文殊菩薩

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正式には文殊師利(もんじゅしゅり)菩薩と言い、通称では文殊菩薩の梵語名 Mañjuśri (マンジュリー)の音訳とされMañjuは柔らかと言いśri は幸を意味しており意訳として「妙吉祥(みょうきっしょう)菩薩」「妙首(みょうしゅ)」等とも言われる、文殊師利般涅槃経(はつねはんきょう)等に実在説を言う記述も散見出来る。
大乗仏教の興起と共に発生した菩薩で大乗佛教隆盛に重要な役割を担ってきた尊格である、大無量寿経では「妙徳菩薩」と記述されている、
文殊菩薩は過去の劫即ち荘厳劫(しょうごんこう)においては龍種(りゅうしゅ)上尊王仏という仏だったとされ
智慧を本誓(ほんぜい)とし、総てを救済する衆生済度(しゅじょうさいど)を誓願とする菩薩である、正式名称は文殊師利菩薩と言い曼殊室利(まんじゅり)・文殊師利すなわち「 法の王子」と観無量寿経の冒頭に記述がある、また阿弥陀経には「法の王子にして妙吉祥」と記述されている、インドに於いては観音菩薩に次いで普遍性の高い菩薩で梵篋(ぼんきょう)や剣等多様な持物や印形を持つ、また文殊菩薩の場合本来は龍種上尊と言う如来で衆生を導くために下化した姿とも言う、但しインドに於いて文殊菩薩信仰は1~2世紀頃との説が有力視され弥勒菩薩普賢菩薩共に最初に生まれた菩薩群に属し弥勒菩薩と共に実在の可能性を持った菩薩である、文殊菩薩の造像が見られるのは七世紀頃にまで下る、文殊菩薩の実在を指摘する説に依れば弥勒や十大弟子の一人阿難陀(あなんだ)と共に大乗経典を結集したとされる(智度論)、また文殊はバラモンの家柄とも言われている、華厳経典に依れば清涼山に棲むとされ中国に於いては山西省の五台県にある五台山が聖地に当てられている。  
意訳をすれば「妙吉祥」となる(世界大百科事典等)また・妙首・敬首・妙徳などの漢訳もある、日本では釈迦三尊の内、普賢菩薩と共に一尊を形成するのと智慧の文殊として広く知られている、獅子に乗る文殊菩薩と白象に跨る普賢菩薩を脇侍とする釈迦三尊形式は敦煌壁画が嚆矢とされるが日本独自の形式とも言える様で、インドなど他国では主に独尊で信仰されている、因みに金剛界曼荼羅等に金剛利菩薩が登場するが文殊菩薩が勧請を受けた密教名である。
「三人寄れば文殊の智慧」の諺は広く知られている、智慧とは叡智を言う、「真理を見極める認識力」である、実在の可能性が高いとされる菩薩であり智慧・理知の働きを示し顕教の経典の中に於いて重要な存在となっている、仏教すなわち釈迦如来の教えの完璧を期すには智慧と行の調和が必要であり文殊菩薩の智慧と普賢菩薩の行に於いて完成される。
「華厳経・菩薩住処品」では文殊菩薩の聖地
(注5とされる清凉山に見立てた五台山で説法していると言い、「維摩経問疾品(もんしつほん)に見られる維摩居士との問答や「法華経・提婆達多品12」では智積菩薩と論議を交わす等、多くの経典に登場し以前は覚者で龍種如来であり、将来は普見如来となる、また現在は歓喜蔵摩尼宝積如来とされる事もある、因みに円仁は文殊菩薩の聖地である五台山を訪れており帰国後に文殊信仰の興隆に寄与している。     
中国に於いての文殊信仰には「文殊師利菩薩根本儀軌経」に父母忠孝や国王守護が記述されているが、これ等は恣意的に書かれており原典に記述は無い。
日本に於ける文殊菩薩の登場は維摩経からと見られ焼失した法隆寺壁画がある、普賢菩薩は当初の姿形は結跏趺坐である、その後「陀羅尼集経」の記述から騎象像に対して騎獅子像が多くなる,但し獅子を台座にする文殊菩薩は少なくとも日本に於いては平安時代以降で以前の作品には見られない、要するに騎獅子像は法華経も関連するが密教の影響を受容した受けた形態である。
禅宗系寺院では修行僧の姿を表す「(しょう)(そう)」として僧堂にて僧形即ち剃髪し坐禅を組む事もある、また稚児姿で童真菩薩と呼ばれる事もある。
鎌倉時代
に入り戒律を重要視し真言律宗を興した叡尊・忍性の信仰は篤く真言律宗系等で造像・絵画に見られる様になる、これには真言八祖である不空の影響がある様で文殊菩薩の密教での存在感は小さくは無い。

