東寺 教王護国寺

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東寺公式サイト   寺院案内    仏像案内    密教    真言宗   世界文化遺産   羯磨曼荼羅


羅城門(らじょうもん)を挟んで西寺(消滅)と共に平安京のファザードfaçade即ち表玄関を構成したのが東寺である、教王護国寺は823年嵯峨天皇から空海が下賜される、当初は金堂が建立された程度で未完成の寺域を授かり真言密教の根本道場としたのを嚆矢とされる。
東寺と教王護国寺二つの寺名で呼ばれているが、明治以降は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」略して教王護国寺が正式名称である、通称呼ばれている”東寺”は平安時代の”官立寺院”時代すなわち羅城門を挟んで東寺・西寺時代の正式名称である。 
南都寺院の各宗兼学の寺から最初に独立した宗派
(真言宗)の寺である、平安遷都以前の京は渡来人の開拓地であるが、水は清く緑濃い山背(やましろ)盆地(ぼんち)風光(ふうこう)明媚(めいび)山紫水明(さんしすいめい)にして陰陽道(おんみょうどう)から観れば風水に合致した四神相応(しじんそうおう)の地である、東寺は西寺と共に羅城門を挟む位置からして当初は外国の使節を遇する鴻臚館と呼ばれる迎賓館であったとも言われている。 
京都の駅舎からまず目に入るのが日本で最高の塔高
54,8mを誇る東寺の五重塔1644年再建)である、古都・京都のランドマーク
landmarkとしての存在感は京都タワーや八坂の塔法観寺を遥かに凌いでいる。 
”弘法さん”で親しまれる「金光明四天王教王護国寺伝法院」すなわち東寺は、観賢により大師の命日とされる21
(御影供)の賑わいは観賢に依るもので京都の風情を象徴する一つである、観賢は平安後期に朝廷から距離のあった東寺が衰退に向かう時、後白河法皇の六女・宣陽門院(せんようもんいん)をバックに空海の弘法大師拝命に尽力するなど真言宗再興と真言宗の扶植(ふしょく)に尽力した。 
東寺も創建以来1486年の土一揆をはじめ何度も兵火や天災に遭い衰えた時期もあるが、時の権力機構の鎌倉幕府・前身は真言の山岳修行者であった後醍醐天皇・宣陽門院
(後白河帝の皇女)・八幡神を信仰した足利尊氏(東寺・鎮守八幡宮の保護)・大和を支配した豊臣秀長・徳川幕府などの援助でその都度寺観を整えられた、また仁和寺醍醐寺など真言宗寺院の皇室との絆を下に活動が盛んになり衰えた時は神護寺の怪僧・文覚やこれを支えた宣陽門院の活躍で中興する。
東寺は796
(延暦15年)西寺と共に羅城門を挟んで外国の使節を遇する鴻臚館(こうろかん)として着工されたが完成を待たずに空海に下賜された様である、民間即ち真言宗に下賜された東寺は残り、国有施設の羅城門・西寺は現在では存在しない、但し東寺も伽藍建立の進行は著しく停滞しており「造東寺長官」が頻繁に交替していた時期に空海が指名され進捗が進んだ後に賜ったとの説がある、金剛峯寺が真言宗と言うより空海の私的寺院であるのに対して、東寺は真言宗の公的寺院として建立されたと考えられている。
