仏像案内 寺院案内 佛教宗派
芭蕉門下の俊英で江戸時代前期の俳諧師・服部嵐雪が「布団着て寝たる姿や東山」と詠んだ、北の比叡山から南へ十二km稲荷山までの東山三十六峰を背にしている、正式名称を音羽山・清水寺と言う、開山は798年坂上田村麻呂と伝えられ大和・子島寺(注5・南観音寺)の「報恩」の弟子「延鎮」により創建された、当初は北観音寺と言う私寺としての発足であるが7年後に公認されて清水寺と改めた、因みに北観音寺時代は高野山真言宗に所属する子島寺の末寺であった為に本堂は密教様式の平面プランを取り入れている。
天下の五名水の一つとされる奥の院に在る「名ばかりの滝」音羽の滝の清水から寺名が変えられたと言う, 因みに日本に清水寺の文字で現される寺は八十ヶ寺を超えると言う。
境内には国宝の本堂の他15件余りの重要文化財指定の堂宇を持つ、本堂の本尊は千手観音で清水型とも言われ左右の両臂を頭上に挙げ小さな如来像を奉げている、また脇侍に地蔵菩薩と毘沙門天を従へている、これは田村麻呂が奥州に赴き苦戦していた時に助けられた伝承から勝軍地蔵・勝敵毘沙門天と呼ばれている、因みに平安京が安定したのは同母兄弟の平城上皇と嵯峨天皇が争った薬子の変(平城太上天皇の変)を完全に制圧した嵯峨天皇に時代であるが、田村麻呂と和気清麻呂の存在なくして安定は無かったと言えよう、閑話休題、田村麻呂の開山が伝えられる寺の本尊は十一面観音や毘沙門天が多いと言う指摘がある。
奥の院本尊は快慶作の可能性を秘めた千手観音菩薩で、寺では三面千手観音と呼ばれ真面とほぼ同サイズの面を左右に置き、頭部に二十四面の小像を配置する二十七面である、通常の千手観音像は十一面が大勢を占めるが二十七面は清水寺と法性寺の国宝・千手観音菩薩や絵画で胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院と希少である。
十一面観音と脇侍である地蔵菩薩と毘沙門天は秘仏(33年毎に開扉)であり拝観は不可能であるが、姿形は異なるが「お前立ち佛」が置かれており、奥の院の前立ち佛は頭部の化佛の上に脇臂を伸ばしその手に化佛を置く特異な千手観音である、但し近年重文指定を受けた奥の院・本尊(秘仏)は座像で二十七面ではあるが胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院の右に画かれる千手観音と多くの共通項を持っている、因みにお前立の観音菩薩は毎年八月十四日~十六日まで拝観可能となる。
秘仏の典拠として知られる経典に「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求羅尼経」「七倶胝佛母所説准提陀羅尼経」が知られている。
「四条五条の橋の上、老若男女
「
805年桓武天皇の御願寺になって以来国家権力の庇護のもとに伽藍を形成されたが法相宗で興福寺の末寺的存在であったが為、天台系で祇園社(現在の八坂神社)を拠点とする延暦寺の山門宗徒との抗争で焼き討ちに度々遭い、そのつど復旧されたが現在の堂宇大部分は1633年徳川家光の援助で再建された堂婆で占られる、当時の朱印高は133石で在ったと言う。
正堂・礼堂・舞台の三堂で構成される本堂の懸造(舞台造)は日本最大の規模をもち、長さ12mに及ぶ柱は一辺が約1mで耐久性を持つ欅材を使用材し、遊びの大きい
京洛での天台宗と法相宗の争いは長期間に及ぶ、清水寺は南都仏教すなわち法相宗の京都に於ける拠点であり、天台宗の拠点である八坂神社との確執は激しく堂宇は十数回罹災しているが、広範囲からの信仰は篤くその都度早い速度で復旧している。