日本に於いて古くは隆寺金堂内壁画
(八号)がある、同じく法隆寺五重塔内の北面に釈迦涅槃の光景(塑像)の中・東面には維摩居士との問答像がある(塔本四面具)他に維摩居士とのペアも興福寺・東金堂が著名である。
但し信仰が始まったのは平安時代に華厳信仰に付随したものであるが、「文殊(もんじゅ)師利般涅槃経(しりはつねはんぎょう)」には貧困に苦しむ衆生姿で現れると言い大安寺勤操元興寺の泰善達による救済活動で衆生にも知られるようになる、わが国の文殊信仰の広がりは空海が自著「般若心経秘鍵」の賛辞を詠う冒頭の詩、すなわち偈頌(げじゅ)伽陀(かだ)に文殊菩薩を取り上げた事もあるが、文殊菩薩の聖地と言われる五山に学び比叡山に文殊楼を開いた慈覚大師円仁の働きが大きい、これは五台山が中国天台宗の実質的開祖である智顗が教学を完成した聖地であるからかも知れない、閑後述するが善財童子を先導に手綱を持つ優填王、仏陀波利三蔵最勝老人を従える形状を「五台山文殊」と言い、聖地五台山へ向かう姿でありこれが渡海文殊に発展する、これに関連する絵画などに醍醐寺の国宝「文殊渡海図」が著名で最勝老人、佛陀波利、善財童子、優填王、を従えて獅子に乗り智慧を示す剣を右手に蓮華と梵経を左手に持ち姿が描かれている
密教に於ける文殊菩薩は髷や持物に特徴がある、小さな髷を短・1・5・6・8髷に結び八字文殊等髷の数を頭文字にした名称でよばれる、短髷を増益や安産・密教系に多い五髷を敬愛・六髷を調伏・八髷は息災と鎮宅を祈願するとされ、陀羅尼真言を唱え功徳を得る現世利益に利用された、因みに五髷文殊を吉祥金剛・般若金剛等とも言われる、天台宗では文殊菩薩は重要で円仁が将来した密教秘法で文殊菩薩を本尊として真言を修する「八字文殊法」がある。
持物に付いて通常は剣や梵篋(ぼんきょう)であるがその他に右手に降魔の利剣を左手には蓮華を持った渡海文殊として五尊形式を画いたものや、無垢な性格から採用された稚児文殊も有る。
文殊菩薩は古くから知恵を司る菩薩として重要なポストを占めていたが、特に真言密教で重要視された様である、また円仁により請来の眷族を従えた場合は文殊五尊(五台山文殊)と言い、竹林寺・中尊寺等が有り、優填(うてんおう)最勝老人(さいしょうろうじん)仏陀波利三蔵(ぶつだはりさんぞう)・善財童子を従え、さらに八大童子光網(こうもう)童子・宝冠童子・無垢光(むくこう)童子・髻設尼(けしに)童子・鳥波髻設(うばけし)童子・質多羅(しつたら)童子・地慧幢(ちえどう)童子・請召(しょうじょう)童子がある。
また曼荼羅の中でも重要な位置を占めており胎蔵界曼荼羅では中大八葉院の中の一尊・文殊院に金剛界曼荼羅では賢劫十六尊の中で智積・無尽意菩薩が同体とされている、因みに密教では密号を吉祥金剛、般若金剛と言う。
また異形として千臂千鉢文殊像が敦煌にある、聖僧(しょうそう)文殊・僧形(そうぎょう)文殊・稚児(ちご)文殊が唐の時代智慧・戒律の師と崇められ特に天台宗に於いて信仰された、また叡尊と弟子と忍性(にんしょう)による戒律復興運動により多くの戒律重視と貧民救済を目指して文殊菩薩が造像された、中でも聖僧文殊は修行僧の象徴として禅宗系に於いて信仰されている、また密教に於いては真言により頂髻(ちょうけい)と事物の数が違い1568即ち一字文殊八字文殊までが左に如意宝珠・青蓮梵篋(しょうれんぼんきょう)・胸に於く・智杵、右手は楊柳枝・金剛剣・説法印・智慧剣を持つ。
文殊菩薩関連の経典に「文殊師利根本儀軌経」「首楞巌三昧(しゅりょうごんざんまい)経」「維摩経」「華厳経、入法界品」等々があるが、維摩経では
上座部佛教theravāda abhidharma)大乗佛教Mahāyāna buddhism総ての羅漢、菩薩を代表して引き立てた、「維摩の一黙」すなわち「不二の法門」で維摩居士との対話が著名である、菩薩達による不二に対する議論の中で維摩居士の示した、ただ黙示に対する文殊菩薩の評価に付いて、「無色界」には4ランクある、下位から「空無辺処」空が総ての思考世界 ・「識無辺処」識のみの世界 ・「無所有処」空、識を超越した世界 ・「非想非非想処(ひそうひひそうじょ)」最高処で排除、超越すら無い世界、を言い「維摩の沈黙と言う回答」に不二の非想非非想処を絶賛したと言う。
文殊菩薩の陀羅尼に「滅淫欲我慢陀羅尼(めついんよくがまんだらに )」があり煩悩や淫欲が絶てるとされる文殊菩薩は後期密教信仰地であるチベット・ネパールなどでは特に普遍的で、ダライラマやパンテェンラマの所属する最大派閥のゲルク派の開祖ツオンカバは文殊菩薩と常時交信して学んでいたと言う、その他でも殆どの宗派で篤く信仰されている存在の菩薩である、特にネパールでは湖水地であった現在の中心部を人間の居住出来る様に開闢したと言われ、スワヤンブー山頂に祀りその信仰は篤い。
「法界語自在曼荼羅」通称・法界曼荼羅があり、法界自在文殊として大日如来と同格若しくは化身として中尊の地位を占めており、ナーマサンギーテイ文殊などと共に篤い信仰をあつめている、特に性瑜伽
(ヨーガ)を取り入れたチベット等に於いては大日如来像の数も少なく三身論としては報身仏として拝されている(チベット密教では法身仏は姿を顕さない)
文殊菩薩は智顗の興した隋の天台宗の本尊はであるが、最澄の興した天台宗の本尊は薬師如来である、これは最澄が遣隋使になる以前から薬師信仰に篤く、比叡山に隠遁し薬師如来を本尊として祀った為かも知れない。
前述の勤操や元興寺の泰善の興した涅槃経に依る文殊会は一時各地で行われたが現在は425日に興福寺東金堂で行われる稚児行列が知られている。
興福寺の文殊会にも時代により変化している、即ち平安時代には福祉が最優先した会で、鎌倉時代には慈善事業、江戸時代には子供の学習祈願に変化したと關信子氏は言う。
(仏像歳時記・東京堂出版・關信子) 

