清凉寺 嵯峨釈迦堂

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正式名称を五台山清凉寺 と言い、せいりょう寺・しょうりょう寺などと発音される,但し地元では通常は”嵯峨釈迦堂”と呼ばれている、因みに同じ京都市で釈迦如来が本尊の寺で上京区今出川七本松上ルの大報恩寺は千本釈迦堂と区別して呼ばれている。 
清凉寺のある嵯峨野は貴族達の別荘地であり、源氏物語と関連の深い処であるが、光源氏のモデルである源融(みなもとのとおる)が建立した”嵯峨野の御堂”すなわち棲霞観(せいかかん)を寺になおした処と言われている。

東大寺
僧・奝然(ちょうねん)(注2が入宋して文殊菩薩の聖地である五台山や 中国三大霊山の一山で智顗ゆかりの天台山等を巡礼した後に、コーシャンビーの国王、優填王(うてんのう)
Udayanaにより釈尊が在世中に彫られたと言う伝承を持つ、瑞像(注12すなわち栴檀(せんだん)釈迦如来を摸刻させ、十大弟子像と共に請来して比叡山の対抗拠点として愛宕山に五台山・清凉寺 建立を計画したが許可が下りず仏像は京都の蓮大寺と言う寺に置かれていたが、奝然の死後1016年弟子の盛算(せいさん)の時に嵯峨・棲霞寺(せいかじ)の境内の釈迦堂に移設し清凉寺 とした事に始まる、因みに栴檀の優塡王思慕像の伝承は「増一阿含経」「大唐西域記」等にも記述があり、優塡王思慕像は仏像制作の起源説が言われている、この像に付いて1780京都の俳諧師「秋里籬島」による都名所図会に於いて「本尊は大聖釈迦牟尼仏の立像にして-----天竺・毘首羯磨天の作なりとある、因みに毘首羯磨とはViśvakarmanびしゅかつま)の音訳で妙匠すなわち美術工芸の匠を言う。 
当初借家住まいであったが「生身の釈迦如来」としての信仰は広がり勢力も家主の棲霞寺を遥かに凌駕して寺域を独占する形となる、棲霞寺は清凉寺 内の阿弥陀堂に跡を留めるのみとなる。  
1221年伽藍を焼失するが法然の弟子・念仏坊が浄土聖の勧進を統括して復旧に貢献する。
当時は浄土教の勢いが強く付近で修行する浄土聖達の活動拠点となり、確執もあったが明治に入り真言宗系を大覚寺が併合し浄土宗系へのシフトがなされた。
清凉寺 の釈迦如来の頭髪は螺髪ではなく縄状の渦巻きで、耳の穴に水晶が嵌められ衣文にも特徴を持つ、清凉寺式として著名で平安末期から鎌倉時代にかけて華厳宗・真言律宗を中心とした戒律復興運動の象徴的存在と釈迦信仰の復興と共に多く模刻された、その模刻はご利益等の伝説から信仰対象としたもので生身すなわち「瑞像(ずいぞう)(注2と呼ばれた、その伝説から模刻が繰り返された像で、西大寺唐招提寺西明寺を始め国内でも百余尊(注5を数える、但し直に模刻が為された事が確実な像は西大寺像に限られている、因みに瑞像とは釈尊が生存している姿即ち生身として著す像を言う、優填王(うでんのう)の為に造像された瑞像に関する伝承はチベット仏教にも残っている(チベット仏教入門 ちくま書店 吉村均)
清凉寺 像は1951年の調査に於いて胎内から発見された品の内、絹製の五臓六腑は実物にかなり近く当時の中国に於ける医学のレベルの確かさが計り知ることが出来る、胎内封籠品の中に図像が混入している、北宋の宮廷画家の作品も混じる「霊山変相図」「弥勒菩薩像」「文殊菩薩像」「普賢菩薩騎馬像」があり霊山変相図の中の金剛力士像は再建東大寺南大門の金剛力士と酷似していると東洋日本美術史の泉武夫氏は言う、これ等の封籠品は鎌倉時代以降の図像、仏像にかなりの影響を与えた様である、その他背板裏に「大宋国台州張延皎并弟延襲雕」反花座表に「唐国台州開元寺」「僧保寧」の刻銘がある、蓮弁葺軸底に建保六年大仏師法眼快慶修造の墨書がある
この優塡王思慕像は木造(桜桃材)であるが歯・瓔珞等に練り物を用いて仕上げられているが、清水真澄氏に依れば宋時代の尊像の特徴であり、泉涌寺の楊貴妃観音や青雲寺(神奈川県横須賀市)瀧見観音(半跏像・88.7㎝)の瓔珞にも観られると言う。  
三国伝来の日本三如来と言われている三尊がある、善光寺阿弥陀如来因幡堂薬師如来と共に清凉寺・釈迦如来が言われている。
平常この仏像を拝観する為には寺の拝観料の他に釈迦如来拝観料を特別に支払う演出効果にはいささか疑問視される。
清凉寺の山号・五台山と言えば、中国の五台山があり文殊菩薩の聖地である、中国
仏教の四大名山の一山として円仁も学んでおり広く知られている、因みに四大聖地とは山西省の五台山文殊菩薩 四川省の峨眉(がび)普賢菩薩 浙江(せっこう)省の普陀山観音菩薩) 安徽(あんき)省の九華山地蔵菩薩が言われている、また中国三大霊山とは五台山・天台山・峨眉山を言う様である。
境内の北西に浄土宗知恩院派に所属する「龍蟠山・薬師寺」があり、本尊は「心経秘鍵薬師如来」と言う、伝承ではあるが寺に伝わる「薬師堂縁起」に依れば空海が嵯峨天皇の命を受けて刻んだと言う尊格である、心経秘鍵とは正式には「般若心経秘鍵」と言い、古くから大覚寺との関連から真言宗との関係が深い、因みに般若心経秘鍵とは空海が著した般若心経の注釈書である

