知恩院

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 正式名称は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざんちおんきょういんおおたにでら)と言い、単に知恩教院とも呼ばれる、法閑話休題然房源空が生涯を終えた処である、また此処を拠点として浄土教を広めた聖地である,1603(慶長八年)徳川家康が征夷大将軍となり香華所(菩提寺)に定められた。 
京都市に於いて最大の賑わいを見せる東大路四条から徒歩で数分の距離に東山三十六峰(注5)の主峰である華頂山を背景に持ち、七万坪を遙かに超える広大な境内域を所有する、境内に百六棟の堂宇を有し、浄土宗七千ヶ寺を束ねる総本山知恩院はある。 
浄土宗
に於いては「知恩」とは特別な意味を持ち祖師の命日には知恩講と言う呼称で法然の徳を讃える為である、他宗派の多くは「報恩」と呼ばれている、因みに知恩院の呼称は宗祖・法然の「恩」を「知」る場所であるとされる。
現在地は天台座主を四度務めた慈円(じえん)
(九条兼実(かねざね)の弟 注4)から青蓮院の一坊で現在の勢至堂を与えられた法然上人が1212年に入寂した所である、その弟子で法然の臨終まで身辺に従い「一枚起請文」を授かり、百万遍知恩寺をも興したとされる勢観房・源智(平重盛の孫)が廟堂と御影堂(みえいどう)を建立し師の命日に知恩講を営んだ事に始まる、閑話休題、東西本願寺では自院の大堂を御影堂(ごえいどう)と呼んでいる。
1227年には幅広い信徒層により興隆する専修念仏に対する妬みから比叡山の宗徒に破壊を繰り返されるがその都度復旧する、更に1431年の火災で打撃を受けるが二十世空禅の48万人勧進などで復旧、応仁の乱被害後に於ける復興には二十二世珠琳が後土御門天皇などの帰依を受けて勅願所として発展する、さらに 1619年 第107代・()(よう)(ぜい)天皇の皇子・良純入道親王が門主として知恩院に入り以後門跡寺院となる。

一般には浄土宗の代名詞と見られている、知恩院は鎮西派・白旗流の総本山であるが他にも活動的な西山禅林寺派など複数の宗派がある。
鎮西派の中に於いても法然の居住所であった時期がある百万編知恩寺等と浄土宗の本家争いがあるが、1575年正親町(おおぎまち)帝の綸旨(りんし)や徳川家康の母堂を祭る菩提寺でもあり厚い援護を受けて基盤を不動のものとする。
伽藍が拡大するのは二九世尊照の時代で家康(徳川家は家康以前からの浄土宗徒)の援助が大きいが1633年にも火災に遭い御影堂・方丈などを失う、しかし秀忠の援助も大きく徳川将軍家の菩提寺にもなり直ちに復旧する、知恩院は二条城と共に京都に於ける徳川幕府の重要拠点であり、幕府の威信を京都に示す意味も含めて建造された禅宗様(唐様)の三門(注1は木造では日本最大の規模と豪華さを持ち門高24m余りあり、御所を一望することが出来て朝廷の監視所としての重要な機能を併せ持っていた、金戒光明寺や二条城と共に京都に於ける幕府の最重要拠点の役割を果たしていた。
重層部分の造作や絵画は豪華であり、彫刻は江戸時代の作が多く重文指定は近年であるが、宝冠釈迦如来三尊像・十六羅漢像などは技術的には繊細で完成度の高い彫刻である。
京都三大門と言われる山門に知恩院・南禅寺仁和寺があるが規模としては知恩院が最大である。 

2004年三門と共に国宝指定を受けた御影堂は1635
(寛永16年)家光の援助に依り再建された、旧本堂であった勢至堂の様式を踏襲するが、堂内は四千人の信徒を収容できるという規模となる、軒には左甚五郎の忘れ傘や、550mあると言う鴬張り廊下で著名である。
明治時代になり最大スポンサーである幕府消滅や廃仏毀釈の波にさらされるが末寺や信徒の組織を強化しピンチを脱して今日にいたっている。
当院の著名な国宝絵画には法然の生涯を描いた「法然上人絵伝」や、著名な阿弥陀如来の迅来迎とも呼ばれ観音、勢至を先頭に聖衆(しょうじゅ)を従える「阿弥陀二五菩薩来迎図」また古写経として世界最古と言われる「菩薩処胎経」「大楼炭経」があり京都国立博物館に寄託されている、因みに来迎(らいごう)であるが浄土宗に於いては「らいこう」と呼称されている。
知恩院の大小の方丈の障壁画は狩野尚信・信政、や狩野探幽の一番弟子とも言える久隅守景(くすみもりかげ)等の秀作が揃う。
また当寺は法然上人二十五霊場の25番満願札所である。