正式名称として現在は教王護国寺とされているが、元来は西寺と羅城門・朱雀大路を挟む形で796年頃に建立された寺で平安時代以来長期に亘り東寺が正式名称とされていたが823年空海に下賜されて「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」を正式寺号とした、但し下賜された寺は顕教寺院の伽藍配置で本堂と僧房が存在する程度の未完成伽藍であった、本来西塔が置かれるべき位置に密教伽藍として不可欠な灌頂院を配置している、密教寺院の象徴である多宝塔は建設される事は無かったが五重塔内部に密教寺院としての細工を見ることが出来る。   
また御所から見て朱雀大路の左側に在る為に左寺とも呼ばれていた,また教義上からか金光明四天王教王護国寺秘密伝法院とも言われる、因みに桓武天皇の時代までは通常の寺院ではなく鴻臚館
(寺)と呼ばれる迎賓館的な建造物を嵯峨天皇の時代に寺院としたと言う説が有力である。
823
年嵯峨天皇より拝領された空海は真言密教に二面性を考えていた様子で山岳型の高野山・金剛峯寺と共に都市型で純粋な真言宗の研修道場及びショーウインドウとして発展させた、この二面性は留学した長安に学んで類似性を求めたのかもしれない、東寺は比叡山と共に皇居を鎮護する双璧として繁栄の道を歩んだ、但し比叡山は奈良佛教を継承した様な四宗兼学であるが東寺は密教による真言宗の単独寺院である、因みに拝領の勅使は空海と刎頸(ふんけい)の交わりとも言える藤原北家の統領・冬嗣(ふゆつぐ)の一子良房であった。
発足当初は綜藝種智院などによる教学・皇室関係の加持祈祷や比叡山と共に王城鎮護を行う官寺的な活動が多く本来の布教活動が盛んになったのは鎌倉時代になってからとされる。
伽藍の造営は796年桓武天皇の時代に始められ、「東宝記」に依れば当初は金堂一宇であり未完状態で嵯峨天皇から拝領したものであるが完成までは90年近い歳月を要し五重塔が完成し主要伽藍が整備されたのは885年である。
南大門から見て金堂・講堂・食堂と北へ直線に伸び東に五重塔で、西塔があるべき位置に灌頂院を配置した以外基本的には南都佛教、特に興福寺の伽藍配置を踏襲しているが密教寺院とする為に西塔の位置に灌頂院が立てられた、金堂の本尊が薬師如来・三尊であるのは桓武朝の名残かもしれない、しかし東寺の場合は日光・月光菩薩の配置と共に像高1m未満の十二神将が本尊を支える形態は不空訳の「薬師如来念誦儀軌」に忠実である。
創建当初の堂宇はなく鎌倉時代以降の建築で天竺様・唐様・和様を折衷した様式となっている、現在は・南大門・金堂・講堂・食堂・北大門・五重塔・宝蔵・潅頂院・西院・慶賀門・東大門・蓮花門・客殿などで構成されている、中門・回廊・僧坊が再建されていないが、他の堂宇は最盛期の伽藍配置を踏襲している。
東寺には創建時の堂宇は無く鎌倉時代以後の再建となるが寺宝は膨大な量を誇り国宝26件、重要文化財53件を含む貴重な文化財が保存されている。

