浄瑠璃寺

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正式名称を小田原山・法雲院と言う、過日は西小田原寺と呼ばれた、創建当初の本尊は薬師如来とされて居り東方浄瑠璃浄土に於ける盟主の名が寺名となったと推定できる、池を挟んで東の薬師如来の居る浄瑠璃浄土(三重塔付近)と西の阿弥陀如来が揃う極楽浄土(本堂付近)が配置されている、この伽藍配置を平安時代に施工された特殊な配置で”浄土形式”と呼ばれると五木寛之氏は言う。 
当初の本尊と確定できる尊像は存在せず創建時の金堂も存在しない、現在の本堂1107(嘉承2年)に建立され1157(保元2年)現在地に移設された、九尊の阿弥陀如来が安置されており九体寺・九品寺などとも呼ばれている、因みに九尊の阿弥陀如来は其々個性があり、定かではないが中尊は定朝の作品との説もある、九尊もの阿弥陀如来が置かれるのは観無量寿経の三輩九品往生段(注7)の記述に由来する、これを「九品(くほん)来迎(らいごう)」と言い下品下生から九段階を経て上品上生に到達する、上品上生印を最高の往生を占めすと言い「力端印(りきたんいん)」と言う、来迎印(慰安印とも言う)を結ぶ中尊像は丈六よりやや小さく224.0p、定印の脇侍八尊は半丈六の139.0p〜145.0pで印相に相違があるがすべて偏袒右肩を纏う。
造寺、造仏の数量により信仰の篤さが言われた藤原時代には浄土信仰の興隆と末法思想に触発された九体仏を祠る信仰が興隆した、・法成寺(ほうじょうじ)法勝寺(ほっしょうじ)・梶井の御願寺(ごがんじ)・尊勝寺・白川の新阿弥陀堂・成菩提寺など30棟程が創建されたが、唯一辺鄙な場所の浄瑠璃寺のみが現在に残る、因みに応仁の乱で焼失した法勝寺の塔は室町時代の「院家雑々跡文」に依れば、約81m。    
当寺は739年に聖武天皇の勅願により行基の開基とされるが定かではない、1047当麻寺義明(ぎみょう)と言う僧が衰えを見せていた寺を再興する、また浄瑠璃寺に於いて小田原聖と言う行者集団が興りこれが高野聖に発展したとされる。 
当初は地名から西小田原寺と呼ばれた寺を十世紀中頃に興福寺・一乗院の僧達が入山し祈願所として発展する、本堂の創建更には京都一条大宮より三重塔を移築し本堂を阿弥陀如来極楽浄土として置き、池を挟んで薬師如来の浄瑠璃浄土を顕している。
寺観を整備される事により更に興福寺の支配力を高め,一乗院僧の退居所や顕・密併合した道場として平安時代鎌倉時代に亘り、貴族達の浄土崇拝の聖域として栄華を極める、塔尾(とうの)(当尾)の地は南都仏教に失望した僧の隠生地であるが、浄瑠璃寺の付近にも近衛家以外の五摂家等の退居所跡の寺院も存在した事から、多く存在した堂塔の尾根が訛り塔尾と地名を呼ばれる様になったと言う、これらは明治に入り廃仏毀釈で姿を消したと言う。

鎌倉幕府の崩壊を期に興福寺は荘園・寺領の多くを失い末寺である当寺は斜陽化する、更に1342年には講堂・十万堂・如法堂・開山堂などを焼失し、創建時の威容に複旧する事は叶わなかった。 
興福寺の支配力の衰えた時期に戒律を重視し時の権力者の帰依をも受けていた真言律宗の総本山・西大寺と交流ができ明治の廃仏毀釈を機会に西大寺の末寺となる。

