即成院

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山号を光明山と言う、当初は光明院と言い水運交通の要衝である伏見にあり即成就院・伏見寺とも呼ばれ991恵心僧都(源信)の創建が伝えられるが、伏見城建立で立ち退き現在は泉涌寺山門の隅にあり泉涌寺の塔頭寺院である。
応仁の乱に於いて被害を受け、豊臣秀吉の伏見城築城の為に移転を余儀なくされ、深草大亀谷を経て現在地に移住したのは明治初年に於ける
廃仏毀釈以降である、元来は平等院を創建した藤原頼道の一子である橘俊綱が1087年伏見に阿弥陀堂を建立したのを嚆矢とされるが、現在は同じく泉涌寺の塔頭寺院・戒光寺に隣接している。   
即成院は建立の経緯の如く平等院の影響を受けている様で当院の至宝である阿弥陀如来聖衆(しょうじゅ)菩薩のパンテオンPantheonとも言える聖衆来迎(しょうじゅらいごう)と呼ばれる二十五菩薩は大仏師定朝の指揮下の造像師群制作の可能性を持った像が十尊ほど存在している、確かに二十五菩薩の表情や姿形は平等院の雲中供養菩薩の様に輝きが感じられる、因みに聖衆とは臨終の時に、来迎する阿弥陀如来に従い往生に導く菩薩達を言う。   
阿弥陀如来による二十五菩薩の来迎図は多く存在するが、重要文化財指定を受けた彫刻像すなわち阿弥陀聖衆来迎尊が揃うのは造像年代に相違はあるが即成院しか存在せず貴重である、即成院の25菩薩の内で観音菩薩(他の菩薩は木製の冠)は冠を付けていないが、造像当初は観音菩薩のみ冠は金属製であったとされる、しかもこの観音菩薩は来迎の為の蓮台を手にしている貴重な尊像である。  
木造漆箔に彩色が施され阿弥陀如来は223.6cmの坐像を79.1cm96.7 cmの菩薩像が従う、藤原時代1094年頃)の作品であるが15尊は江戸時代の補作である。
10月の第3日曜日には二十五菩薩の供養法要が行われ本堂(極楽浄土)から地蔵堂(現世)までの仮設通路を地蔵菩薩の先導で菩薩面を着けた子供達が練り歩く。
また平家物語に依る屋島合戦で著名な那須与一ゆかりの寺として知られている、与一は即成院で庵を結び出家し晩年を過ごしたとされる。  

真言宗寺派     所在地     京都市東山区泉湧寺山内町28     п@075-561-3443  

  

阿弥陀如来に従う”聖衆来迎”する二十五尊の菩薩名
観音菩薩 ・勢至菩薩 ・地蔵菩薩
(衆宝王菩薩) 普賢菩薩 ・虚空蔵菩薩  ・薬王菩薩 ・薬上菩薩 ・法自在王菩薩 ・獅子吼菩薩 ・柁羅尼菩薩 ・徳蔵菩薩 ・宝蔵菩薩 ・金蔵菩薩 ・金剛蔵菩薩 ・山海慧菩薩 ・光明王菩薩 ・華厳王菩薩 ・月光王菩薩 ・日光王菩薩(日照王菩薩) ・三昧王菩薩 ・定自在王菩薩 ・大自在王菩薩 ・白象王菩薩 ・大威徳王菩薩 ・無辺身菩薩 の25菩薩であるが、呼称に差異がある。
* 聖衆来迎とは浄土の菩薩達が阿弥陀如来と共にに臨終を迎える死者を迎えに来る事を言う。

1、藤原道長の孫、即ち藤原頼道の子供である橘俊綱による創建の為平等院との関連は信頼性が高い。

2
御寺泉涌寺公式サイト。 


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2008年7月20日 2015621日 2016年2月5日更新 2021年1月有20日聖衆来迎加筆 

 

 



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