東寺には顕密二つの金堂が在ると言われている、豊臣秀頼による再建の薬師如来を祀る本堂と、もう一つの金堂とも言われている、真言密教の真髄でありショーウインドウ的存在感を誇示する。

圧巻は室町時代に再建された日本仏教のパンテオンPantheonが講堂及びその内にあるといって過言ではない、真言宗の開宗宣言と言える羯磨が講堂内の二十五尊なら論の象徴は顕密二教論であろう。
顕教の尊挌は高貴な人間的表願で信仰に引き込んでいるが、空海の請来した密教仏は人間性を否定したダイナミズム
dynamismを高揚している。
典拠は不空訳の仁王経であるが空海により計算された五大明王像や梵天帝釈天等から受ける視覚的インパクトを計算されている、「密厳浄土」の世界を顕すとされる羯磨曼荼羅は観音像などの密教像を見慣れていても初めて講堂に入った瞬間その人間離れとも思える密教美術の異様さに驚かされる、司馬遼太郎氏はこの仏像群を「人間の空想力というものはこれほどまで及ぶことができるものかと呆然とする思いがすると言う、しかもそれが単に放恣(ほうし)な造形的空想力でつくられたものでなく、その内面に思想があり‐‐‐‐」と言う、閑話休題、五木寛之氏は講堂の蓮華座に付いて覚りをひらいた如来群は蓮華が完全に開き、修行中でもある菩薩群は完全に開いていないと言うが、観察には注意を要する。
東寺を訪れる回数を重ねる毎に21尊中、15尊の国宝・五尊の重文を拝観し諸像の素晴らしさに惹かれる様になる、但し当寺の尊像は創建以来千年以上も秘仏とされていた。   
金剛頂経や五大力尊すなわち五如来・五菩薩・五明王・五方天の源とした護国三部経の一経「仁王経」及び「仁王般若念誦儀軌」を意識した、空海の戦略的構想の一つとして講堂の羯磨曼荼羅に於いては胎蔵曼荼羅では持明院の脇持にすぎない不動明王を主役の一尊に仕立てた配置は新規参入した真言密教として斬新かつ驚愕を与えた事だろう、この手法は20世紀中盤に薬師寺再興を目指し破天荒な言動をした橋本凝胤師
(薬師寺注3の天動説の支持にも見られる。
講堂のほか五重塔内にも金剛界を形成する羯磨曼荼羅(注8があり、心柱を大日如来と見立て四方に脇持を従えた4尊が配置されている、他に四天柱・壁面等に密厳浄土を画いた絵画や真言八祖像(注6が画かれている。(通常の拝観は不可)

平安時代の律令政治は政務を司る「太政官」と神会を司る「神祇官」の二部並立であったが、真言密教の加持会が加えられた、宮中真言院に於いて勅修(ちょくしゅう)の大典”即ち最大の国家的儀礼”が行われていた、毎年18日~14日まで「真言宗に於ける最高の厳義」すなわち最高秘奥とされる大法「後七日御修法(ごしちにちみしゆほう)」が行われた、現在は教王護国寺・灌頂院に於いて行われ、真言宗十八本山会の管長レベルの高僧が集まり国家鎮護などの祈願が行われる、因みに後七日御修法とは護摩壇と増益壇の二壇を置き、七日間に二十一座の護摩修法が修せられる、これは従来から行われていた金光明経を講説する御斎会に変わる儀式で835(承和2年)に創められ天皇家が真言宗に帰依した証とも言える真言宗の「最高厳儀」である、御所の真言院で始められ後に紫宸殿に移された、834年以降明治四年(1871年)の太政官布告までは歴代天皇臨席のうえ行われていた国家的儀礼で、両部曼荼羅五大明王・十二天画像・孔雀明王などを祀り行われる最高の修法である、因みに後七日御修法の本尊は金剛界法と胎蔵界法を年毎、交互に修められる、両部曼荼羅であるが灌頂等に於いて「瞑想を行う為の装置」として使用される度に損傷する為に100400年と言う不定期であるが更新され現在の曼荼羅は五代目である、参考として空海の最勝王経開題には「宝生を主と為す」密教 正木晃)   
因みに平安時代の律令制度は政治すなわち太政官と神道すなわち神祇官で構成されていたが、仏教すなわち密教を加えて三本立てになった、御所内の真言院は空海の戦略通り勅許された、これにより真言宗は日本佛教界の中核的な位置を占めることになる。
現在東寺に於いて灌頂院の門は開扉されるのは、現在でも真言宗最大の国家的儀礼である「後七日御修法」と、空海入寂の日とされる421日の「(しょう)御影供(みえく)」の二回のみである、寺社に於いて祭祀や供養を挙行する日即ち「結縁(けちえん)の日」や「有縁(うえん)の日」を略して縁日と言う、著名な縁日は弘法大師=毎月21日、薬師如来=15日、阿弥陀如来=15日、千手観音=24日、大日如来=28日、等々が知られている、因みに御影供とは弘法大師の御影を奉安し報恩謝徳の為に行う法会で毎月21日の「弘法さん」の日は御影供にあたる、特に121日の初弘法と1221日の終弘法、また後七日御修法は「大僧都伝灯大法師」の位を持つ空海の上奏で始められた。 

