正式名称を仁和寺と言い旧御室御所・仁和寺門跡等とも呼ばれ日本最初に門跡(注6)の呼称で呼ばれた名刹であり
仁和寺には2万7千坪を超える広い境内には、国宝の金堂を始め、二王門、五重塔、御影堂、経蔵など、14棟もの重文指定の堂宇が並んでいる。
宇多天皇が嵯峨遍照寺を拠点とする広沢流(真言宗参照)の祖・益信(注2)の下で出家して仁和寺に入る事により門跡の号が成立したと言う、古刹の中で禁裏との関連の在る寺院は多いが当寺の場合は卓越した由緒を誇っている、因みに仁和寺の住職は一世・宇多法皇(注9)以降十世・法助を除き明治時代まで皇子や皇孫の出家者で占められていた、また
仁和寺は真言宗が停滞していていた時期、俊英が現れたライバル台密に凌駕されていたが、宇多天皇が益信(828~906年)に弟子入りしたのを期に復興の足がかりとなった古刹である、その後・聖宝(823~909年) ・その弟子で空海の大師号取得に尽力した観賢(854~925年) ・小野流の祖で
また仁和寺は皇族が就任する宮門跡寺院であったが明治維新に30代純仁法親王が還俗して小松宮彰仁親王となり宮門跡は消滅する。
御願寺を目指して崩御した光孝天皇の遺志を継承した宇多天皇が発願して、高野山第二世で当時教王護国寺の長者であった空海の弟子・真然(注1)を導師として888年金堂を落慶し、創建時の元号にちなんで仁和寺と命名された、最盛期には8k㎡に及ぶ境内に90ヶ寺の子院・塔頭寺院を持ち隆盛を誇示したが、応仁の乱で総て焼失し徳川幕府の援助で現在の仁和寺の姿がある、随って教王護国寺との関係は親密であった様である、また高野山金剛峰寺も仁和寺の下部寺院であった。
宇多天皇はその後譲位し初代住持として寺内に「室」即ち僧坊を建て住いにする事で「御室御所」と呼ばれ、寺の付近までもが御室と地名にされた。
その後も歴代親王が法燈を受け継ぐ事により明治の廃仏毀釈まで宮門跡寺院として高い格式を保ち続けた。
当寺は歴代天皇から厚い信仰を受け平安時代後半から益信(注2)を擁して広沢派の統領格寺院として鎌倉時代初期までは小野派頭領の醍醐寺と共に真言宗の二大勢力として権勢を振るい多くの堂宇や院家が広大な境内に密集した。
しかし鎌倉末期から室町時代に入ると鎌倉・室町幕府のスタンスが禅宗信仰に変わり当寺も衰えを見せる、更に応仁の乱で西軍の本陣化した事もあり全山が灰燼に帰す、寺の命脈は子院の真光院に移り170年に亘り法燈を守護された、江戸時代に入り徳川家光の妹和子が後水尾天皇の中宮に入った事から、1634年(寛永11年)幕府の援助で復旧作業が行はれ御所の改修と共に金堂に紫宸殿・御影堂は清涼殿・宸殿は常御殿を移設し、更に五重塔などの伽藍を復旧し明治20年に一部焼失するが今日にいたる。
当寺は創建から教王護国寺との関係が深く、本堂と落慶寺からの本尊とされる阿弥陀三尊と共に教王護国寺の真然が導師を務めた、真言密教の寺に阿弥陀如来が本尊とされた事は平安時代は如何に浄土信仰が全盛を極めたかの証でもある。
当寺の堂宇は金堂初め王朝文化を偲ばせる優れた建築が揃う、特に金堂は御所から下賜された紫宸殿を移築したもので屋根材の変更以外は禁裏時代の威厳ある姿を保っている、他に清涼殿(御影堂)・常御殿も下賜された秀逸建築である、庭園も見事で宸殿から南庭と池泉廻遊式の庭園の北庭を眺める事が出来る。
当寺の二王門は巨大で京都三大門と言われる中に入る、京都三大門とは知恩院・南禅寺・仁和寺と言われている。