文殊菩薩信仰には最下層の貧民として現れ救済を担当すると言う信仰が広く知られていた、覚鑁と弟子の忍性は文殊菩薩を信仰し、呪術に頼る真言宗に戒律の復興・下民族層の救済・社会基盤の整備等々、忍性と共に日本仏教に於ける最高峰の業績を挙げた、不空の影響もあるのか下述する五台山は無論の事、中国仏教史に於ける文殊信仰は著しい、またチベット仏教の天才僧でチベットに戒律を定着した、ツオンカパの文殊信仰も篤かった。

古来より中国は菩薩信仰に篤い、仏教四大名山と呼ばれる聖地があり説法道場の本尊は総て菩薩で占められる、文殊菩薩の聖地は山西省の・五台山がある、因みに四大聖地は四川省の・峨眉山(がびざん)普賢菩薩、 ・五台山~文殊菩薩、 浙江省の・普陀山~観音菩薩、 安徽省の・九華山(きゅうかざん)地蔵菩薩が言われ、前三所を三大聖地とも言われる。


真言 オン ア ラ ハ シャ ノウ 


1、 渡海文殊 雲に乗り海を渡ったと言う伝承をもつ、代表例が安倍の文殊院で手に利剣・蓮華を持ち脇持に善財童子・優填王・仏陀波利三蔵等を従えたもの、他に文化財指定はないが京都市左京区黒谷の金戒光明寺には運慶作と伝えられる・文殊菩薩と・優填王(うてんおう)仏陀波利(ぶっだはり)三蔵・最勝老人の四尊(善財童子は新作)が存在している。

2、 紙張貫像(しちょうかんぞう) 古紙・経典の廃棄された和紙を張り重ねて像造したもので像内に物品が納められるようになっており、茶道具の一閑張細工の嚆矢とされる。