真言密教には法華経に登場する多宝如来・釈迦如来の居られる塔と異なる多宝塔がシンボルとして存在するが東寺には多宝塔は存在せず、金剛界の羯磨曼荼羅をイメージした五重塔が象徴的役割を担う、中央の心柱を大日如来として東面に阿閦如来 ・南面に宝生如来 ・西面に無量寿如来阿弥陀如来 ・北面に不空成就如来が夫々脇持に密教の八大菩薩、すなわち観音菩薩・金剛手菩薩・文殊菩薩普賢菩薩弥勒菩薩虚空蔵菩薩地蔵菩薩・除蓋障菩薩を従えている、壁面は長谷川等伯の弟子の作とされる真言八祖像や四天柱や天井に金剛界の蜜厳浄土が構成されている。
真言宗に於いては万物の根源として六大すなわち地、水、火、風、空、識を説く、その内で物質的要素を持つ五大を五重塔、五輪塔等にリンクさせる解釈も観られる..。
東寺は稲荷神社の総本宮である伏見稲荷大社が鎮守神であり、いろいろな伝承に彩られている、毎年五月三日には五基の神輿が慶賀門付近で供養する「稲荷還幸(かんこう)祭」行われている。 
また教王護国寺の北門を潜ると筆頭塔頭で別格本山・観智院がある、ここには国宝の客殿があり前庭は五大の庭として知られる、また五大虚空蔵菩薩像や愛染明王像があり東寺のイベントに合わせて開扉される、因みに観智院は山科の安祥寺から移築されたもので東寺長者の住坊でもある、また観智院の五大虚空蔵菩薩像は恵運
(入唐八家の一人)が招来した尊像である、霊宝館にある兜跋毘沙門天は羅城門の楼上に存在した城闍大王像である、城闍大王は外敵の侵入を防ぐと言う信仰が宋代から広がりを見せていた。
御影堂には生きている大師像があり運慶の四男で六波羅蜜寺の空也像を造像した康勝の作である、御影堂の本尊であるが拝観は出来ない、左手は膝上で仰ぎ念珠
(水晶製)を持ち、右手は屈臂し胸前で五鈷杵を持ち椅子に坐している、桧の寄木造で頭躰幹部は内刳の為左右の二材で作られている、玉眼を嵌入は割矧ぎで行われている、当初は彩色であるが現在は黒漆が表面を占めている、各地に造像されている弘法大師像の根本を為す尊像とされている。

「洛陽三十三所観音霊場」と言う組織がある、歴史は古いが長期間途絶えていたが復活した、1番、頂法寺(ちょうほうじ)(六角堂・如意輪観音 6 金戒光明寺千手観音 1014番、清水寺(本堂・奥の院・本堂・朝倉堂・泰産寺・千手観音) 15六波羅蜜寺十一面観音) 17番、蓮華王院(千手観音) 20番、泉涌寺(楊貴妃観音) 21番、法性寺千手観音 23番、東寺(十一面観音)  27、因幡堂(十一面観音)等の著名寺院が参画している。

金光明四天王教王護国寺伝法院は東寺真言宗の総本山であるが、真言宗東寺派と言う宗派がある、真言宗東寺派別格本山の法寿山・正法寺(しょうぼうじ)(京都市西京区大原野南春日町1102などがあり1963年に東寺から別れたが、東寺を中心とした活動に復帰を目指した宗派である、因みに正法寺と言う寺名は多数に及び滋賀県石山町にある西国三十三所12番の岩間山・正法寺(真言宗)等とは違うので注意が肝要である、その他京都の東寺真言宗には大本山石山寺 別格本山に観智院(東寺脇の塔頭寺院)宝菩提院などがある。

1, 講堂内に於ける尊像配置の詳細は羯磨曼荼羅の項,及び両部曼茶羅は曼荼羅 胎蔵界曼荼羅 金剛界曼茶羅を参照   

2,  綜藝種智院 空海が東寺内に起こした日本最初の私立学校で現在でも種智院大学を頂点とする学校法人
(京都市伏見区向島西定請) 