仁和寺は真言・天台の枠を超えた密教に関する文化財の宝庫であり霊宝館(春・秋公開)には仏像の他に北斗曼荼羅・密教図像など多くの貴重な資料が展示される時がある、仏像も仁和寺創建時以来の本尊とされる阿弥陀三尊像と薬師如来像が国宝指定を受けている、中でも阿弥陀如来の定印は最古の印相と言われる、特に北院薬師と呼ばれている薬師如来は11.8cm程の小像であるが日本に於いて刻まれた貴重な檀像(白檀)で光背に七仏薬師(注7)と日光・月光菩薩が彫られた精緻な像で法隆寺の「九面観音菩薩」・金剛峯寺の「諸尊仏龕」に匹敵する作品と言えよう、また空海の自筆とされる「三十帖冊子」や現存する日本最古の医学書「医心方」等の国宝がある。
寄託されてはいるが宋画の傑作と言われる国宝・孔雀明王の画像があり、仁和寺が御産の御祈に長けていた証かもしれない。
また兼好法師や江戸時代には付近に尾形光琳、乾山(注4) の兄弟や野々村仁清等が住み文化・芸術の中心地でもあった。
仏像に関する特異な例として仁和寺堂院記の記述では金堂阿弥陀三尊の脇侍が逆配置されている、仁和寺にお尋ねしたところ、「
仁和寺には全長3km程の成就山・御室八十八所霊場と言うミニ遍路がある、各寺院の本尊及び弘法大師像が安置されており空海の遺徳を偲ぶ事が出来る、また仁和寺は古くからの桜の名所でもあり、古くから庶民に開放されており本数も200本を超えると言い、複数の種類の桜を堪能出来る。
塔高36mの五重塔(重要文化財)の内陣は普段開扉される事は無いが、五智如来像を始め華麗な仏画で埋め尽くされている。
仁和寺は仏前に供える供華として挿花を源とする御室流華道の家元であり流祖は宇多法皇とされている。
仁和寺は近畿三十六不動尊霊場の十四番霊場であるが参加寺院は著名寺院が加盟している・四天王寺 ・大覚寺 ・仁和寺 ・曼殊院 ・聖護院 ・青蓮院 ・智積院 ・醍醐寺五大堂 ・根来寺さらに高野山の明王院、南院などが名を連ねている、また近畿三十六不動尊霊場会公式サイトでは全寺に作家・家田壮子氏のコラムが掲載されている、因みに仁和寺の水掛不動は菅原道真が太宰府へ左遷される道中に休息したとされる、「管公腰掛岩」の下の井戸から汲み上げて不動尊に掛けるとご利益があるとされる。
京都は十三仏信仰が篤く十三仏霊場があり智積院(不動明王) ・2清凉寺(釈迦如来) ・3霊雲院(文殊菩薩) ・4大光明寺(普賢菩薩) ・5大善寺(地蔵菩薩) ・6泉涌寺(弥勒菩薩) ・7平等寺因幡堂(薬師如来) ・8千本釈迦堂(千手観音)・9仁和寺(勢至菩薩)・10法金剛院(阿弥陀如来) ・11法観寺(阿閦如来) ・12東寺(大日如来) ・13法輪寺(虚空蔵菩薩)の著名寺院が参加していたが、戒光寺と髄心院は2014年7月、霊雲院と法観寺の退会を受けて参加した。
仁和寺は鳥羽伏見の戦いに影響を与えた寺で三十世、純仁法親王(よしあきら)が軍事総裁となり錦の御旗は仁和寺に於いて作られた。
真言宗 御室派総本山 本尊 阿弥陀三尊 所在地 京都市右京区御室大内33 ℡ 075-461-1155
仁和寺の文化財 表内は国宝 ●印重要文化財
名 称 |
適 用 |
時 代 |
阿弥陀如来三尊 |
木造 漆箔 阿弥陀90,cm 勢至124,2 観音122,7cm 弥陀定印の最古 |
平安時代 |
薬師如来坐像 |
木造 檀像(白檀) 11,8cm 北院(旧日本尊)1103年円勢・長円共作 秘仏 |
平安時代 |
絹本著色 168,8:103,0 cm 6臂像 宋仏画の傑作 京博寄託 |
南宋時代 |
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金 堂 |
紫宸殿の移築で屋根と庇以外は紫宸殿の特徴を残す 桁行7間、 |