京都は十三仏信仰が篤く十三仏霊場があり智積院不動明王 ・2清凉寺釈迦如来 ・3霊雲院(文殊菩薩) ・4大光明寺普賢菩薩 ・5大善寺(地蔵菩薩 ・6泉涌寺(弥勒菩薩 ・7平等寺因幡堂(薬師如来 ・8千本釈迦堂千手観音9仁和寺勢至菩薩10法金剛院(阿弥陀如来 ・11法観寺阿閦如来 ・12東寺大日如来 ・13法輪寺虚空蔵菩薩)の著名寺院が参加していたが、戒光寺髄心院20147月、霊雲院と法観寺の退会を受けて参加した。

 

1、檀像 白檀(栴檀)・紫檀を言う、「増一阿含経」を基に最初に彫られた釈迦如来像が檀像(牛頭栴檀)と言う、法隆寺の九面観音・金剛峯寺の諸尊仏龕・仁和寺の薬師如来等がある。
増一阿含経に依れば優填王が麻耶夫人を説法する為天上に上がった釈尊を思慕して造像させた、最初の優れた姿形の釈迦如来像が檀像であるとされる、木目が微密で薫香を発し珍重された、インドや東南アジアに於いて産出される白檀で造像された檀像は5世紀後半中国に請来されるが中国に於いては白檀など香木は産出されず、清凉寺 に請来された釈迦如来像の様に中国桜で代用された、さらに日本に於いては(かや)や檜材が使用され小像が多かった檀像は比較的大きく造像出来る様になる。
白檀はH10m、幹は60㎝程度に成長しその中心部の赤味部分のみが仏像などに使用される、硬質で光沢に優れ薬効成分も含む、最高品質の栴檀を牛頭(ごす)栴檀と言い牛頭山(インドのマラヤ山)産出の栴檀の下部(根に近い)が薫香が強く特に珍重される。 
華厳経第四十二巻依れば牛頭栴檀は離垢山から生えると言い、その香を塗ると火の中でも身を焼く事は無いと言う(牛頭梅檀香 従離垢山生 若以塗身 火不能燒)。
鄥陀衍那王刻壇(うだやなおうこくだん)の仏像、すなわち優填(うでん)(おう)思慕像であるが、大唐西域記の他に玄奘が漢訳した「大般若経」を初め「増一阿含経」「大乗造像功徳経」「作仏形像経」「作仏形像経」等から微妙な相違で記述されている。 

