南禅寺

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山園城寺の別院で衰退した最勝光院が存在した処で亀山天皇が離宮を造営した地と言われる、山号を瑞龍山と言い正式名称は太平興国南禅禅寺と言う。創建当初は龍安山禅林禅寺と号されていたが寺観が整う頃に現在の名称に改称された、一説には隣にある古刹・禅林寺(永観堂)の南に位置する事から銘々されたと言う。
当寺は亀山天皇が臨済宗に帰依する事により現在の地にある離宮を寺に改修し1291東福寺三世、大明国師・無関普門を招いて開山した事に始まる。
しかし大明国師は一年未満で死亡した為南院国師・規庵祖円が後を引き継ぎ1300年の初頭には伽藍を一直線に配置する禅宗様の七堂伽藍が完成する。
後醍醐天皇の時代に寺格
(注5が明確にされ京都五山の一位となり、後に五山の上にランクされる、南禅寺は京都に於ける禅宗文化の中心であり、更に足利義満の時代には義満創建の相国寺を五山に組み込む為、京都・五山上に昇格させて鎌倉幕府の官寺的存在として権威を保った。
五山制度はインドの「天竺五精舎」を模した制度である、因みに精舎を梵語でvihāra(ビハーラ)と言う、因みに「天竺五精舎(天竺五山)」とは、竹林精舎、()樹給(じゅぎつ)孤独(こどく)(おん)精舎(祇園精舎)(あん)羅樹(らじゅ)(おん)精舎、大林精舎、(りょうじゅ)精舎が言われている。    
また十方住持制、即ち法流に関係なく才能ある人材を登用する事により多くの名僧が輩出し臨済宗をリードして来た。
その後数回の兵火と室町幕府の衰退により寺領の多くを失い衰退するが豊臣秀吉が法堂を再建する、しかし復興に貢献したのは徳川家康の絶大な信頼を受けた金地院の以心崇伝である、崇伝により・方丈・三門を始め堂宇等の再建隆盛を見るが、京都府に敵視され廃仏毀釈で廃寺寸前まで追い込まれたり、明治28年の火災により多くの塔頭を失い現在に残るのは南禅院・天授庵・真乗院・金地院・最勝院・法皇寺等であり仏殿は明治42年の再建による、因みに寺の反対を無視して境内に構築されたレンガ造の水道橋は現在も使用されているが風物詩としても価値が見出されている。
南禅寺の大小方丈には狩野派永徳元信探幽などの襖絵などが残り、南禅院・天授庵・金地院に池回遊式や枯山水の優れた庭園を持つ、さらに銀閣寺とを結ぶ「哲学の道」の起点として知られている。
塔頭に一院である金地院は徳川幕府の「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝が興した処で、方丈には小堀遠州による庭や、狩野探幽や弟の尚信の襖絵が威勢を放つ。

末寺400寺余を持つ臨済宗南禅寺派の総本山。


所在地   京都市左京区南禅寺福地町
       075-771-0365                     

南禅寺の文化財     表内は国宝   ●印重要文化財   
 

名     称

適                 用

  時   代 

 方      丈

 御所の清涼殿を移築 桁行9間 梁間12間 入母屋造 柿葺 

 桃山時代

 亀山天皇宸翰禅林寺起願文

 鎌倉時代

 秋景冬景山水図 

 伝・微宗筆               金地院

 北宋時代


聖観音立像 木造漆箔 148,5cm 藤原時代 

●勅使門 内裏日御門を移築 四脚門 切妻造 桧皮葺 桃山時代 

●三門 五間・三戸・二階・二重門 桃山時代 

●東照宮 桁行3間 梁間2間 入母屋造 桧皮葺 江戸時代  

●大明国師像絵(無関普門像) 絹本著色 掛幅装 100,541,0cm 鎌倉時代 

●大明国師像絵(無関普門像) 絹本著色 掛幅装 179,784,0cm 室町時代 

●南院国師像(規庵祖円)絹本著色 掛幅装 2幅 109,7:48,cm 鎌倉時代 144,061,0cm 桃山時代 

●釈迦十六善神図 絹本著色 掛幅装 146,1103,0cm 鎌倉時代 

●金地院方丈・茶室八窓席(三畳大目・小堀遠州)障壁画に狩野探幽(群虎図等)の絵等多数。 

●佛涅槃図 絹本著色 掛幅装 127,555,7cm 鎌倉時代 

●群虎図(狩野探幽)紙本著色 襖絵四十面の内 江戸時代 

●江山漁舟図 絹本墨画 掛幅装 156,0105,5cm 明  

●聖僧文殊像 絹本墨画 掛幅装 94,043,3cm 鎌倉時代 

●達磨像 紙本墨画 掛幅装 93,045,5cm 室町時代 

●南禅寺大方丈障壁画 紙本金地著色 31面の内 襖絵 御昼之間 23面 桃山時代 

●南禅寺大方丈障壁画 26面の内11面 紙本金地著色 桃山時代 

●南禅寺大方丈障壁画 紙本著色 37面のうち16面 桃山時代 

●南禅寺大方丈障壁画 紙本著色 26面の内16面 桃山時代(124面狩野元信・永徳・宗秀等とされる)。 

●薬山李?問答図(やくざんりごうもん) 絹本淡彩 掛幅装 113,5:47,cm 南宋  



注1、 以心崇伝(いしんすうでん1569~1633年) 円照本光国師、金地院崇伝とも呼ばれ、父の死後南禅寺で修行また醍醐三宝院にも学ぶ、のち南禅寺金地院の法嗣となる、その後に南禅寺の住持となり駿府に赴いて徳川家康に面謁したのち幕府の外交文書の起草に従事する、駿府に赴き金地院を開いて諸寺院の取締り及び訴訟問題を掌握した。朝廷・寺院・武家などを対象とした諸法度の起草に参画、家康の死後は江戸に移って江戸金地院を創建、翌年禅宗寺院住持の任免権を持つ僧禄に就任。幕府から国師号を受け「黒衣の宰相」と呼ばれた。