平安時代 |
宝相華蒔絵箱 |
迦陵頻伽絵塞冊子箱 H10,6 33,9-22,4cm |
平安時代 |
宝相華蒔絵箱 |
宝珠箱 Hh15,5 20,6-20,6cm |
平安時代 |
三十帖子 |
空海筆 13,3-15 14,2-18,5 空海入唐中のノート |
平安時代 |
新修本草 |
巻第4・巻第5・巻第12・巻第17・巻第19 |
平安時代 |
黄帝内経明堂巻 |
巻第1・黄帝内経太素25巻 |
平安時代 |
医心方 |
現存する最古の医学書 |
平安時代 |
御室相蒸記 |
6巻 紙本墨書 門跡の歴代記 |
鎌倉時代 |
高倉天皇宸筆 |
宸翰御消息 紙本墨書 第80代天皇 1168~1180年在位 |
鎌倉時代 |
後嵯峨天皇宸筆 |
宸翰御消息 紙本墨書 第88代天皇 1242~1246年在位 |
鎌倉時代 |
守覚法親王消息 |
高倉天皇への返書 1178 |
平安時代 |
●御影堂 桁行5間 梁間4間 宝形造 桧皮葺 室町時代 清涼殿を移築
●二王門 五間三戸 入母屋造 本瓦葺 江戸時代
●
●
●五重塔 三間 本瓦葺 36,0m 江戸時代
●観音堂 桁行5間 梁間5間 入母屋造 江戸時代
●文殊菩薩 坐像 木造彩色 63,6cm 鎌倉時代
●毘沙門天 立像 木造彩色 109,1cm 藤原時代
●増長天108,2cm 立像 木造彩色 藤原時代 東京国立博物館寄託
●愛染明王 木造彩色 51,7cm 厨子入 藤原時代
●吉祥天立像 木造彩色 166,6cm 藤原時代 漏斗形宝冠
●聖徳太子坐像 木造彩色 玉眼 54,2cm 鎌倉時代 像内文書の写しから悉達太子(釈尊の少年時代)とも言われる。
●聖徳太子像 絹本著色 鎌倉時代
●愛染明王像 紙本白描 50,0:29,8cm 平安時代
●迅疾金剛童子像 紙本白描 53,8:30,3cm 平安時代
●阿弥陀如来像 四紙 紙本白描 83,0:48,6cm 52,0:30,7cm 平安時代
●唐本曼荼羅図 金剛界五佛 紙本白描 29,五:158,3cm 平安時代
●聖徳太子像 絹本著色 掛幅装 113,0:43,5cm 鎌倉時代
●如意輪観音像 紙本白描 30,3:54,0cm 平安時代
●不動明王三童子像 紙本白描 48,0:28,0cm 平安時代
●北斗曼荼羅図 紙本著色 56,0:31,6cm 鎌倉時代
●薬師十二神将像 紙本白描 巻子装 29,4:343,0cm 平安時代
●摩尼珠図 紙本白描 3紙 90,0:55,0cm 平安時代 他多数
●尊勝陀羅尼梵字経 不空三蔵の真筆とされる
●宸殿 霊明殿 書院 勅使門 観音堂 中門 鐘楼 経蔵 など
●
注1
空海の甥で高野山に於ける伽藍の完成者で高野山の経営の安定に努め、座主制を採用し金剛峯寺の座主は長く真然の直系で占められた、没後の事であるが「三十帖冊子」の貸借をめぐり高野山と教王護国寺の紛争の原因を作る、874年権律師、884年教王護国寺長者。
真然の興した大伝法会は覚鑁が大伝法院を建立して中興した。金剛峯寺の真然大徳廟の上には元多宝塔の堂宇は真然堂と呼ばれている。
注2、
899年には当寺に於いて宇多上皇に受戒し帰依を深める、これにより真言宗は繁栄の道を歩む事になる。
注3、野々村仁清 江戸時代前期の陶芸家・名を清右衛門と言い仁和寺の門前で窯を開き仁和寺の仁と名前の清を取り「仁清」を名乗る、開窯当初は唐物や高麗の写しを焼いていたが銹絵・色絵・染付の茶器などで脚光を浴び特に赤,緑,青,黄などに金・銀彩を加えた陶器が名高く京焼色絵陶器の大御所となり御室窯の名で呼ばれている。
