青蓮院 

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洛内には多くの寺院があるが、耽美な響きを醸し出す名称は青蓮院が筆頭であろう、ただし青蓮の語意は「仏の32相」仏像1参照)の内、真青眼相(しんせいがんそう)すなわち「眼晴は青蓮華」の紺青から銘々されたとされる。
青蓮院(しょうれんにん)(しょうれんいん)は当初は比叡山の東塔・南谷にある青蓮坊と呼ぶ僧坊であった、最澄円仁・安恵・相応等も僧坊とした場所と言われているが定かではない、1150年比叡山の行玄10971155年・摂政・関白・太政大臣を務めた藤原師実の一子)による創建で天台三千坊の内東塔の青蓮坊に居宅したのを嚆矢とされる、後に京都に移されたが寺格は比叡山にあり、青蓮院は延暦寺12世「行玄」以来座主の居住する都の里坊、即ち院家(注1)であり広大な本堂などは所持していないが、院の御所に準ずる瀟洒な堂宇を建造された、山号を持たず当初は十楽院と呼ばれたが白川や吉水に移転を繰り返した1237年現在地に移る。
移転当初は現在の知恩院から大谷廟、東山連峰の分水嶺に至る膨大な敷地を有していたが徳川時代になり知恩院本願寺に提供させられて現在は一割程度の寺地に甘んじている、因みに東山連峰とは洛内を比叡山から稲荷山に至る、凡そ12kmを南北に連なる山並み即ち東山三十六峰を言う。
   
地名から東山御所また1788年の大火で内裏が焼失の折に青蓮院に後桜町上皇の御所が置かれた事から粟田御所とも言われた、鳥羽法皇の皇子である覚快法親王が院主に就任してから門跡寺院になる。   

延暦寺で天台座主を四度務めた慈円が第三代門主に就任し天台三昧流の本丸として隆盛を極めた、後に信長による比叡山焼き討ちにより僧坊が無くなるが、古くから天台三門跡寺院すなわち青蓮院・妙法院三千院と交互に多くの天台座主を輩出し、青蓮院は256世の内48世の座主を輩出している名刹である、因みに明治の御代になり天台座主で門主であった尊融は還俗しており、中川宮・伏見宮を経て久邇宮(くにのみや)を拝命している、昭和天皇の皇后、香淳皇后は久邇宮家の出身である、因みに門主、東伏見慈晃師に対して香淳皇太后は叔母にあたる。


慈鎮和尚、即ち慈円(慈圓)は実兄九条兼実の影響もあるのか法然を擁護し当院の崇泰堂を与えた、また青蓮院は本願寺と緊密な関係を継続しており親鸞の得度をしたこともあり、長期に亘り代々本願寺の門主の得度を行った、しかし法然を擁護した吉水の地は江戸幕府に成り徳川家の菩提寺が知恩院である事もあり大部分を失う事になる。 

1893年の火災で本堂をはじめほとんどの堂宇を焼失し明治以降の建築物で占められる。
青蓮院の所持する文化財の最右翼に国宝・不動明王二童子像、通称青不動がある、安然が著わした「不動明王立印儀軌修行次第」の十九観相を基に描かれた図像である、青色は不動尊の最上位にあり日本三大不動画に数えられていると言う、因みに青蓮院の青不動尊の原画が1978年に大阪市東住吉区の「たなべ不動」即ち法楽寺に於いて発見された。
 

青蓮院は伏見天皇を父とする尊円(尊圓)親王が門主のとき書道の「青蓮院流」を起こし後には御家流・粟田口流・尊円流とも呼ばれた、因みに江戸時代に於ける公文書の書体は青蓮院流が使われていた。 

また京都五箇室門跡の一院で 妙法院(日吉門跡・境外仏堂に三十三間堂)  三千院(梶井門跡) 青蓮院(粟田御所)  曼殊院(竹内門跡)  毘沙門堂 を言い三千院・妙法院と共に天台三門跡寺院を形成している、門跡寺院の寺格は延暦寺に次いで高く本尊は比叡山に在ると言う解釈から広大な本堂は所持していない。
青蓮院の本尊は「熾盛光如来」と言う、円仁が乾坤一擲台密が東密に劣らない証として唐の青龍寺から将来した密教秘法で禁裏の勅命で行われた「熾盛光法」の本尊である、この如来は毛穴から光炎をして諸々の天すなわち日天、月天、星天、宿天などのを服従させご利益を(もたら)すとされる、現在の熾盛光法は11日~3日間に「熾盛光如来曼荼羅」と言う梵字で書かれた種子曼荼羅を本尊に掲げて行われている、熾盛光法は真言宗の最高秘奥とされる「後七日御修法(ごしちにち みしほ)」と双璧を為す大法である、熾盛光如来とは主に天台系に重用される、天変地異に関する行の本尊である、梵語で vikirṣṇia言い「摂一切仏頂王」とも記述される、熾盛光法の源流は円仁が齎した呪法で唐の青龍寺で行われていた秘法である