2, 奝然と瑞像   三論宗の僧で東大寺に学び972年入宋、五台山などを巡礼し皇帝の太宗から法済大師の号と紫衣を賜り更に新雕(しんちょう)の大蔵経を与えられる、台州で優填王(うでんのう)が栴檀で刻らせたという伝説による釈迦如来の瑞像の模刻を更に宋の佛師に模刻させ986年帰国した、愛宕山を宋で学んだ五台山と号し持ち帰った如来像を安置する伽藍を建て清凉寺と称することを奏請したが許されず989年東大寺の別当に任ぜられる、また瑞像は模刻が繰り返され清凉寺(注3、参照)の像も奝然請来の模刻像である、また教王護国寺毘沙門天も瑞像と言われる。
清凉寺の釈迦如来は伝説上仏像製作の起源と成った像であり、釈尊の在世中に彫られたとする、この伝承は「作仏形像(さぶつぎょうぞう)経」「造立形像福報経」「大乗造像功徳経」「増一阿含経」等に部分掲載されている。
因みに牛頭栴檀(ごすせんだん)とは牛頭山に於いて採取された香木を言う。玄奘の著書・大唐西域記に依れば鄥陀衍那王彫壇(うだやなおうこくだん)の仏像(優填王思慕像)
瑞像古代インドの国王Udayana 優填(うてん)王)が初めて釈迦像を栴檀(せんだん)即ち香木を用いて造立したとの伝説上の仏像を言う、伝承では覚者と成った釈迦如来が母堂である麻耶夫人の説法に三か月間天界に赴き娑婆を開けた為に思慕した優填王の為に目犍連が工人を伴い天空で釈尊を写刻して造像させたとされる、清凉寺に蔵する釈迦像はそれを模したものとされる。

3, 棲霞寺(せいかじ) 嵯峨天皇の一子で光源氏のモデルとされる(みなもと)(のとおる)の山荘・棲霞観の所在地で融の死後寺となった所。

4、京都は十三仏信仰が篤く十三仏霊があり京都霊場の9番札所に当たる、智積院不動明王)は一番札所となり ・2清凉寺 (釈迦如来) ・3霊雲院(文殊菩薩) ・4大光明寺(普賢菩薩) ・5大善寺(地蔵菩薩) ・6泉涌寺(弥勒菩薩) ・7平等寺(薬師如来)因幡堂 ・8千本釈迦堂千手観音)・9仁和寺勢至菩薩)・10法金剛院(阿弥陀如来) ・11法観寺阿閦如来) ・12東寺大日如来) ・13法輪寺(虚空蔵菩薩)の著名寺院が参加している。

5、 清凉寺 瑞像模刻の釈迦如来の抜粋(増一阿含経等で説かれる優填王思慕像) 
奈良県・    西大寺 167,0cm  唐招提寺 166,6cm  大善寺 168,1cm   
神奈川県・  極楽寺 158,5cm   真福寺 161,8cm  称名寺 160,6cm   

京都府・     西明寺 51,5cm  平等寺 76,7cm  常楽院 97,0cm  
滋賀県・    延暦寺 79,3cm  西明寺 134,8cm寺  荘厳寺 132,0cm
但し清凉寺 像の直接模刻が確認出来るのは西大寺の尊像に限られており、叡尊が1249年に善慶に模刻させた、清凉寺像は中国桜材で代用されたが、西大寺の模刻像は檜材である、像容は素木仕上の檀像風である。

  