注4、尾形光琳・乾山 江戸時代中期の画家・陶芸家、高級呉服商の家に生まれ身内のもと本阿弥光悦や俵屋宗達の影響を受けて育つ兄・光琳はその後狩野派を学ぶが画風は宗達に近い、弟・乾山の絵付けなども行うが代表作に紅白梅図屏風(NoA美術館)孔雀立葵図屏風・草花図巻(畠山記念館)竹林図屏風等が在る。乾山の代表作として花籠図(福岡美術館)立葵図屏風・十二か月和歌花鳥図等がある。
注5、霊宝館 拝観否ただし4月1日・10月1日よりそれぞれ約50日間公開
注6、門跡寺院 宗派一門の祖師の法脈を継承する寺の事を言う、平安時代後期になると皇族や公家などが出家して代々入寺する寺を言うようになる、塀には5本線を入れる事が許された、江戸時代に宮門跡(天皇家の入室)
親王門跡(宮家から入室) ・攝家門跡(五摂家) ・清華門跡(公家)・准門跡(脇門跡・真宗系)・尼門跡(中宮寺・円照寺・法華寺、等)に分類された、但し1871年に公的な門跡寺院制度は廃止されたが門跡を呼称する事は許された、ちなみに門跡寺院とその門主は南都仏教と同じく葬儀の祭主を務める事は無かった。
注7、京都は十三仏信仰が篤く十三仏霊場があり京都霊場の9番札所に当たる 、智積院(不動明王)は一番札所となり ・2清凉寺(釈迦如来) ・3霊雲院(文殊菩薩) ・4大光明寺(普賢菩薩) ・5大善寺(地蔵菩薩) ・6泉涌寺(弥勒菩薩) ・7平等寺因幡堂(薬師如来) ・8千本釈迦堂(千手観音)・9仁和寺 (勢至菩薩)・10法金剛院(阿弥陀如来) ・11法観寺(阿閦如来) ・12東寺(大日如来) ・13法輪寺(虚空蔵菩薩)の著名寺院が参加している。
注8、七仏薬師 七仏薬師法は円仁が嚆矢とされ、比叡山の密教修法の一つで安産・息災を願う重要修法で玄奘訳の「薬師瑠璃光仏功徳本願経」略して「薬師七佛本願功徳経」を典拠としており薬師七体を祈るものであるが、東方に七尊の如来が存在し最も遠い第七の如来が薬師如来であるとされる、しかし薬師如来の分身か別尊かの確証はない、七仏薬師信仰は8~9世紀にかけて顕著になり、新薬師寺も創建当初は七仏薬師が本尊であった。
七仏薬師信仰から七所薬師に対する信仰も生まれ、京都を中心に延暦寺・広隆寺・珍皇寺・法雲寺・護国寺・観慶寺・平等寺を言われたが現在は言われていない。
また唐招提寺の薬師如来の光背にも七仏薬師が存在したとされる、さらに室生寺・神護寺・法隆寺西円堂・醍醐寺・黒石寺(岩手県)等にも、そのこん跡が見られる。
(1)善名称吉祥王如来(東方光勝世界) (ぜんみょうしょうきちじょうおう) 光勝国浄土
(2)宝月智厳光音自在王如来(東方浄瑠璃世界) (ほうげつちこうおんじざいおう) 妙宝国浄土
(3)金色宝光妙行成就如来(東方円満香積世界) (こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおう) 円満香積国浄土
(4)無憂最勝吉祥如来(東方無憂世界) (むうさいしょうきちじょうおう) 無憂国浄土
(5)法海雷音如来(東方法幢世界) (ほうかいらいおん) 法幢国浄土
(6)法海勝慧遊戯神通如来(東方善住宝海世界) (ほうかいしょうえゆうぎじんつう) 善住法海国浄土
(7)薬師瑠璃光如来(東方光勝世界)の呼び名がある。 (やくしるりこう) 瑠璃光国瑠浄土
注9、
寺院リスト 仏像案内
最終加筆日2004年11月11日 2005年1月27日 2008年6月17日 2010年8月7日宮門跡 11月3日 2013年11月1日法皇注釈 2017年2月9日加筆