浄土宗に於いて2011年から法然上人八百年大遠忌(だいおんき)が行われる、これに伴い仏像の移籍が行われた、すなわち滋賀県の玉桂寺が所蔵していた重文指定の阿弥陀如来像(立像 木造 漆箔 玉眼 98.7㎝ 鎌倉時代)で、快慶若しくは弟子の作と言われる像で知恩院に移籍される、この尊像は師の最晩年まで共に行動し「一枚起請文」を授けられ知恩院の基盤を強固した、勢観房源智の主導で法然の一周忌の折に製作されたと言う由緒を持ち、五万人に近い結縁交名(けちえんきょうみょう) があり源智や著名人の署名がある 。
総本山知恩院(鎮西派)に続く七大本山に
・増上寺(東京都港区芝公園)・知恩寺(京都市左京区田中門前町)清浄華院(京都市上京区寺町通北ノ辺町)金戒光明寺(京都市左京区黒谷121・善導寺(福岡県久留米市善導寺町飯田)・光明寺(神奈川県鎌倉市材木座)善光寺本願(長野県長野市元善町)がある,此の内京都に存在する三ヶ寺に知恩院を含めた四ヶ寺を「京都四箇(しか)本山」と呼ばれている。 

浄土宗
 総本山      所在地 京都市東山区大和大路東入ル    ℡ 075-531-211    
浄土三部経(阿弥陀経観無量寿経大無量寿経)   

                   
三門(国宝)
                       
知恩院の文化財     表内は国宝    ●印重要文化財                                     

        名        称

            適                   用

     時   代

 阿弥陀二五菩薩来迎図  

 絹本著色 早来迎145,1×154,5cm  掛幅装  京都博寄託     

 鎌倉時代 

 三      門   

 5間三扉門   入母屋造 本瓦葺  五山形式 

 

 御影堂(本堂)   

 梁間5間 桁行3間 入母屋造 本瓦葺  

 江戸時代 

 法然上人絵伝  

 紙本著色 48巻 32,7×1199,6cm         京都博寄託 

 鎌倉時代 

 菩薩処胎経 しょたいきょう

 5帖                             京都博寄託 

 中国西魏時代  

 大楼炭経 だいろうたんきょう  

 巻第3                           京都博寄託 

 唐時代 

 上宮聖徳法王帝説 

 紙本墨書 1巻  26,7×228,8cm         奈良博寄託 

 平安時代  

阿弥陀如来立像 木造 98,cm 鎌倉時代  (非公開、御影堂) 

●阿弥陀如来立像
木造 漆箔 玉眼  98.7㎝  鎌倉時代    滋賀県、 玉桂寺より移設、法然八百年大遠忌の為。

●善導大師立像 木造彩色 玉眼  96,1cm  鎌倉時代  

勢至菩薩坐像 木造 56,0cm  鎌倉時代

●押出三尊佛 銅版 鍍金47,cm 箔押 18,3cm   

●大方丈 桁行9間梁間6間 入母屋造 桧皮葺 江戸時代   

●小方丈 桁行梁間5間 入母屋造 桧皮葺 江戸時代   

集会堂(しゅうえどう)   入母屋造 本瓦葺 江戸時代  

  

経蔵 桁行梁間3間 宝形造 本瓦葺 

●勢至堂  単層入母屋造本瓦葺、桁行21m、梁間20m 1530年再建で現存の知恩院最古の建造物、法然の幼名を勢至丸からの命名、 室町時代  

●唐門 四脚門 入母屋造 唐破風造 桧皮葺 江戸時代  

●阿弥陀浄土曼荼羅図 絹本著色 掛幅装 148,5134,8cm 鎌倉時代  

●紅玻瑠阿弥陀如来像(ぐはり)絹本著色 掛幅装 128,684,8cm 鎌倉時代  

地蔵菩薩像 絹本著色 掛幅装 193,974,8cm 鎌倉時代  

●当麻曼荼羅図 絹本著色 掛幅装 157,0145,7cm 鎌倉時代  

毘沙門天像 綾本著色 掛幅装 110,955,1cm 鎌倉時代 

●大鐘楼  知恩院の梵鐘は1636年(寛永13年)の鋳造で高さ3.3メートル、口径2.8メートル、総重量70トン,肉厚約30cmを誇り東大寺(高さ3.85メートル、総重量26.4トン)、方広寺(京都~高さ4.12メートル、口径2.26メートル、総重量82.8トン)三大巨鐘に数えられている。       

