神護寺

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 山号は高尾山、和気氏の私寺である神願寺(河内)と高雄山寺(高雄)を合併させる事により8249月に定額寺(注9となる、正式名称を「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」に改名し空海に与えられ14人の真言僧がおかれた、因みに楼門に記述されている寺名は覚深法親王(かくしんほつしんのう)(後陽成天皇の第一皇子・真言僧)の書と言われている、神護寺は最澄・空海の両巨匠が出会い、そして離反した処と言える。  
寺は道鏡放逐成功の見返りに和気清麻呂が桓武天皇から与えられ平安仏教発祥の拠点を為した寺である、即ち天台宗真言宗の発展に寄与した寺である、最澄が入唐以前に灌頂
梵 abhieka アビシェーク)を行った事がある、更に829年空海は入山以来約10年に亘り住持住職を務め真言宗密教興隆の礎を築いた寺である。
その後最澄も数回訪れており空海の下で金剛灌頂・胎蔵灌頂すなわち入壇灌頂(伝法灌頂)を受けた記録が神護寺に保管されており空海自筆の国宝「灌頂暦名」に最澄の名も明記されている、入壇灌頂とは曼荼羅の内で師から弟子へ授かる灌頂儀礼である 
神護寺からは空海が「三網」(さんごう)と言う組織を置く事により真雅(注7・真然(注8など多くの秀英が巣立っている、三網とは僧侶を統括する「上座」、管理者の「寺主」、現場で総務を行い指示を出す「維那(いな)」の組織である、空海は高弟の実慧(じちえ)真済(しんぜい)に寺を譲り高野山に入るが、真済等により寺観が整えられる。
300
年近く隆盛を謳歌した寺も阿弥陀信仰の興隆もあるが、1145年鳥羽上皇の逆鱗に触れ全山壊滅状態となる、この状態を嘆いた神護寺復興の貢献者で豪僧・(もん)(がく)上人(注4は「四十五ヶ条起請文」等を著し、後白河法皇に強訴するが逆に伊豆へ流罪となる、伊豆に於いて同じく流罪中の源頼朝の知遇を得て頼朝に挙兵を進言したとされる、頼朝が平家追討の旗を揚げる際に文覚と共に祈願して歩いた古刹群が後に「伊豆横道(よこどう)三十三観音霊場」に発展する、これは後鳥羽上皇と文覚の人間関係だけではなく権力抗争であり不遇であった九条家の復権により流罪を解かれたとの指摘もある。
源氏の挙兵後に平家の敗色が見えた頃
1182年)再び上皇に勧進し復興が叶うが頼朝の死後再び佐渡へ流罪となり神護寺は東寺の傘下に入る。
応仁の乱に於いて大師堂を残して焼失する、現在の堂宇は毘沙門堂・楼門・五大堂・鐘楼が1623年以後、金堂・多宝塔は1935年以後の造営である。
当寺も廃仏毀釈の打撃を受け境内寺領の最終部分20町歩を返還されたのは1952(昭和27年)の事である。
神護寺は東寺と共に密教美術の宝庫であり特に絵画に於いては特筆に値する、高雄曼荼羅両部曼荼羅・平安初期の最高傑作とされる本尊薬師如来、に観心寺如意輪観音と共に後期密教の官能性を思わせる・五大虚空蔵菩薩や、独尊の釈迦如来画(赤釈迦)は平安後期の最高傑作と言える,閑話休題、土門拳氏は好きな仏像はと問われると、即座に神護寺の薬師如来と答えると言う。
他にアンドレマルローをして日本のモナリザとまで言わしめた藤原隆信作の伝源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像画や灌頂暦名など国宝16点・重要文化財2300点以上にのぼる、また成田山・新勝寺の本尊・不動明王は元来神護寺の所有であるが将門の乱に於いて調伏の為に成田に赴きいまだに返還されていないと言う、閑話休題毎年不動尊の賃借料が新勝寺から支払われているが、近年百円から一万円に改定されたとされる、これらの寺宝は「宝物虫払行事」が51?5日まで行われ拝観が可能である。
(但し冬の五大虚空蔵菩薩拝観は不可 ・要予約)  
厳しい表情の国宝・薬師如来が著名であるが、これは道鏡が邪魔になる既得権益に執着する藤原一門に於ける道鏡怨霊封殺の願望とも言われている。
源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像画は1995年に上智大学の米倉教授から・足利尊氏・直義・義詮との説が発表され、こちらが真説の可能性が高い様である。 

