萬福寺

                                       仏像案内         寺院案内                黄檗宗

”ちゃどころ”宇治市の山麓に中華風の伽藍を持つ満福寺がある、山号は黄檗山と言い創設者である隠元隆琦(いんげんりゅうき)1592年~1673年)が中国福建省・黄檗山(おうばくさん)萬福寺の住持(じゅうじ)(住持職・寺の代表・住職)であった事から命名された。 
明国の高僧隠元は1654年来日後長崎に逗留していたが、当時の禅宗は疲弊しており、憂いていた妙心寺の要請に応じて入洛する、後水尾天皇や徳川四代将軍・家綱の帰依を受け正統な臨済禅を広める為に現在の地に中国様式
(福建省の満福寺)を踏襲した伽藍配置で寺院建立を始める。
戒律
を重要視する中国の臨済禅は隠元に依り禅宗系の活力を復活させた、伽藍は中国福建省・黄檗山萬福寺を模した配置で現在では希少な高級木材となったチーク材を使用した堂宇に於ける卍勾欄(まんじこうらん)を配した唐風建築や渡来佛師、范道生(はんどうせい)による仏像は中国の様式を踏襲しており長崎の崇福寺と共に支那寺とも呼ばれている。
隠元が中国から招来したのは宗教だけではない、画家、彫刻家、石工、仕立て職人等々を従えて来日し、信仰は無論の事、美術、書、骨董、等に関する文化を浸透させた。 
黄檗山は元来臨済宗に於ける法系の一派であり鎌倉時代に活躍し東福寺を開山した円爾弁円や円覚寺・無学祖元とは同じ宗派に属する。
しかし隠元が「禅浄一致」、即ち”念仏禅”を採用する事により臨済宗とは一線を隔した、更に言語・作法・言動・様相に至まで中国風を貫き寺の住持は長期間
(十三代)にわたって中国からの渡来僧が継承した、その二祖木庵の弟子の中には日本人で境内に寶蔵院を開いた鉄眼道光 (1630年2月12日~1682年4月27日)と言う傑僧がいた、道光は多くの財を必要とする一切経の翻刻(ほんこく)を決意し勧進行脚を繰り返し、途中数回の飢饉に苦しむ衆生達に資金をまわし乍ら完成した、これは「鉄眼の一切経」として著名である、因みに1678年(延寶6年)に完成した一切経(桜 26.3cm×86.2cm)重文指定を受けている、因みに一切経とは仏教に於ける総ての経典の事を言う。
僧侶が同じ経典の経を読んでも黄檗宗は発音が黄檗唐音であり、同系の臨済宗の読経とは聴く方は全く違う経に聞こえる、伽藍は中国、明・清の様式を採用した黄檗様と呼ばれるもので正面は西に面しておりシンメトリー
(左右対称)で礎盤は丸型して丸窓・中国風の組子を持つ高欄・吹き抜けを利用した蛇腹天井・建具・赤緑黄を取り入れた色彩感覚などに日本の寺院には無い特徴を持つ、また江戸時代の建立が全てであるが二十三棟に及ぶ重文指定の貴重な建造物を持つ、因みに黄檗宗では金堂・本堂に相当する堂宇を大雄寶殿と言う、また大雄とは釈尊を意味する。 
もう一つ江戸時代後期に於ける閨秀俳人・田上菊舎尼の「山門を出でれば日本ぞ茶摘み歌」の句碑がある。
仏像は本尊、釈迦如来
(大迦葉・阿難陀を脇侍とする三尊)を始めチーク材を使用した隠元像(非公開)韋駄天四天王・布袋等、明国佛師や脱乾漆の白衣観音(注2等、(はん)道生(どうせい)渾身の27尊を含む40尊程の江戸時代作の仏像がある、因みに大迦葉は十大弟子の上足で舎利弗と目犍蓮亡き後、事実上釈尊の後継者であり、記憶力に優れ長く釈尊の秘書的存在であった阿難陀達を従えて阿羅漢 500人を招集して釈梼の教義を編集、すなわち第一結集を行う、禅宗寺院の釈迦三尊像はこの形式が使われている、また経典の初めに言われる「如是我聞」とは阿難陀が「釈尊からこの様に聞いた」とされる事に始まる。
最盛期には千ヶ寺の末寺が存在したとされるが現在は十八塔頭・四百六十二末寺を持つ黄檗宗の大本山である、中に入り目につくのは中国的情緒を持つ総門を初め、行事等を知らせる魚形の巨大な
開梆(かいぱん)等である、因みに総門の扁額「第一義」は第五世住持・高泉性激であり、三門の扁額「黄檗山」「萬福寺」は隠元の筆による。   
煎茶道と言う抹茶を使用しないで煎茶で行う流儀が有り万福寺には全日本煎茶道連盟の事務局がある、家元が一子相伝でない流派が多い為に分裂を繰り返し流派数は多く存在する、中でも・売茶(ばいさ)流の祖である売茶翁
(詩人書家名 高遊外)も当寺の出身である、当寺では普茶料理も有名である、黄檗僧で煎茶道で著名な月海元昭(げっかい げんしょう)こと売茶翁を記念する売茶堂もある、隠元と言えばインゲン豆を連想するが・茶を初めとして・西瓜・レンコンも隠元の請来とされる。  
   