浄土宗        所在地   京都市左京区嵯峨釈迦堂藤之木町46   ℡ 075-861-0343   
        

清凉寺 の文化財     表内は国宝   ●印重要文化財 

名      称 

適                  用 

 時  代 

 釈迦如来立像 

 木造(桜桃材)切金文様160,0cm 胎内より鏡像・経典等 

 宋 時代    

 阿弥陀如来三尊像    

 木造漆箔 中尊178,2観音165,7勢至168,2cm棲霞寺本尊 

 藤原時代 

 宋画十六羅漢像 

 絹本著色 十六幅 82,136,4cm 奝然招来品とされるが、    

 北宋時代 

霊宝舘 (公開は41日~50日間 10月1日~50日間)      阿弥陀如来三尊像も霊宝舘 

文殊菩薩騎獅像 木造彩色 110,0cm 藤原時代  

地蔵菩薩立像 木造彩色 68,2cm 鎌倉時代  

帝釈天騎象像 木造彩色 110,0cm 藤原時代  

兜跋毘沙門天立像 木造彩色 184,8cm 藤原時代  

●兜跋毘沙門天   半跏像          藤原時代

四天王立像 木造彩色 持国天138,0cm・増長天139,0cm・広目天141,0cm・多門天141,0cm 藤原時代  

軍荼利明王 木造彩色 206,3cm 藤原時代 

●釈迦堂縁起 紙本著色 巻子装 34,81589,0cm 室町時代  

●融通念仏縁起 紙本著色 巻子装 上巻34,81990.0cm 下巻34,82050,0cm 室町時代 等

十大弟子 木造彩色  78,8cm81,2cm  藤原時代 


十大弟子を挙げると以下の様になる。

舎利弗(しゃりほつ) 婆羅門(バラモン)の出身で八大仏跡の一つナーランダー近くで生まれたとされる、梵語ではśāriputra(シャーリプトラ)とされパーリ語(pāli)śāriputta(サーリプッタ)と言い、優波低沙(うばてしゃ)舎利子とも呼ばれている、因みに般若心経では仏の対話相手として登場し舎利子と記述されている。
putta
の音訳が弗で意訳が子で釈迦より先に入滅するが、十大弟子の上足で目連や250人の弟子集団と共に六師外道(注3)の一人であるサンジャ・ベーラッテイブッタの教団から釈尊に帰依する、智慧第一と言われ衆生教化に務める、舎利弗は釈尊に帰依してから半月で覚りに到達、すなわち阿羅漢になったと言い、祇園精舎の建設を指揮したとされる、諸経典特に妙法蓮華教般若心経のなかでは釈迦の説法の相手すなわち対告者(たいごうしゃ)として多く登場しており、仏教の後継者として「法王子」の記述もある、法華経(第二巻)譬喩品(ひゆぼん)(第三)では羅漢の道を捨て一乗の菩薩を進む事により、無限の遠い未来に華光如来(かこうにょらい)(紅蓮に輝く如来)となり離垢と言う浄土に住むという、離垢での一番弟子は堅満(けんまん)菩薩と言う。
因みに仏教とライバル関係にあったジャイナ教の経典「聖仙の言葉」すなわちイシパーシャイムに於いては仏教の祖は釈尊ではなく舎利弗であると言う記述もある、教義の理論化に優れ釈尊からは尊敬を込めて善友・仏陀などと呼びかけられたと言う、仏教に於ける舎利弗の影響はキリスト教に於けるイエスとパウロとの法系に近いかもしれない、因みにパウロとは新約聖書の著作に関わりを持ちキリスト教発展の礎を構築した。
釈尊からも尊敬され教祖説もある舎利弗であるが、維摩経では大乗仏教をオーソライズさせる為に利用されている、小乗仏教(劣る、hīnayāna)の代表としてピエロ的に扱われている。
舎利子の舎利はサンチー・サトウダーラの第二塔で目犍連の舎利と共に発見されている、Pāli語の
律蔵大品(マハーヴァッガ、大いなる章)と言う資料に依れば目連と共にサンジャ・ベーラッテイブッタの教団から釈尊に帰依する状況が記述されていると言う。   密号 般若金剛、巧智金剛。 
 