3,  兜跋(とばつ)毘沙門天が外敵撲滅の為に現れた国の名称、諸説あるがトルファン吐魯蕃(とばん)とも言はれる(現在のチベット)、兜跋毘沙門天は中国の故事に倣い王城鎮護の為に模刻された瑞像で元羅城門にあったとされる。 またコートを身に纏うと言う意味もあるという。

4、 真言宗を東密と言うのは東寺からのネーミングで、対して天台宗は宗派名から台密と呼ばれている、
因みに東密・台密の呼称は虎関師錬(こかんしれん)12781346年)著の(げん)亨釈書(こうしゃくしょ)巻27の諸宗志が嚆矢の様である。


5、 弘法大師空海の三大霊跡に 高野山(金剛峯寺)   教王護国寺  善通寺がある。 


6、 真言祖師(真言八祖)  「付法八祖」と「伝持八祖」が言われている。
八祖の本流として「付法八祖」があり、大日如来から密教の説法を受けた金剛薩
が伝えたと言う伝承があり大日如来金剛薩埵 ・龍猛・龍智・金剛智・不空・恵果空海が言われる。
また
「伝持八祖」は実在しない大日如来と金剛薩を省き、善無畏・一行を加えている、伝持八祖の制定は御室派が嚆矢で金剛頂経を意識した付法八祖に対して大日経と恵果の位置付けを加味して設けられた
「伝持八祖」の名前と持物は通常諸説あるが 「龍猛」(龍樹)三鈷杵 ・「竜智」梵経 ・「金剛智」念珠 ・「不空」印形 ・「善無畏」印形 ・「一行」印形 ・「恵果」童子・「空海」五鈷杵とされ真言祖師とも言う、また「住持の八祖」とも言われる
中でも龍樹(竜猛)は大乗仏教の祖であり中国八宗の祖・日本八宗の祖とされている、著作に中論・一二門論・大智度論大乗二〇頌論などがある、ちなみに八祖の宗派は法相宗・抑舎宗 ・三論宗 ・成実宗 ・律宗・華厳宗・天台宗・真言宗を言う。真言八祖像は四国八十八所26番札所の「金剛頂寺」に於いて重文指定を受けて存在している、木造板彫りで彩色が施されている、ちなみに金剛頂寺は空海の創建と伝えられ嵯峨天皇と清和天皇の勅願所であった。   ●金剛頂寺の真言八祖像 龍樹88,6cm ・龍智86,4cm ・金剛智85,8cm ・不空87,4cm ・善無畏85,5cm ・一行87,4cm ・恵果87,2cm ・空海87,3cm 鎌倉時代。  
7 十三仏霊場に対する京都霊場の12番札所に当たる京都の十三仏霊場は、智積院不動明王) ・2清凉寺釈迦如来) ・3霊雲院(文殊菩薩) ・4大光明寺(普賢菩薩) ・5大善寺(地蔵菩薩) ・6泉涌寺(弥勒菩薩) ・7平等寺因幡堂(薬師如来) ・8千本釈迦堂千手観音)・9仁和寺勢至菩薩)・10法金剛院(阿弥陀如来) ・11法観寺(阿閦如来) ・12東寺大日如来) ・13法輪寺(虚空蔵菩薩)の著名寺院が参加していたが、戒光寺と髄心院20147月、霊雲院と法観寺の退会を受けて参加した。


8、東寺の五重塔内にはもう一つの羯磨曼荼羅がある、現在の塔は1644年の再建であるが、東寺の僧・杲宝(ごうぼう)が著わした寺史と言える東宝記に拠れば空海の構想による創建時の形態を踏襲しているとされ塔内に五智如来を配置する嚆矢とされている、即ち中央の心柱を大日如来として東面に阿閦如来 ・南面に宝生如来 ・西面に無量寿如来(阿弥陀如来) ・北面に不空成就如来が夫々脇持(観音・金剛手・文殊・普賢・弥勒・虚空蔵・地蔵・除蓋障の八大菩薩)を従えており、壁面は長谷川等伯の弟子の作とされる真言八祖像や四天柱や天井に金剛界の蜜厳浄土が構成されている。