なお清水寺は西国三十三箇所観音霊場の十六番札所としての信仰を集め「清水寺参詣曼陀羅図」等に描かれ大衆に定着した、明治の廃仏毀釈等の波を受け境内の寺領を一割以下に減らして現在にいたる。
その他「洛陽三十三所観音霊場」と言う組織が在り歴史は古いが長期間途絶えていたが復活した、清水寺は10~14番札所となっている、1番、
伽藍は本堂・鐘楼・西門・開山堂・奥の院・三重塔・釈迦堂・阿弥陀堂・成就院(元本坊)などを配置している。
1914年興福寺の貫主を勤めた大西良慶氏を迎える、閑話休題、清水寺は興福寺の末寺であったが、第二次世界大戦後1965年法隆寺とほぼ時を同じくして法相宗から独立した北法相宗の総本山となる、平安時代より大和(奈良)を南都と呼び京都を北都と呼ばれた事から北法相宗と呼称されたと考えられる。
また当寺阿弥陀堂は法然上人二十五霊場の13番札所でもある、また北総門近くに「胎内めぐり」が出来る子院・慈心院の本堂である随求堂があり秘仏ではあるが稀有な大随求菩薩(注4、110cm 江戸時代)がある、ただし胎内めぐりに於いて悲母菩薩の梵字を拝観する事が出来る。
1994年(平成6年)千二百年に亘る恩讐を超越した和解の碑が建立された、「北天の雄
注1、 懸造 舞台造を言う、本来山岳信仰を行う密教系の寺院に多く作られ傾斜地に前面の縁束を伸ばして床組みを化粧で表わす。 当寺本堂・石山寺本堂 ・東大寺二月堂・長谷寺本堂・三佛寺投入堂があり三佛寺を除けば観音菩薩を本尊とする堂に多い、観音菩薩は補陀落山に住むとの伝承から山の斜面に堂が建てられている。
注2、坂上田村麻呂
758~811 平安時代の優れた武将で渡来系の東(倭)漢の子孫。804年征夷大将軍に任じられ中納言・中衛大将・右近衛大将・大納言を経て正三位、娘は桓武天皇の後宮に入り子を為す。観音信仰に篤く清水寺の創建に関与、東北地方にも田村麻呂が関与したとの伝承がある観音堂・毘沙門堂がある。
注3、奥の院本尊 千手観音坐像(重文)は通常十一面が多数を占めるが清水寺奥の院の観音は27面千手観音菩薩で重文指定を受け秘仏である、但し前立ちの千手観音菩薩(木造 64,9cm 江戸時代)は拝観できる、本尊と同型で三面千手観音と言い本面と同サイズの左右面と頭部に24面の菩薩で、東山本町法性寺の頭部27面とは様式が異なる。 また絵画に於いては胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院の千手観音が27面である。また法性寺の千手観音は立像で27面を持ち国宝に指定されている(木造桜一木造古色 109,7cm 藤原時代)
ちなみに奈良大安寺の伝馬頭観音は千手観音菩薩で重要文化財指定を受けている。
注4、大随求菩薩 梵語名 マハーブラヂーサラー(Mahāpratisarā)と言い「大随求陀羅尼経」を尊格化された像である、大随求(だいずいぐ)とは信者の求めに対して自在に応じるとする意味を持ち大自在菩薩と同尊である、随求に関する陀羅尼を伝える真言宗で篤く信仰されている。主な利益は無限の罪を解き、風雨を止め、戦乱兵火を鎮めるという、慈悲円満相を持ち八臂に梵篋・五鈷杵・宝輪・剣・斧等を持ち蓮華座に座る、胎蔵界曼荼羅に於いては蓮華部院(観音院)最上段に慈悲円満相で存在する、因みに清水寺の菩薩像は蓮華部院をモデルに造像されている、秘仏であるが博物館等での出張展示は行われている。