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三門 (山門) 禅宗伽藍の正門を言い、空解脱・無相解脱・無願解脱の三解脱門の略称とされる。禅宗寺院の正門を意味し他宗寺院の中門にあたり南大門にあたる門は総門と呼ばれる事が多い。

仏界即ち覚りの世界と娑婆(現世 dṛṣṭa-dhārmika)の境界である、三門は主に禅宗伽藍の門を言い、・空解脱門・無相解脱門・無願(作)解脱門の三解脱門の略称とされる解釈と、三乗すなわち声聞・縁覚・菩薩の通る門とも言われる、当初とは意味合いを異にしており三門は三つの門即ち南門・東門・西門を言い、また中央に大門を置き左右に小門を配置した、後に左右が廃止されても三門と呼ばれた。 もう一つの説とっして、山門(三門)は結界を表している、結界siimaabandha)とは聖域と俗域の境界を言う即ち清浄な領域と不浄の領域との区切る処である。
また密教では・国土
結界・道場結界・檀上結界があり、高野山や比叡山は国土結界とし、護摩修法等の場合は壇上結界とされている。
山門は正門を意味している、山岳寺院の多い禅宗系では山門と呼称されている、禅宗寺院の正門を意味し他宗寺院の中門にあたり南大門にあたる門は総門と呼ばれる説とがある。
東福寺・大徳寺等禅宗寺院の三門が著名であるが、様式を踏襲した知恩院(国宝)などの例外もある。
三解脱門は空門・無相門・無願門の三境地((さん)三昧(ざんまい))を経て仏国土に亘る、因みに三解脱すなわち菩薩への境地、・空解脱門・無相解脱門・無願解脱門を言い、一例を言えば無相解脱とは全ての執着を除外した心境を言い、無作とは自然のまま即ち無為をいう。 
また七堂伽藍の七は総てが揃うという意味を持ち数には拘らない。

日本三大三門に*知恩院24m *南禅寺22m *身延山久遠寺(山梨県)21mを挙げる解説書がある。 


3、 五山・十刹・諸山 当初はインドの五精舎・十塔所の制度を引用したもので、中国に引き継がれて南宋時代に於ける禅宗寺院に規制と保護を目的として官僚機構を絡めたもので、政治権力者が任命件を行使し、日本では北条家が鎌倉に五大官寺を開山したのを嚆矢とし後に寺挌を現すものとなった。
日本に於いては室町時代初期に採用され曲折はあったが
1615年に徳川幕府が五山十刹に対して法度を出し順位は固定された。 
重複するが五山はインドの天竺五精舎」を模した制度である、因みに精舎を梵語でvihāra(ビハーラ)と言う、因みに「天竺五精舎(天竺五山)」とは、竹林精舎、()樹給(じゅぎつ)孤独(こどく)(おん)精舎(祇園精舎)、(あん)羅樹(らじゅ)(おん)精舎、大林精舎、(りょう)(じゅ)精舎が言われている。


4、 公案禅 佛・祖師・の説法、問答を言い、仏法の公理・禅の悟りを目指す。


5、寺挌  寺院に等級を設けて格式をランク付された当初は官寺の中で官大寺、国分寺(尼寺)、定額寺とランクされたが、平安時代に入りに門跡寺院が発生すると、宮門跡、摂家門跡、准門跡、脇門跡などの寺格が生じる、更に下部に院家、准院家などが成立した。
これらは国家や朝廷すなわち公の序列であるが鎌倉・室町両幕府が臨済宗寺院を五山、十刹、諸山、林下に分類した。
同じころ各宗派内部の序列格式としての寺格制度が定着する。
曹洞宗では別格寺院を常恒会、片法幢会、随意会に、法地(普通寺院)14にし、その下部に平僧地を置いた。
浄土真宗では院家、内陣、余間、飛檐、平僧に区分した、さらに複雑な寺格が定められて上納金によって昇進することが出来た。1871年(明治4年)に寺格は廃止されたが現在も教団には残されている 
   

主な寺院と五山
*京都五山は当初相国寺は存在しなかったが、三代将軍 足利義満がスポンサーとして相国寺が創建されて、南禅寺であったが五山の上に置いた、義満の祖父 尊氏が創建した天竜寺に後に強引に組み入れられた  

 寺  挌

 五山の上

 京都五山 

 南禅寺

 天竜寺 

 相国寺 

 建仁寺 

 東福寺 

 満寿寺 

 鎌倉五山

 

 建長寺

 円覚寺

 寿福寺

 浄智寺

 浄妙寺

 


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