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蓮華王院すなわち三十三間堂の本坊である妙法院(注4)の山号は南叡山と言い、比叡山西塔東谷の本覚院を起源とされる、皇后門跡・新日吉門跡とも言われる、曼殊院・三千院・青蓮院・毘沙門堂と共に京都五箇室門跡の一院であるが、比叡山三千坊の筆頭門跡である、因みに妙法院の本尊は普賢菩薩である。
妙法院は当初比叡山の西塔・本覚院であり妙法院は通名であったが祇園近くの綾小路などを経て秀吉の時代に現在地に移る。
妙法院の権勢は聖俗に及んでおり、初代の住持は最澄で二代目は円仁と言う由緒を誇る、後醍醐天皇の皇子・宗良親王(法名尊澄親王)は天台座主を務めた後に還俗して征夷大将軍の任に就いた程である。
最澄が示寂後30年頃の比叡山は東塔のみ整備されていた、義真の弟子・恵亮の創建で西塔の法幢院を源としており延暦寺の別舎(サテライト)すなわち三千坊の一坊である、最澄による創建とされるが、事実上は恵亮であり西塔は未整備であった、但し最澄の叡山に於ける山上十六院構想の一院である、蓮華王院は徳川家康により妙法院の境外の仏堂とされた。
創建は後白河天皇であり1156年院政を敷く為の御所の造営である、スポンサーは当寺親密であった平清盛であり、広大な敷地を持ち不動堂・千手観音堂・五重塔・念仏堂・北斗堂などの大伽藍を持ち、数量功徳の典型と言える蓮華王院御所・法住寺御所と呼ばれた、権勢を謳歌した御所も1183年木曽義仲に襲われ蓮華王院を残して灰燼に帰す、更に1249年の大火で傘下に置く蓮華王院も消失するが風神・雷神・二十八部衆・156尊の千手観音は消失を免れ1266年後嵯峨上皇により現在の三十三間堂(120m)が純和風の様式で極彩色に塗られて復元された。(風神・雷神・二十八部衆と千手観音・百二十四尊は異説もあるが湛慶以前の作品かとされる)
前述のように本坊の妙法院門跡は1614年東山七条の現在地に移り、公開日は限定されているが・大玄関 ・大書院 が重文指定を受けており・庫裏は国宝指定を受けている。
蓮華王院は天台宗三門跡の一院である妙法院の境外仏堂で当初は御所と寺院を兼ねた法住寺殿の本堂であった、妙法院の管下にあり正式名称は蓮華王院であるが三十三間堂の方が馴染みが深い、因みに三十三間とは距離ではなく示現、すなわち観音菩薩が状況に応じて三十三の姿に変えて一切衆生のサルベージに向かう「応現身」の数を言う。
三十三間堂は場所を変更したりするが応仁の乱で焼失する、後に徳川幕府により方広寺の経堂を与えられ妙法院の傘下に入る。
当院に奉られる千手観音菩薩は蓮華王とされている、蓮華は泥水の中から発生し清らかな香りと美しい色彩の花を咲かせる、インドの古代信仰に於いてはバラモンに於ける最高神の一尊であるヴィシンヌ(Viṣṇu)
12世紀中頃は仏像を多く製作することでご利益があると言う信仰から、蓮華王院・得長寿院(聖観音)・白河阿弥陀堂などの千体佛堂が建立された。
この堂宇は1249年(建長元年)に焼失したが、1266年(文永3年)に再建された堂宇である、簡素であるが規模及び様式は前の堂宇を踏襲している、火災で避難できた像は130尊程で残るは再建時の像である。
現存する国宝の中尊、千手観音菩薩像と風神・雷神・二十八部衆像は壮観であり、千手観音を守護する眷属としての大弁功徳天像(吉祥天女)・婆藪仙人像等には魅了される、堂内を拝観して仏像の大津波と形容した人もいる。
この創建当初からとされる像群は康朝の父か師にあたる康助の作品が存在する可能性が高い。
現在の本堂は1266年に後嵯峨上皇の肝入で再建された堂宇は現在国宝指定を受けているが簡素な造りである、入母屋造り本瓦葺きであるが破風などは小さく纏められている、桁行き約120mに及ぶ総桧造で前面が板扉で側面背面は連子窓で内部は二重虹梁蟇股、小屋組みは化粧天井で構成された本堂は ・大報恩寺本堂 ・石山寺多宝塔 ・西明寺三重塔など共に和様建築の代表作として挙げることができる。
創建当初は多くの荘園を持ち繁栄を謳歌したが中世末には寺領収入も減少で寺運も衰退し豊臣家滅亡後に妙法院の傘下に入る。
千躰観音像の復興には鎌倉彫刻を完成させた運慶の後継者で佛師の頭目として中尊を担当した晩年(82歳頃)の湛慶と自作とされる九尊や慶派の康円・行快・康清・栄円等、円派の隆円・昌円・栄円・勢円、院派の院継・院遍・院承・院恵などが参画しておりサイズ・姿は規格化されているが、当時日本を代表した佛師三派の競作が一堂に見ることが出来る。
境内散策のポイントとして築地塀は太閤塀と呼ばれ重要文化財指定を受けており必見の場所である(桁行 27間 本瓦葺)。
蓮華王院から200m程の東大路に本坊の妙法院があり、庫裏がポルトガル国印度副王信書と共に国宝指定を受けている、但し平常は非公開で春に行われる特別拝観日のみとされる。
「洛陽三十三所観音霊場」と言う組織がある、歴史は古いが長期間途絶えていたが復活した、1番、頂法寺(六角堂・如意輪観音) 2、金戒光明寺(千手観音) 10~14番、清水寺(本堂・奥の院・本堂・朝倉堂・泰産寺・千手観音) 15番六波羅蜜寺(十一面観音) 17番、蓮華王院(千手観音) 20番、泉涌寺(楊貴妃観音) 21番、法性寺(千手観音) 23番、東寺(十一面観音)等の著名寺院が参画している。
