現在のチベットであるが当時は中国を意味していた、またコートを身に纏うと言う意味もあるという。

注3、私度僧 当寺の僧は国の認可を受けた公務員であったが、無許可で剃髪して僧を名乗った人たちを言う、しかし私度僧は空海以前の密教経典や古代からの信仰を断片的に使い佛教が民衆の為の宗教として発展するフロンテア的存在でもあった。

4、 鞍馬寺の司祭に
豊作祈願祭が620日  鞍馬の火祭(京都三奇祭)が1022日 等がある。

5
 藤原伊勢人 藤原南家・巨勢麻呂の子、平安初期の官僚・従四位上・治部大輔、観音信仰に篤く鞍馬寺の伽藍を構築したとされる、伊勢人の霊夢伝承から観音菩薩・毘沙門天・護法魔王を三位一体的に遇して尊天と呼んでいる、桓武天皇の命を受けて東寺造営の長官を務めた、 生没年不詳。

6、護法善神 仏法の守護神で ・帝釈天 ・梵天 ・四天王 ・十二神将等々の総称を言い主に:天部に属している。

注7、
空華(くうげ)の萬行を修すと言う観音の行は「坐水月道場 修空華萬行(くうげまんぎょうをしゅうす)(水月の道場に坐し)」即ち観音の無限の慈悲を行い、跡を留めない水月・空華にあるとされる。

空華とは煩悩からの妄想をいう、即ち濁り眼で空を見ると華のように見える。  萬行とは84000の細行。  水月道場とは現世が仏法の道場である。


最終加筆日2004107日  2005年11月11日、本文、注1に一部注3、4  2011311日埋経関連 2012221日注6 2012年9月17日本尊 加筆 

 

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