  

1,  住持を日本人が占める様になるのは第22代からである。    

2、白衣観音 白処・大衣・服白衣観音などとも呼ばれ常に白蓮華の中に住み、阿弥陀如来の妻で観音菩薩達を生んだ母とも言われる、除病・安産・求子・育児祈願に霊験が信じられている、但し満福寺(苑道生作)の白衣観音は中国様式であり定印を結び日本で観られる白衣観音とは異質な印象を受ける。 

3三門  禅宗以外の宗派に於いては山門と呼ばれるが三門は禅宗伽藍の門を言い、空・無相・無作の三解脱門の略称とされる。禅宗寺院の正門を意味し他宗寺院の中門にあたり南大門にあたる門は総門と呼ばれる。
南禅寺
東福寺大徳寺禅宗寺院の三門が著名であるが、様式を模した浄土宗の知恩院などの例外もある。
         

黄檗宗 大本山        所在地   京都府宇治市五箇庄三番割34        ℡ 0774-32-3900
              
萬福寺の文化財  

大雄寶殿 桁行5間 梁間6間(22m) 一裳腰 入母屋造 本瓦葺  江戸時代    威徳殿 梁間桁行3間 入母屋造 本瓦葺

法堂 梁間5間 桁行6間 入母屋造 桟瓦葺      天王堂 梁間5間 桁行3間 入母屋造 本瓦葺 

斎堂 梁間5間 桁行6間 入母屋造 本瓦葺      禅堂 梁間5間 桁行6間 入母屋造 本瓦葺 

伽藍堂 梁間桁行3間 入母屋造 本瓦葺        舎利殿 梁間桁行3間 入母屋造 本瓦葺 

鐘楼 梁間桁行3間 入母屋造 本瓦葺         三門 桁行3間 梁間2間 二重門 入母屋造 本瓦葺 

松陰堂総門 桁行3間 梁間2間 一裳腰 段違切妻造 本瓦葺 漢門とも言い屋根の魚は摩伽羅      

東方丈 

西方丈など20堂以上、                    西湖図(4幅) 紙本淡彩 掛幅装181,0114,0cm 江戸時代・

五百羅漢図(8幅) 紙本淡彩 掛幅装181,0114,0cm 江戸時代・    瀑布図・

虎渓三笑図 紙本淡彩 掛幅装181,011,0cm 江戸時代       波涛図 紙本淡彩 掛幅装181,0114,0cm 江戸時代 

黄檗版一切経版木 桜材 26.3cm×86.2cm 鐡眼 1678年延寶6年   隠元隆琦像 紙本著色 掛幅装 138,060,5cm 江戸時代   

観音図(隠元筆)絖本(こうほん)淡彩 画帖装 35,553,7cm 江戸時代  等   



             寺院案内  仏像案内

inserted by FC2 system