9、後七日御修法 天皇の安寧及び国の繁栄安泰と祈願する「勅修の大典」であった、現在でも真言宗に於ける最高秘奥で18日から7日間挙行される、834年勅命を受けた空海が始めた修法で翌年には宮中に真言院が建立された、東寺の別当が導師を務める習わしである、元禄時代に中断するが醍醐寺の義演が復興させる、明治4年(1871年)宮中行事としては廃止されるが東寺灌頂院に於いて真言宗各派の館主などが集まり毎年挙行されている、後七日御修法は平安時代以降、元旦から行われた前七日節会(ぜんひちにちせちえ)と双璧を為す宮中に於ける祭司の根幹を占める修法であった。

10、真言宗は稲荷神社との関係が深い、中でも教王護国寺は稲荷信仰を興隆させた拠点と言える、即ち講堂建立の折に秦一族の氏神であった伏見稲荷の山から用材を調達して以来の関係で稲荷信仰の興隆には真言聖が貢献した。

11、教王護国寺は東寺真言宗であり、真言宗東寺派とは異なる宗派である、即ち1963年と真言宗東寺派とは分裂した。
明治になり管長を金剛峯寺・教王護国寺・智積院・長谷寺の4寺院から互選する四本山時代が存在したが、1901年(明治34年)に教王護国寺は古義真言宗派とともに連合した1907年(明治40年)に真言宗東寺派を呼称する。1939
年(昭和14年)「宗教団体法」が制定され宗派統合が行われ、大真言宗となるが1927流、46年(昭和21年)2月に真言宗東寺派として独立した。(認証は1952年)。現在の真言宗東寺派は西京区大原野南春日町にある別格本山、正法寺が中心である。

注12  チベット仏教では大日如来毘盧遮那如来の地位を阿閦如来が引き受けており、明妃金剛女を抱きしめている。明妃モーハヤマーリ。   

1963年(昭和38年)に教王護国寺と真言宗東寺派の紛争で教王護国寺が東寺派から離脱する、後に大本山・正法寺(京都市西京区大原野南春日町)など数ヶ寺を残して、教王護国寺を中心に多くの寺院が東寺真言宗に移動独立した、現在は正法寺・弥勒寺・法寿寺など小規模の寺院が真言宗東寺派を呼称している。
伝統的に密教寺院の分裂は大きい、空海入滅の後、覚鑁の登場まで真言宗だけでも小野流、広沢流、中院流から小野流が27流、広沢流が9流になり、更に70以上に分裂したと言う。



   東寺真言宗総本山        
    
   本尊 薬師如来      所在地   京都市南区九条町一      ℡ 075-691-3325        観智院 ℡ 075691-1131




東寺の文化財
     表内は国宝   ●印重要文化財  古文書・書籍・典籍を除く

      名    称 

                                   用 

  時   代  

 五大明王像 (五尊)  

 木造彩色(乾漆補) 不動173,3cm 降三世173,6 軍荼利
 201,5 大威徳143,6 金剛夜叉171,8cm
 

 平安時代 

 五大菩薩坐像 

 木造漆箔 金剛波羅蜜多96,4cm 金剛宝93,4cm 金剛法95,8cm 
 金剛業94,6cm 中尊・金剛波羅蜜多を除く
  

 平安時代 

 帝釈天梵天騎像 

 木造彩色 帝釈天105,4cm  梵天100,3cm 

 平安時代 

 四天王立像 

 木造彩色  持国天183,0cm 増長天184,2cm 広目天171,8
 cm  多門天197,9cm
 

 平安時代 

 天  蓋 

 木造彩色 直径140,6cm 不動明王 

 平安時代 

 不動明王坐像 

 木造彩色 123,0cm           (御影堂) 

 平安時代 

 兜跋毘沙門天立像 

 木造(中国桜)彩色漆箔・練物盛上 189,4cm  瑞像  (霊宝舘) 