境内に入ると中央に阿字池を配置した浄土式庭園の中、両側に阿弥陀堂と三重塔を置き五摂家
(注3の描く観想の浄土世界を、かいま見ることが出来る、阿弥陀堂では丈六の中尊が来迎印すなわち上品下生印を結び、残る八尊は半丈六で定印すなわち上品上生印である、この形式は法成寺を参考にしたと言われ全尊丈六仏であったとされる法成寺の縮小版との説がある、因みに法成寺の場合は観音菩薩勢至菩薩四天王も四尊が揃い浄瑠璃寺を遥かに凌ぐ規模であった。
また浄瑠璃寺と岩船寺を結ぶ当尾付近を「石仏の里」とも言われ散策することで阿弥陀如来
(わらい仏・焼け仏・長尾)十一面観音地蔵菩薩(首切・水呑・磨崖・地蔵)不動明王等が彫られている、藪中三尊磨崖佛(まがいぶつ)十一面観音・重文指定の六地蔵石龕(約1,21,65m 鎌倉時代)など、凡そ百尊に近い石仏群を鑑賞する事が出来る、これらの石仏群の多くは興福寺一乗院を隠棲した僧達の手に成り鎌倉時代〜室町時代の彫像で占められている。
西国薬師
を巡礼する霊場に薬師如来を本尊とする四十九寺が参加しており、浄瑠璃寺は三十七番札所となっている。


注1、九体寺は藤原時代に阿弥陀信仰の興隆により九品来迎に鑑み貴族達の信仰を集め、京都を中心として各地に30ヶ寺程建立された・法成寺(京極御堂) ・法勝寺(左京区岡崎付近) ・梶井の里に於ける御願寺 ・尊勝寺 ・成菩提院 ・白川の新阿弥陀堂など建立されたが、量産には寄木造りの発達が貢献した、但し現存するのは浄瑠璃寺のみである、因みに30ヶ寺と言う事は丈六仏が270尊と言う大変な数になる。
九体佛と言えば1788年に建立されたバンコク三大寺院として有名な「ワットポー」(ワット・プラ・チェートゥ・ポン・ラーチャ・ワ・ララーム)には巨大(L49mH12 m)な九尊の寝釈迦仏が安置され、曜日に関係がある様だ、七曜に水曜日と木曜日は午前と午後とに分類されて九尊に成る。

注2、一乗院(近衛家) 興福寺の項参照。 (注3) 

注3、 五摂家(藤原摂関家) 鎌足を祖とし不比等に引き継がれ長く朝廷を支配した一族で歴代天皇の外戚を続け日本史の中でも藤原時代の名称まで残し天皇家に次ぐ名門。
不比等の子供達の系列から凄惨な確執を繰り返した後10世紀(藤原時代)には藤原武智麻呂(むちまろ)の南家に対して藤原房前(ふささき)の北家が覇権を持つ、鎌倉時代に五摂家に別れ近衛基実から・近衛家・鷹司家、 九条兼実から・九条家・二条家・一条家となり摂政関白を独占する、中でも近衛家が覇権を所持していたが頼朝追討宣旨で失脚し九条家と覇権を分け合う。
また藤原姓は橿原市高殿町付近の地名からともされる。
傍系に久我・醍醐・今出川・姉小路・山科・花山院・広幡・三条・西園寺・徳大寺・難波・飛鳥井・冷泉・坊城・日野・烏丸・大炊御門・中炊御門・観修寺等があり本来は全て藤原姓である。
五摂家による禁裏支配制度は後醍醐天皇の御世を除き明治維新まで継続した、1884年に華族令により廃止になり五摂家は華族筆頭として公爵位を授けられた。
藤原不比等とは鎌足を父に宮廷歌人額田王と同一人とも言われる鏡王を母に持ち大宝律令・貨幣経済・成文法等を導入して藤原一門の千三百年にわたる栄華の礎を築く。

注4、 行基(ぎょうき) 668749)奈良時代の法相僧で 唯識論の権威、父の高志氏は百済系渡来人。
長安に於いて玄奘三蔵に学んだ飛鳥寺の道昭に師事する。(異説もある、新羅僧慧基に学ぶ等)
法興寺・薬師寺を経て山岳修行を行い、聖武天皇から菩薩号を授けられたと言う伝承が有る、彼の元に私度僧が多く集まり民間佛教の伝道と社会事業に尽力する、特に土木技術に精通していたとされる。また行基により創建されたと言う寺は多くあり、彼の指導による仏像・橋梁・堤防・港など多く作られたと言いその名声から多くの伝承を残した。745年 大僧正 また歌の名手で有ったらしく行基の詠んだとされる歌が残っている。    玉葉集  「山どりのほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」 
行基が創建したと伝えられる寺院は多く存在するが、奈良県・霊山寺 長弓寺   京都府・宝積寺    大阪府・金剛寺  孝恩寺  家原寺 喜光寺  獅子窟寺    滋賀県・金剛輪寺 など行基による創建伝承の寺は多い。  