高雄は槙尾(まきお)(とがの)()と共に洛西の三尾の中に入り、神護寺の周辺は「紅葉と言えば高雄」と言われる様に賑わいを見せるが、瀬戸内寂聴尼も言われる様に冬の神護寺は一段と趣が深い。
また梵鐘は日本三名鐘の一鐘に数えられている、銘文の神護寺、姿形の平等院と三井の晩鐘として著名で音色の三井寺が言われるが、三井寺に代わり栄山寺が平安の三絶の一鐘として加えられる事もある。
西国薬師
を巡礼する霊場に薬師如来を本尊とする49寺が参加しており、神護寺は44番札所となっている。

神護寺と言う寺名について、通常は日本で神仏習合が容認された明治以前に、神社に附属及び管理する為に仏教寺院に銘々された名称で、*別当寺*神宮寺*神願寺(じんがんじ)*神供寺(じんぐうじ)*神宮院*宮寺等があり、社寺複合施設を言う。


高野山真言宗 遺跡(ゆいせき)本山遺跡とは遺品や遺構の存在する場所)        所在地  京都市右京区梅が畑高雄町5   ℡ 075861-1769       


神護寺の文化財  表内は国宝   印重要文化財

       名           称 

               適                         用 

  時  代 

  薬師如来立像 

 木造(カヤ材) 素地  169,cm  道鏡鎮魂の為に造像された 

 平安時代 

  五大虚空蔵菩薩坐像 

 木造彩色 木屎漆補填  五尊      多宝塔内 

 平安時代 

  両部曼荼羅    二幅 

 紫綾金銀泥絵 胎・447,8×408,1金・408,×367,6 

 平安時代

  釈迦如来画像 

 絹本著色 159,×84,5cm 説法印 赤釈迦

 平安時代 

  源頼朝他二人肖像 

 平重盛・藤原光能 絹本著色 各幅139,4×11,cm
 京都国立博物館寄託 

 鎌倉時代 

  山 水 画 

 六曲 屏風  各扇1108×375cm 一叟
 京都国立博物館寄託 

 鎌倉時代 

  灌頂暦名 

 一巻 空海自筆  最澄の名も 

 平安時代 

  文覚上人四五箇条起請文 

 一巻 藤原忠親筆 

 鎌倉時代 

  梵    鐘 

 三絶の鐘 ・日本三名鐘 貞観十七年の銘 H149cm 径80,3cm  

 平安時代 

 

日光・月光菩薩 木造 日光151,cm 月光150,0cm 平安・鎌倉時代・混   

薬師如来坐像 木心乾漆 68,3cm 平安時代    京都国立博物館寄託  

板彫り弘法大師 木造彩色 136,7cm 鎌倉時代   

愛染明王坐像 木造彩色 39,7cm 鎌倉時代  康円(運慶の孫)   東京国立博物館寄託  

毘沙門天立像 木造彩色 112,4cm 藤原時代   

大師堂 桁行左4間 背面5間 梁間正面3間 背面4間 入母屋造 柿葺 空海の住坊跡 桃山時代、  

真言八祖像 8幅 絹本著色 掛幅装 158,5×125,2cm 鎌倉時代   奈良国立博物館寄託

十二天像 絹本著色 六曲屏風 157,3×57,9cm 鎌倉時代   京都国立博物館寄託

文覚上人像 絹本著色 掛幅装 121,2×110,6cm 鎌倉時代  

足利義持像 絹本著色 掛幅装 113,六×59,0cm 室町時代 

神護寺経 紺紙金字一切経  絹本著色 宝相華唐草文様表紙  平安時代  京都国立博物館寄託   他 


1、 定額寺  天皇の勅願により寺名を記す額を与えられ官寺に準ずる待遇が受けられる寺を言う,皇室の繁栄祈願を目的としており国の制約を受けるが多くの権限をもち収入面に於いて安定する、勅願は824年に与えられ神護寺が嚆矢である。  

2、五大虚空蔵菩薩 金剛界五佛の化身とされる、富貴・息災・受益・富貴を祈願する「虚空蔵求聞持法」の本尊である。
1、中央 法界虚空蔵菩薩(解脱虚空蔵)白色 100,cm  
2、東方 金剛虚空蔵菩薩(福徳虚空蔵)黄色 101,4cm  
3、南方 宝光虚空蔵菩薩(能萬虚空蔵)緑青色 95,0cm  
4、西方 蓮華虚空蔵菩薩(施願虚空蔵)赤色 98,0cm  
5、北方 業用(ごうよう)虚空蔵菩薩(無垢虚空蔵)黒色 99,0cm      *大阪・観心寺の国宝・意輪観音と同一作者と思はれる。
 