●法然上人絵 紙本著色 巻子装 41,11152,5cm 南北朝時代  

●阿弥陀浄土図 絹本著色 掛幅装 150,592,2cm 南宋  

●牡丹図 絹本著色 掛幅装 79,781,2cm 元   

●蓮華図 2幅 絹本著色 掛幅装 各122,074,8cm 元  

●桃李園金谷園図(とうりえんきんこくえん)2幅 絹本著色 掛幅装 各151,547,6cm 明   

●阿弥陀如来三尊像  江戸時代  三門の二階       江戸時代の代表作

●十六羅漢坐像 木造 江戸時代  三門の二階  16尊  江戸時代の代表作    等   

*御影堂12月25日公開             

1 三門 (山門)   仏界即ち覚りの世界と娑婆(現世 dṛṣṭa-dhārmika)の境界である、三門は主に禅宗伽藍の門を言い、・空解脱門・無相解脱門・無願(作)解脱門の三解脱門の略称とされる解釈と、三乗すなわち声聞・縁覚・菩薩の通る門とも言われる、当初とは意味合いを異にしており三門は三つの門即ち南門・東門・西門を言い、また中央に大門を置き左右に小門を配置した、後に左右が廃止されても三門と呼ばれた。 もう一つの説とっして、山門(三門)は結界を表している、結界siimaabandha)とは聖域と俗域の境界を言う即ち清浄な領域と不浄の領域との区切る処である。
また密教では・国土結界・道場結界・檀上結界があり、高野山や比叡山は国土結界とし、護摩修法等の場合は壇上結界とされている。
日本三大三門に*知恩院24m *南禅寺22m *身延山久遠寺(山梨県)21mを挙げる解説書がある。

山門は正門を意味している、山岳寺院の多い禅宗系では山門と呼称されている、禅宗寺院の正門を意味し他宗寺院の中門にあたり南大門にあたる門は総門と呼ばれる説とがある。
東福寺
大徳寺等禅宗寺院の三門が著名であるが、様式を踏襲した知恩院(国宝)などの例外もある、禅宗では三解脱門は空解脱門・無相解脱門・無願解脱門の三境地((さん)三昧(ざんまい))を経て仏国土に亘る、因みに三解脱の無相とは全ての執着を除外した心境を言い、無作とは自然のまま即ち無為をいう、三解脱は菩薩の悟りの境地を言う。 
また七堂伽藍の七は総てが揃うという意味を持ち数には拘らない。
   
2, 一枚起請文  法然が逝去する2日前に弟子の源智の与えたもので、一枚消息とも言い、念仏の真髄を易しく記述した請文で法然の遺書的な作、浄土宗に於いては最優先の名文書である、法然直筆とされる文書(法然上人真筆御遺訓)が金戒光明寺に存在する。

唐土我朝もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあざず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候ず。ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候べし。  
「念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法を能く能く学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同うして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪儀をふせんがために所存をしるし畢んぬ。 

建暦二年正月二十三日            
唐土(もろこし)  我朝(わがちょう)  三心(さんじん)  四修(ししゅ)  決定(けつじょう)  学(がく)

3、阿弥陀如来に従う阿弥陀二五菩薩とは、観音菩薩 ・大勢至菩薩 ・薬上菩薩 ・薬王菩薩 ・普賢菩薩 ・法自在菩薩 ・獅子吼菩薩 ・陀羅尼菩薩 ・虚空蔵菩薩 ・徳蔵菩薩 ・法蔵菩薩 ・金蔵菩薩 ・金剛蔵菩薩 ・光明王菩薩 ・山海慧菩薩 ・花厳王菩薩 ・珠宝王菩薩 ・月光王菩薩 ・日照王菩薩 ・三昧王菩薩 ・定自在王菩薩 ・大自在王菩薩 ・白象王菩薩 ・大威徳王菩薩 ・無辺身菩薩 を言う。

4, 九条兼実(かねざね)―平安末期の公卿、藤原忠通の三男、天台座主・慈円の実兄、千百六十年非参議・六十四年内大臣・六十六年右大臣・源頼朝に接近九十一年関白となる、千二百二年出家し円証と名乗る、念仏信者で法然の最大の理解者、五摂家の内、直系の子孫が二条家・一条家を起こす。
兼実の影響もあり青蓮院に居する天台座主の慈円は法然に勢至堂を与えたり親鸞に得度したり浄土宗・浄土真宗の興隆をフオローしている。

注5、東山三十六峰とは京都盆地を南北に走り、約12kmの山々を言う、北から・比叡山・御生山・赤山・修学院山・葉山・一乗寺山・茶山・瓜生山・北白川山・月待山・如意ケ峰・吉田山・紫雲山・善気山・椿ヶ峰・若王子山・南禅寺山・大日山・神明山・粟田山・華頂山・円山・長楽寺山・双林山・東大谷山・高台寺山・霊鷲山・鳥辺山・清水山・清閑寺山・阿弥陀ヶ峰・今熊野山・泉山・恵日山・光明山・稲荷山 の三十六峰を言う



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最終加筆日200492日  20061116日 2007219日注3 2008123日  20091230日 仏像移籍 2022年6月6日 補筆

 

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