5、 叡尊(えいそん)12011290年)謚名を興正菩薩と言い西大寺復興の立役者で真言律宗を起こす、興福寺の学侶の子で17歳に出家し唐招提寺で律宗を高野山・醍醐寺で密教を学ぶ、西大寺入りした後東大寺に於いて自誓受戒を受ける、西大寺を拠点として律の教学を広める、後嵯峨上皇・亀山上皇・北条時頼・実時の帰依を受ける、弘安の役には朝廷の以来を受け岩清水八幡宮に於いて敵国降伏の祈願を行い神風が吹いたと言う、その他活動としては弟子にあたる忍性(奈良に悲田院を起こし貧者、病人を救済、鎌倉・極楽寺を創建)を伴い土木工事・社会事業・貧者救済にあたる。
著書に感身学正記・梵網経古迹記輔行文集・関東往還記があり90歳の長寿を全う、肖像を西大寺と鎌倉・極楽寺に残す。

6、浄土式庭園
  平安時代以降広がりを見せた末法思想の興隆と共に貴族達が寺や邸宅に極楽浄土を観想するために造園された、構成は浄土変相図(浄土曼荼羅が源のようで池を中心に配置している,
代表的な浄土式庭園に当寺・平等院 円成寺 法金剛院・毛越寺などがある。

7、三輩九品往生段とは *上品上生 至誠心 深心 回向発願心の三心と戒律を守り、経典を読誦し機根の秀者。*上品中生、*上品下生までは大乗の行者で上生と比較して機根が少し劣る。*中品上生以下中品下生までは小乗の行者で極楽に於いて無生法忍の悟りが得られる。 *下品上生以下の下品下生は悪行の内、救いがある者。    
               



真言律宗
          所在地  京都府木津川市加茂町西小札場40 〒6191135   п@0774762390     真言律宗は真言宗編に入ります


浄瑠璃寺の文化財    ○印国宝    ●印重要文化財 

○阿弥陀堂 (本堂)   桁行11間梁間4間(25,3m×9,09m) 寄棟造 本瓦葺(1666年まで桧皮葺)1047年建立 1107年・1157年・1326年改築、移築 修繕を繰り返す。 平安時代
○塔    (三重塔)   3間 桧皮葺 15,3m 内部に彩色の宝相華・佛画(重文) 藤原時代
○ 阿弥陀如来(九尊) 坐像 木造漆箔 中尊224,5cm 他8138,8x145,4cm  中尊には1枚の紙に90尊の阿弥陀の摺佛紙が多数入れてある。 藤原時代
四天王立像  木造彩色 切金文様 167,0169,7cm  二尊拝観可  藤原時代

吉祥天立像  木造 繧繝(うんげん)彩色 90,0cm 厨子入り 鎌倉時代 秘仏・1月15日・321日―521日・101日―1130日公開 極彩色で保存状態が良好。

薬師如来坐像 木造彩色 85,7cm 藤原時代 創建当時の本尊と言われるが定かではない 8日晴天日・11日―3日・彼岸中日晴天日開扉 

馬頭観音立像 木造彩色 106,3cm 鎌倉時代 奈良博寄託  

地蔵菩薩立像 三尊 木造彩色 167,6cm ・157,6cm(子安地蔵) ・97,0cm(延命地蔵) 藤原時代 

不動明王   二童子像 木造彩色 玉眼  不動明王 99,5cm  矜羯羅(こんがら)童子 50,7cm  制多迦(せいたか)童子 52,3cm  鎌倉時代 

●石灯籠  六角二基  215,0cm(三重塔前・1366年の銘)  248,5cm(本堂前)  南北朝時代

●浄瑠璃寺流記事(るきのこと)  紙本墨書 29,2cm×21,5cm 南北朝時代  寺の創建からの歴史 


 
木造阿弥陀如来坐像
木造吉祥天立像 以上(秘仏)
木造地蔵菩薩立像
木造大日如来
木造弁才天
木造不動明王像など仏像8


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最終加筆日 2004年12月13日  200768日 2009411日 九体寺 2010年12月5日 2017年5月29日 2018年7月19日加筆  

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