その他、池泉回遊式庭園
(注4)は国の史跡を受けており小堀遠州の霧島の庭もある、また・古文書など台密関連の文化財を多く残す。
青蓮院は近畿三十六不動尊霊場の十九番霊場であるが参加寺院は著名寺院が加盟しており四天王寺大覚寺仁和寺曼殊院・聖護院・青蓮院・智積院醍醐寺五大堂・根来寺さらに高野山の明王院、南院などが名を連ねているが、内部組織に不穏な雰囲気が感じられる。   
近畿三十六不動尊霊場会公式サイト
では全寺に作家・家田壮子氏のコラムが掲載されている。閑話休題、芥川龍之介は青蓮院を訪れて茶室の縁に腰かけてタバコを吸っている、大正から昭和初期にかけては自由闊達な好い時代であった様だ。


1、門跡寺院 宗派一門の祖師の法脈を継承する寺の事を言い、平安時代後期になると皇族や公家などが出家して代々入寺する寺を言うようになる、塀には5本線を入れる事が許された、江戸時代に宮門跡(天皇家の入室) 親王門跡(宮家から入室) ・攝家門跡(五摂家) ・清華門跡(公家)・准門跡(脇門跡・真宗系)・尼門跡(中宮寺・円照寺・法華寺、等)に分類された、但し1871年に公的な門跡寺院制度は廃止されたが門跡を呼称する事は許された、ちなみに門跡寺院とその門主は南都仏教と同じく葬儀の祭主を務める事は無かった、また本願寺等は青蓮院の脇門跡であった。

門跡寺院の関連に院家がある、「院家(いんげ)」とは門跡に次ぐ格式をもち門跡の後見、補佐の役割を担う、後には皇族も含まれるが、当初は貴族出身の僧の住む寺を言われた、また前述の宇多上皇入寺の折りに従った貴族たちを院家衆と呼ばれた。

閑話休題、寺院と言う呼称は寺家と院家の合成語である、寺家は祖とその弟子の住僧を言い、寺の別舎で高僧達が日常生活を営む場所を院家と呼んだ  

2、本尊 ()盛光仏頂(じょうこうぶっちょう)如来  熾盛光如来とは「摂一切佛頂王」「熾盛光佛頂」とも言い、北極星を偶像化したとも言われ毛孔から飛光を撥生させる、無量の光明を発生させる、特に天台系に於いて天変地異等に関する修法に使われ天界に君臨する仏とされる。  

 

3、当院の国宝不動明王二童子像は下記の像と共に著名とされる。 印国宝 ●印重要文化財 

青不動(青蓮院) 絹本著色  掛幅装   203.3cm×148.5cm   平安時代
黄不動(園城寺) 絹本著色  掛幅装   178.2×72.1cm     平安時代       

黄不動(曼殊院) 絹本著色 掛幅装   168.2cm×80.3cm    平安時代    

●赤不動(高野山・正智院)木造彩色      94.8cm       平安時代  

五大明王(東寺)講堂   木造(草槙)彩色    100.9cm×201.5cm    平安時代

4池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園池及び周囲を中心に路を配置した庭で桂離宮・兼六園(金沢)等がある。

5九条(くじょう)兼実(かねざね) 平安末期の公卿、日本を代表する「
権門勢家(けんもんせいか)」藤原摂関家・藤原忠通の三男、天台座主で青蓮院の門主・慈円の実兄、1160年非参議・1164年内大臣・1166年右大臣・源頼朝に接近1191年関白となる、兼実は平氏に時代は冷遇されたが源氏の時代になり頼朝と親密になり権勢を謳歌した、1202年出家し円証と名乗る、念仏信者で法然の最大のスポンサーであり理解者、五摂家の内、直系の子孫が二条家・一条家を起こし九条家と合わせて直系が三家を占める、残る二家は近衛家と鷹司家である、1202年得度して円証を名乗り月輪殿に住んだ、父の忠通と共に法性寺に葬られた。 

実弟の慈円11551225)は吉水僧正と呼ばれ諡号は慈鎮と言い、幼少時に青蓮院に入り居宅する、比叡山に上るが後鳥羽上皇、 関白・九条兼実の力を背景に異例の速度で昇進を果たし1192年天台座主に就任、後座主を四度(62代・65代・69代・71代)勤め親鸞も得度を行う、後鳥羽上皇の護持僧や源頼朝とも親交をもつ、法然を庇い青蓮院の中の勢至堂を与え後に知恩院となる、いっぽう栄西を敵視した、東大寺大勧進職や法勝寺の修繕に活躍する栄西を妬んでか、後鳥羽上皇への接近を阻んだり愚管抄で批判した。
慈円は延暦寺を顕教、密教、記家、経家、等々専門分野を興して興隆に努めた。
青蓮院に於いて慈円は天台の秘法である熾盛光法を21回に亘り祭主を務めている、台密三昧流を継承している。
慈円の著作に「天台観学講縁起」「毘廬遮那別行経鈔」史論書「愚管抄」・歌集「拾玉集・しゅうぎょくしゅう」等があり、歌人・哲学者として著名である、「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をいう」 因みに平家物語作者は諸説交錯するが、盲目の歌人に仏道を感得させる為に慈円が兼実の雇われ人である信濃前司行長に書かせた著作との説が言われている。

慈円が空を詠んだ秀作がある「引き寄せて結べば柴の庵にて 解くれば元の野原なりけり」。

 

天台宗   所在地  京都市東山区粟田口       ℡ 075-561-2345




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2005123日 20082月 200912月 2010825日青蓮院流書体 2018年1月16日加筆 

  
  

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