2018年堂内の二十八部衆等の大配置換えが行われた、但し千手観音の配置は現状維持。
千体の観音菩薩を「観音大交響楽とか観音大行進」と形容する人も居られる様だ。
天台宗 所在地 京都市東山区本町十五町目 ℡ 075-525-0033 妙法院本坊
蓮華王院の文化財 表内は国宝 ●印重要文化財
名 称 |
適 用 |
時 代 |
千手観音坐像 |
木造漆箔 玉眼 334,8cm |
|
千手観音 千尊 |
木造 漆箔 一部玉眼 |
平安,鎌倉時代 |
天 蓋 |
木造 漆箔 彩色 径336,0cm 千手観音 |
鎌倉時代 |
風 神 |
木造彩色 玉眼 111,5cm 左側に位置替え |
鎌倉時代 |
雷 神 |
木造彩色 玉眼 100,0cm 右側 |
鎌倉時代 |
二十八部衆 |
木造彩色 切金文様 153,6~169,7cm 二八尊 |
鎌倉時代 |
蓮華王院(本堂) |
桁行35間 梁間5間 向拝7間 入母屋造 本瓦葺 |
鎌倉時代 |
庫 裏 妙法院 |
桁行1間 梁間12間 入母屋造 妻入 本瓦葺 |
桃山時代 |
千手観音 165.0~168.5cm(平安時代124尊・鎌倉時代876尊・室町時代1尊)納入品・紙本墨摺・千手観音、二十八部衆・等 61号運慶作 ・10・20・30号湛慶作 50・60号康円作
二十八部衆像の内訳 木造彩色 玉眼 切金文様 ○印国宝
妙法院(蓮華王院即ち三十三間堂)の例をとると正面左から列挙した。
○1那羅延堅固王(ならえんけんご) 167.9cm 金剛力士
○2大弁功徳天像(吉祥天女) 166.7cm
○3緊那羅(きんなら)王 166.0cm(帝釈天の配下)
○4金色孔雀王 166.3cm
○5大梵天 169.7cm
○6乾闥婆(けんだつば)王 159,7cm
○7満仙王(まんせんおう) 161,5cm
○8沙迦羅(さから)竜王 165.4cm
○9金大王(こんだいおう) 163.0cm
○10金毘羅王(こんぴらおう) 157.6cm
○11五部浄 167.6cm
○12神母天(じんも) 169.4cm
○13東方天 166.3cm
○14毘桜勒又天王(びるろくしゃ) 164.5cm
○15毘桜博又天王(びるばくしゃてんのう)160.6cm
○16毘沙門天王 160.0cm
○17迦桜羅(かるら)王 163.9cm(音楽神)
○18摩和羅王(まわらおう) 153.6cm
○19難陀(なんだ)竜王 159.1cm
○20婆藪(ばすう)仙人 154,5cm
○21摩醯首羅(まけいしゅら)王 160,9cm
○22畢婆迦羅王(ひつばから)
165.4cm
○23阿修羅王 164,8cm
○24 帝釈天 153.9cm
○25散脂(さんし)大将 165.1cm
○26満善車王(まんぜんしゃおう)
165.1cm
○27摩喉羅迦(まごらか)王 154.8cm
○28蜜迹金剛力士像 163.0cm(仏弟子を守る守護神) 金剛力士
●南大門 八脚門 切妻造 本瓦葺
●築地塀(太閤塀)桁行27間 本瓦葺
●大書院 桁行9,9m 梁間11,8m 入母屋造 本瓦葺 桃山時代
●玄関 桁行18,7m 梁間9,0m 入母屋造 柿葺 江戸時代
●後白河法皇画像 134,3cm×84,7cm 鎌倉時代 (1155年77代天皇に即位3年(29歳)で二条天皇に譲位) 妙法院
●普賢菩薩 坐像 木造 140,0cm 鎌倉時代 妙法院 普賢堂
注1, 門跡寺院 宗派一門の祖師の法脈を継承する寺の事を言い、平安時代後期になると皇族や公家などが出家して代々入寺する寺を言うようになる、塀には5本線を入れる事が許された、江戸時代に宮門跡(天皇家の入室) 親王門跡(宮家から入室) ・攝家門跡(五摂家) ・清華門跡(公家)・准門跡(脇門跡・真宗系)・尼門跡(中宮寺・円照寺・法華寺、等)に分類された、但し1871年に公的な門跡寺院制度は廃止されたが門跡を呼称する事は許された、ちなみに門跡寺院とその門主は南都仏教と同じく葬儀の祭主を務める事は無かった。
注2、 禁裏から妙法院の門主は後堀河天皇の皇弟・尊性法親王が嚆矢とされる。
注3、 蓮華王院は市井に頭痛治癒の伝承が言われ頭痛山平癒寺と呼ばれた事があると言うが治癒は事実ではない。
注4、 妙法院は特別公開日以外の日は拝観できないが、国宝、庫裏の他・大書院・玄関(以上重文)・本堂・白書院・龍華蔵等がある、その他の国宝にポルトガル国印度副王親書がある、重文指定分の一例を挙げれば仏像に・不動明王立像 護摩堂本尊、平安時代 ・普賢菩薩騎象像 本堂(普賢堂)本尊 平安時代、 絵画では ・後白河法皇像 絹本著色 が指定を受けている。
注5、金剛力士であるが、阿形=
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最終加筆日2004年11月10日 2005年1月20日 2006年4月7日 2010年8月27日注4他 2020年4月18日