目犍連(もっけんれん) 梵語ではmahā maudgalyāyana(マハーマウドガリヤーヤナ)とされパーリ語でMahā moggallānaマハーモッガラーナ)と言い倶律陀(くりた)とも記述されるが通常は略して目連と呼ばれている。
神通第一と言われている、当初は隣村出身で竹馬の友の舎利弗と共に不可知・懐疑論者のサンジャヤ・ベーラッティプッタ(散若夷毘羅梨沸)のサンガに所属していたが、舎利弗と共に釈迦の弟子となり二人は教団の上足として釈尊を補佐した、僅か七日間で阿羅漢に成ったとされる、目連を慕う入信者を多く獲得する事から修行中に外道所謂バラモンに殺害される。 

彼が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が中国を経て日本にも伝わる盂蘭盆会(うらぼんえ)の起源とも言われる、此の伝承は竺法護訳の「盂蘭盆経」に記述され715日には東アジアでも行われている、但し経典は梵語(saskta)、パーリ語(pāli)及びチベット語訳も存在しない、竺法護訳との伝承も疑問で偽経説が強い、但し近年訳経史を研究する岡部和雄氏等から偽経と断定は困難との説が見られる、因みに盂蘭盆会とは梵語のウッランパナ(ullambana)の音訳であり裏表とは関係ない、因みに盂蘭盆会は夏安居の最終日が充てられている、一説には古代イラン語のウルバンを語源とするとも言われている、また「盂蘭盆経」は禅宗が依経としている「父母恩重経」や「地蔵菩薩発心因縁十王経」「延命十句観音経」等と共に中国で作られた偽経である。  密号 妙用金剛。     

大迦葉(だいかしょう) 梵語ではmahākāśyapa(マハーカシャバ)とされパーリ語でMahākassapa(マハーカッサパ)と言う、畢鉢羅耶那(びばらやーな) ・頭陀(ずだ・苦行)第一とされ王舎城付近の婆羅門(バラモン)の出身で釈尊に弟子入りした時点で三十二相(八十種好)の内七相を備えていたと言われる。
釈尊の涅槃には立ち会えなかったが、舎利弗の没後と思われるが教団の上足を勤め、仏滅後に教団を統率し王舎城七葉窟に於いて記憶力の優れた阿難達を従えて500人の羅漢と共に釈梼の教義を編集すなわち第一結集を行う、また釈尊の教義・奥義を直伝する「付法蔵」の第一祖となる、釈梼の事実上の後継者で禅宗では創設者として崇めている、霊鷲山に於いて釈尊の趣旨を理解したとして正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙(みみょう)法門・不立(ふりゅう)文字(もんじ)・教外別伝の真理を授けられたとされる。
釈迦入滅後20年生存したとされる、晩年は教団の運営を阿難陀に託して鶏足山で禅定に入り、そのまま生涯を終える。  密号 離塵金剛。 
 

須菩提(しゅぼだい) 梵語でsubhūtiスブーティ)、カースト(注1)第三位のヴァイシュヤ出身であるが舎衛国の長者の出身で解空第一とか、人と争わない事から無諍(むじょう)第一とも言われる。
難解な般若の空論を解いたとされ般若経に於いては主役的立場に居る、空を説いた初期の「八千頌般若経」に於いては釈尊が須菩提に説く形で成立している、その他の大乗経典にしばしば登場する、祇園精舎は須菩提の伯父の須達多長者寄進からなる、祇園精舎が完成の日に出家したとされる、維摩経や般若経典に多く記述されている。八千頌般若経はBC1世紀頃の梵語のa
ṣṭasāhasrikā-prajñāpāramitā-sūtraで支婁迦讖と鳩摩羅什の漢訳がある。安倍文殊院に於いて国宝に指定される渡海文殊菩薩の脇侍の一尊に通常は仏陀波利三蔵であるが須菩提とされている。    密号 無相金剛 