 唐 時代 

 僧形八幡神像二女神 

 木造彩色八幡(応神天皇)109,0cm 女神111,7113,5cm (霊宝舘)   

 平安時代 

 武内宿禰坐像 

 木造彩色 84,8cm  納入品・修理願い墨書(重文)  

 平安時代 

 五重塔 

 3間 本瓦葺  純和様  日本最高の塔高 

 江戸時代  

 金  堂 

 桁行5間 梁間3間 裳階付き 入母屋造 本瓦葺 

 桃山時代 

 蓮華門 

 3間 八脚門 切妻造 本瓦葺 

 鎌倉時代 

 大師堂(西院御影堂)  

 前・後・中門で構成 桧皮葺 

 室町時代 

 観智院客殿 

 入母屋造 軒に唐破風・桃山書院造の典型 

 桃山時代 

 真言七祖像(七幅) 

 絹本著色 七幅 212,7:150,9cm 金剛智・善無畏・
 不空・恵果・一行・竜智 唐製   竜猛・竜智 日本製
 

 唐 時代
 平安時代
 

 十二天像(六曲屏風) 

 絹本著色 伝宅間勝賀筆 144,2:126,6cm 

 平安時代 

 両部(界)曼荼羅図 

 絹本著色 伝真言院曼荼羅 二幅 183,3:154,0cm 

 平安時代   

 五大尊像図 

 絹本著色 152,0:128,0cm 五大明王を描く 

 平安時代 

 海賦蒔絵袈裟箱 

 47,7cm:39,0cm 厚11,5cm 波に怪魚絵 

 平安時代 

 舎利輦(しゃりれん) 

 紫檀塗螺鈿金銅 宝塔形 舎利を置く手車 総高182,0cm 

 鎌倉時代 

 密教法具 

 伝弘法大師招来 五鈷鈴24,5・五鈷杵24,0・金剛盤19,75 

 唐 時代 

 袈裟、横被 

 けん陀穀糸(けんだこくし)袈裟116,8237,0 横被180,086,4  

 唐 時代 


 講 堂  (五智如来)  講堂の開眼供養は839年であるが1486年(文明18年)土一揆で焼失した、避難に遅れた五智如来と金剛波羅密多菩薩は1493年に大日如来が復興し他尊は江戸時代の復旧された。       