真言密教の興隆から平安時代に随求陀羅尼が重要視されたが造像例は少なく清水寺の随求堂の本尊として、豊臣秀吉の念持仏として高台寺に毘沙門天をその妻の吉祥天を従えて存在する、両尊とも秘仏であるが清水寺は胎内めぐりが出来る、姿形は慈悲円満相を持ち、八臂で右手に五鈷杵、剣、斧、三股戟、左手に輪宝を乗せた蓮華、索、宝幢、梵篋を持ち、蓮華坐に座る、胎蔵界曼荼羅の蓮華部院に存在している。
注5. 子島寺 延鎮(賢心)坂上田村麻呂が帰依した子島寺の僧、子島寺は760年玄昉の弟子報恩の創建で報恩山、千寿院、子島寺と言い高野山真言宗の寺で奈良県高市郡高取町大字観覚寺にあり、国宝の両部曼荼羅いわゆる子島曼荼羅(奈良国立博物館寄託)や重文の十一面観音菩薩(木造 彩色 207,0cm 東京国立博物館寄託)等を持つ古刹である、清水寺創建時は子嶋寺の末寺であった。
国宝の両部曼荼羅は正式名称を「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅」と言い一条天皇から病平癒の祈願に成功した子嶋寺の真興(しんごう)に授かったとされる傑作でである、真興は元来は興福寺の僧であるが真言宗子島流を当寺の観覚院に於いて起こす。
国宝 子島曼荼羅・胎蔵曼荼羅 349,0cm:308,0cm 金剛界曼荼 352,0cm:297,0cm
注6、千日詣り 清水寺では8月9日~10日・宵祭り14日~16日まで、観音菩薩の功徳で一日の参拝で千日参拝したと同等のご利益あると言う「千日詣り」が行われる。
注7、 成就院は清水寺の塔頭(元本坊)で名庭園があり春と秋に公開される(公開日未発表)因みに庭園の作者は諸説あり定かではない。
所在地 京都市東山区清水町1-294 075-551-1234
清水寺の文化財 表内は国宝 ●印重要文化財
名 称 |
適 用 |
時 代 |
本 堂 |
桁行9間 梁間(正堂)4間(礼堂)3間 礼堂正面7間に孫 庇・孫庇と左右翼廊で囲んだ処が舞台である。総桧皮葺 |
江戸時代 |
●十一面観音立像 木造彩色 166,7cm 藤原時代
●大日如来坐像 木造漆箔 233,0cm 藤原時代
●伝・観音菩薩立像 木造漆箔 玉眼 105,1cm 鎌倉時代
●伝・勢至菩薩立像 103,1cm 鎌倉時代
●千手観音菩薩坐像 木造 坐像 玉眼 金泥 彩色 64、9cm 鎌倉時代 奥の院本尊 秘仏 27面 快慶作の可能性
●毘沙門天立像 木造 77,5cm 平安時代
●経堂 桁行5間 梁間4間 入母屋造 本瓦葺 江戸時代
●三重塔 3間 本瓦葺 江戸時代
●阿弥陀堂 桁行3間 梁間3間 入母屋造 桟瓦葺 江戸時代
●仁王門 3間1戸 楼門 入母屋造 桧皮葺 江戸時代
●釈迦堂 桁行3間 桁行3間 寄棟造 江戸時代
●鐘楼 桁行1間 梁間2間 切妻造 本瓦葺 室町時代
●奥院 桁行5間 梁間5間 寄棟造 舞台造 桧皮葺 江戸時代
●奥院 桁行11間 梁間8間 寄棟造 桧皮葺 江戸時代
●朝倉堂 桁行5間 梁間3間 入母屋造 本瓦葺
●釈迦堂 桁行3間 梁間4間 寄棟造 本瓦葺 江戸時代
●西門 3間1戸 向拝1間 切妻造 桧皮葺 江戸時代
●朝比奈草摺曳図(伝・長谷川久蔵筆)板絵著色 絵馬 195,5:274,7cm 桃山時代
●渡海船額 板絵著色 額装 絵馬 四面 平均182,0:230,0cm 江戸時代 等 江戸時代 等 拝観否・阿弥陀堂は開扉
*十一面観音・は秘仏33年毎に開帳、次回は2033年3月3日~12月3日
仏像案内 寺院案内
最終加筆日 2004年12月24日 2010年8月8日 天台との確執 2014年7月31日 2015年10月7日功徳日他 2018年4月22日 2020年10月14日
2021年4月4日 4月28日加筆