富楼那弥多羅尼子(ふるなみたにし)
 梵語ではpūra  amaitrayan ī  putraプールナマイトラーヤニープトラ)。
正式には富楼那・弥多羅尼・弗多羅(プルナ・マイトラヤニー・プトラ)という、弁舌爽やかで説法第一とされバラモン長者の出身外道に帰依するが釈迦成道と共に弟子となる、ヴェーダ聖典にも通じており釈尊の説法の咀嚼に優れ多くの国の言葉が話せた、叔父に釈尊の初転法輪を聞いて十大弟子の内で最古参の弟子となる。
ヴェーダ聖典即ち「四善定五神通」を会得していたが山に入り苦行の道に入る、、因みに生年月日は釈尊と同一と言われる。弟子入りする以前から舎利弗とは親交があったとされる。覚者となった阿若喬陳如(あなきょうじんにょ)を持つ。富楼那とは別人説がある。 


迦旃(かせんねん)
 梵語ではmahā kātāyana(マハーカーテイヤヤハ)とされ、パーリ語(pāli)Mahākaccāna(マハーカッチャーナ)と言い、那羅陀とも言う。
鹿野苑で得度、理論家で論議第一でとされバラモン長者の出身とも
クシャトリアとも言われる、辺地では5人の師しかいなくても授戒する許可を仏から得た、釈迦が転輪聖王か覚者となる事を予言したアシタ仙の弟子でもあった。
釈尊と年齢に開きがあり紀元前後の生誕説もある、部派仏教の一派を率いて阿毘達磨発智論を著したと言う。
難解な教義を理解しやすく咀嚼したが、哲学的論議に長けていた。  密号 弁才金剛 

 

阿那律(あなりつ) 梵語ではaniruddha(アニルッダ)、天眼第一で学識に優れており、出自に諸説が在るが釈尊の従兄弟とされる。阿難陀とともに出家した。仏の前で居眠りして叱責をうけ、「常坐不臥(じゅざふが)」すなわち横になって眠らぬ誓いをたて視力を失ったが真理を見る眼を獲得した。 

 

優波離(うばり) 梵語ではupāli(ウパーリ)、持律第一で出身は釈迦族の理髪師、カースト制度を否定する釈尊により、出家した順序にしたがい貴族出身の比丘の兄弟子とされた、教団内のトラブルの解決に優れていた。
第一結集に参加、彼の記憶に基づいて律蔵が編纂されたとされる。  密号 厂羅(かんら)金剛。 

 

羅睺羅(らごら)  梵語ではrāhula(ラーフラ)と言い、羅云とも言われる、戒行、密行第一とされる。
釈尊の出家以前にヤショーダラー妃の間にできた実子。
釈尊の帰郷時に出家して12歳で最初の沙弥(少年僧)となる、羅睺羅の師は舎利弗であり20歳で受けた具足戒も舎利弗からである。    

 

阿難陀(あなんだ) 梵語ではānanda(アーナンダ)、多聞第一とされ釈梼の従兄弟とされる。出家して以来釈梼の入滅まで25年間釈尊の秘書的存在で84千の法門を護持していた。第一結集に貢献し阿難の記憶に基づいて経典が編纂された、中国に於ける釈迦三尊像には大迦葉と共に脇持として多く存在する、また女性の出家すなわち比丘尼達の僧伽(サンガ)(教団)成立や優婆夷(うばい)(女性在家信者)の参加に貢献する、即ち阿難陀は釈尊の仏教に普遍性を加え更に発展に足掛りを構築した、因みに男性在家信者を優婆塞(うばそく)と言い「仏の四衆」(注5)成立に貢献する。
禅宗に於いては大迦葉に次ぐ存在である、多くの経典の冒頭に書かれている「如是我聞」の我とは阿難陀の事と言われる、浄土真宗の根本経典・無量寿経も釈尊から阿難陀が拝した経典とされている。
増一阿含経や観無量寿経等に於いて悪名高い提婆達多(デーバダッタ Devadatta)は阿難陀の兄との説がある、阿難陀が登場する仏典は「七夢十善経」「犢子経」「賢愚経」「羅旬踰経」等がある。   密号 集法金剛 

 
200635日瑞像 2007725日栴檀  2013628日十大弟子修正 加筆

 

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