大日如来坐像 木造漆箔 玉眼 284,0cm 江戸時代~桃山時代    

阿閦如来 木造漆箔 136,7cm       江戸時代

宝生如来 木造漆箔 140,0cm      江戸時代

無量寿如来 木造漆箔            江戸時代 頭部は平安時代

空成就如来 木造漆箔 53,2cm     江戸時代(以上講堂)   五智如来は現在の二重蓮弁座では無く,創建時は鳥獣座とされている。

 金 堂

薬師如来三尊(薬師如来納入品、木製修理名札)木造漆箔 薬師288,0cm・日光290,0・月光289,0cm 桃山時代 康正作  

霊宝舘 

千手観音立像(食堂本尊・納入品檜扇、舎利容器)木造漆箔584,6cm 鎌倉時代  

●地蔵菩薩立像 木造彩色漆箔 162,4cm 平安時代 元西寺の像  

●聖僧文殊坐像 木造彩色 70,9cm 平安時代  

観音菩薩梵天帝釈天立像 木造 観音24,9cm 梵天他21,7cm 帝釈天21,7cm 鎌倉時代  

御影堂 

●弘法大師坐像 木造彩色 玉眼 833cm 鎌倉時代  

観智院 

●五大虚空蔵菩薩(伝恵運招来)木造 練物盛上 金剛75,4cm・宝光75,0cm・法界73,5cm・蓮華70,6cm・業用70,1cm 唐時代    

●講堂 桁行9間梁間四間 入母屋造 本瓦葺 室町時代 

●南大門 蓮華王院より移設 八脚門 切妻造 本瓦葺 桃山時代 

●五重塔小塔 3間 161,0cm 鎌倉時代 

●灌頂門 四脚門 切妻造 本瓦葺 江戸時代 

●北大門 3間1戸 八脚門 切妻造 本瓦葺  

●慶賀門 3間1戸 八脚門 切妻造 本瓦葺 

●東大門(不開門)八脚門 切妻造 本瓦葺  

●経蔵(宝蔵) 3間三面 寄棟造 本瓦葺 

●北総門 四脚門  本瓦葺 鎌倉時代 

●東門(灌頂院)四脚門 切妻造 本瓦葺 鎌倉時代 

●灌頂院 桁行7間梁 間7間 寄棟造 本瓦葺 

●弘法大師行状絵 紙本著色 巻子装 34,01370,0cm 南北朝時代 

十一面観音像 絹本著色 額装 80,640,3cm 鎌倉時代 

●火羅図(蜜教図像10点の内) 紙本著色 掛幅装 88,846,1cm 平安時代 

●聖天像(蜜教図像10点の内)  紙本白描 掛幅装 49,730,9cm 平安時代 

●大元帥曼荼羅図(蜜教図像10点の内) 四点 紙本白描 掛幅装 50,630,9cm 60,946,1cm 51,535,5cm 128,280,3cm 平安時代 

●仁王経本尊像(蜜教図像10点の内) 5幅 紙本白描 掛幅装 平安時代 

●不空羂索観音像 絹本著色 額装 115,256.1cm 鎌倉時代 

●両界曼荼羅図 絹本著色 掛幅装(甲本)胎蔵界337,5407,8cm 金剛界323,0403,9cm 鎌倉時代 

●両界曼荼羅図 絹本著色 掛幅装(乙本)胎蔵界237,9421,8cm 金剛界356,0419,0cm 鎌倉時代  

●両界曼荼羅図(元禄本)2幅 絹本著色 掛幅装 419.9378,4cm 江戸時代 

●六大黒天像(蜜教図像10点の内) 紙本白描 掛幅装 53,040,0cm 室町時代 

その他 国宝・不動明王(大師堂)拝観否 五大虚空蔵菩薩(観智院)拝観否 兜跋毘沙門天(宝物館オープン日)320525 千手観音9/20~11/25


五大明王を所持する寺院 

 寺      名

  不動明王

  降三世明王

  軍荼利明王

 大威徳明王

 金剛夜叉明王

   備       考

 常福寺(三重)

  172,7cm

  178,8cm

  172,7cm

  150,6cm

  177,7cm

 木造彩色 平安時代

 瑞巌寺

   64,1cm

  92,1cm

  89,7cm

  67,7cm

  91,1cm

 同上

 醍醐寺

   86,3cm

  122,3cm

  125,8cm

   80,3cm

  116,7cm

 同上

○ 教王護国寺

  173,3cm

  173,6cm

  201,5cm

  100,9cm

  171,8cm

 同上   明円作

 大覚寺

   50,9cm

   67,5cm

   69,3cm

   58,1cm

   69,6cm

 同上

 不退寺

   85,7cm

  154,7cm

  157,0cm

   99,0cm

  150,5cm

 同上

 宝山寺(奈良)

   17、1cm

   18,cm 

   17,cm 

    11,5cm

   18,cm 

 江戸時代 厨子入 

注 常福寺は寺院公式サイト   (五大明王各編で重複させてあります)


絵画(五大尊像)
来振寺 絹本著色  不動 降三世 軍荼利 大威徳 鳥枢沙摩 五幅  各1400cm×880cm      平安時代 
東 寺  絹本著色 掛幅装   不動 降三世 軍荼利 大威徳 金剛夜叉 153,0cm×128,8cm      平安時代
醍醐寺  絹本著色 掛幅装   不動 降三世 軍荼利 大威徳 金剛夜叉 193,9cm×126,2cm       鎌倉時代 

  

最終加筆日20047291227200613日注4、2008610日注8 2010年12月2日伽藍 2017年4月15日 10月4日 2018年3月17日 10月6日 2020年8月10日加筆 



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