  五大虚空蔵菩薩 通常は拝観否・但し期間により往復はがきの問い合わせにより可能。 

3、両界曼荼羅 現存する曼荼羅中最古の作で高雄曼荼羅として著名であり損傷、剥げ落ちが多いが唐様を示す,但し真言密教に於いては両部曼荼羅と呼ぶのが正しい。 

4文覚(もんがく) 出自は定かでない、鎌倉初期の真言宗の僧、生没年不詳、遠藤盛遠といい鳥羽天皇の皇女に仕えた武士であった、出自に関する資料として「平家物語」「続群書類従」等在るが信頼性は薄い、東寺、や神護寺の復興に貢献する等行動は真言僧であるが、真言宗の血脈系譜に記述が無く修験者との指摘もある、また文覚は不動信仰に篤い行者であった様だ。
出家後諸国霊山を巡って修行し京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが、後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強訴したことから伊豆に流罪にされた、しかし権力抗争の色彩が強く文覚は九条家の盛衰に連動している様である。
流罪先で源頼朝と知己を得て彼に挙兵を進言しとされる、鎌倉幕府成立後は頼朝の信任は厚く、京都と鎌倉を往復、諸国の情勢を頼朝に伝える諜報活動を行う。
頼朝の協力で神護寺は復興するが頼朝が死去するとともにその地位を失い新たに朝廷内に台頭した源通親によって佐渡へ流罪、源平盛衰記に長谷観音の申し子としての記述がある、文覚が出家した動機は源平盛衰記に依れば身内で同僚の妻に横恋慕し同僚の殺害を試み、恋慕した女を誤って殺害したとされる、この事例は源平盛衰記以外に記述は見られず、事件を中国に於ける古文書から引用した可能性が高い。

5、アンドレ、マルロー  19011976年 フランス人文学者で軍人・政治家 1974年訪日、1926年「西洋の誘惑」、「征服者たち」、カンボジアを扱い「王道」、共産主義の崩壊を扱う「人間の条件」等の著作がある、芸術に造詣が深く「芸術の心理」「空想美術館」などの作品もある、1939年フランス軍に入隊し戦車部隊で勤務する、1940年に捕虜となるが脱走し後にレジスタンスに参加、司令官となり各地で参戦し武勲を受ける、ドゴール将軍に出会い親交を持つ、1958年ドゴール大統領下で情報相、1960年~1969年文化相を勤める。

6、藤原隆信  11421205年 平安末期の画家で歌人。父は大原三寂の一人藤原為経で藤原定家の異父兄とされる、越前守・若狭守・右馬権頭・右京権大夫に任ぜられ正四位下に叙せられた。神護寺略記には後白河院・源頼朝などの肖像画をかいたと記録される。   現存する神護寺蔵の源頼朝像・平重盛像・藤原光能像は彼の作とされるがその真否は不詳である。子供に画家の信実、晩年には法然に帰依して得度。     絵師

7真雅(しんが)  801879   真言宗・小野流の祖で法光大師の諡号を持ち空海の弟である。空海を師とし19歳で具足戒を受ける、後に嵯峨天皇に依頼され清和天皇の生誕を祈願。 

825年弘福寺(川原寺)別当、847年東大寺別当、856年大僧都となる、清和天皇や藤原良房の帰依を受け貞観寺僧正となる、860東寺長者。 

弟子に真然(注7)や醍醐寺を起こした聖宝がいる。 


8真然(しんねん) 804~892  智泉
空海の甥で高野山に於ける伽藍の完成者で高野山の経営の安定に努め、座主制を採用した、没後の事であるが「三十帖策子」の貸借をめぐり高野山と教王護国寺の紛争の原因を作る、874権律師、884年教王護国寺長者。
智泉も空海の甥で空海の入唐に随行したとも言われる、空海の案内で大安寺に於いて受戒、行基の開いた岩船寺中興の祖とされるが定かではない、嵯峨天皇の妃(橘嘉智子)の皇子誕生を祈願し後の
仁明天皇が誕生する。

注9、定額寺 官寺や国分寺に準ずる寺格を持つ寺とされる、定額とは定かではないが寺名が与えられ扁額が下賜された寺、とか官費僧が派遣されるか任命された寺との主張が有る、寺や仏像の修理料や灯分料の施入があり、事実上官寺の末端に位置し国の安寧を祈願した。

五大虚空蔵菩薩 拝観否・但し期間により往復はがきの問い合わせにより可能。



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最終加筆日20041116日  200577日 2009720日 2011年6月28日注8 2014年1月9日洛西の三尾 2017年5月25日 2020年8月19日加筆   

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