3、密教に於ける文殊菩薩の髷や持物に特徴があり、一髷~八髷・童形髷が像造され金剛杵や経文を所持している。 


4、日本三文殊に ・奈良 安倍文殊院奈良県桜井市安倍山) ・金戒光明寺(京都市左京区黒谷町121)  ・智恩寺(京都府宮津市天橋立文殊) が挙げられている。

5、文殊菩薩の聖地は中国の五山と言われるが、中国では菩薩が篤く聖地として四大名山があり五台山(文殊菩薩)峨眉山(普賢菩薩)普陀山(観音菩薩)九華山(地蔵菩薩)が言われている。
 

主な文殊師利菩薩像  ○印は国宝   ●印国指定重文        

法隆寺 五重塔  塔本四面具 塑像  天平時代 
興福寺 東金堂  坐像 木造彩色 玉眼 93,9cm    維摩居士と共に  鎌倉時代 
安倍文殊院     騎獅子像 五躯 木造彩色 脇侍玉眼 文殊菩薩198,0cm 善財童子134,7cm 優填王268,7cm 仏陀波利三蔵187,cm    獅子後補     勝老人   鎌倉時代 
             
渡海文殊像の脇侍は通常は「善財童子」「優填王(ウダヤナ)」「最勝老人」「仏陀波利三蔵」であるが、文殊院では「最勝老人」を維摩居士に、「仏陀波利三蔵」を須菩提と呼んでいる。

醍醐寺      文殊渡海図 絹本著色 額装  143,0cm×106,4cm     
鎌倉時代  

中尊寺     騎獅子像 五躯 木造  文殊菩薩 65.3cm  眷属 56.6cm~75.7cm 平安時代  大長壽院 現在は讃衛蔵       
●智恩寺(京都
府宮津市天橋立文殊) 騎獅像 木造彩色  文殊49,1cm 善財童子60,6cm 優填王62,1cm 鎌倉時代  日本三文殊所蔵の一寺
室生寺(金堂)立像 木造彩色 205,3cm 平安時代 

西大寺 騎獅子像五躯(脇持共)五尊 木造彩色 玉眼 文殊82,2cm 善財童子86,5cm ・優填王119,5cm ・仏陀波利三蔵104,2cm ・最勝老人105,8cm  鎌倉時代 

中宮寺 立像 紙製彩色(紙張貫像) 鎌倉時代  五髻(ごけい)文殊

●宝珠院(斑鳩町)騎獅子 木造粉溜 切金文様 43,2cm 室町時代

海龍王寺 立像 木造彩色 切金文様 116,6cm 鎌倉時代 

広隆寺 木造 素地 五髷文殊 99,4cm 平安時代

仁和寺 坐像 木造漆箔 63,6cm 鎌倉時代 

清凉寺  騎獅子像 木造彩色 110,0cm 平安時代

●額安寺(大和郡山市額田郡)騎獅子像 45,4cm 木造彩色 

●円證寺(奈良) 騎獅像 木造漆箔 56,5cm 藤原時代

白毫寺(寺伝)坐像 木造漆箔 平安時代 

薬師寺(奈良) 坐像 木造彩色 62,5cm 天平時代
興福寺(奈良) 坐像 木造彩色 玉眼 93.9cm 鎌倉時代    宋画の影響
●大智寺(京都)坐像 木造金泥彩色 玉眼 66,9cm 鎌倉時代      (京都府木津川市雲村42-1) 
禅定寺(京都府) 騎獅像  木造彩色  57.3cm   藤原時代     (綴喜郡宇治田原町禅定寺庄地) 

般若寺(奈良) 騎獅像 木造 45,5cm 鎌倉時代

考恩寺(大阪) 立像 木造彩色 169,0cm 平安時代

禅定寺(京都) 騎獅像 木造57,3cm 平安時代

●薬王寺(福島) 騎獅像 木造彩色 玉眼 42,0cm 鎌倉時代 

●慈恩寺(山形) 騎獅像 木造彩色  文殊37,6cm  優填王42,2cmcm 仏陀波利三蔵40,0cm 最勝老人39,5cm 平安時代

●竹林寺(高知) 騎獅子 木造彩色 文殊60,4cm 善財童子76,0cm ・優填王75,4cm ・仏陀波利三蔵76,8cm ・最勝老人77,3cm  藤原時代  四国八十八箇所31番札所

●大光寺(宮崎)) 騎獅五躯 木造彩色 玉眼 52,1cm 善財童子50,cmcm・優填王66,cmcm・仏陀波利三蔵64,2cm・最勝老人58,8cm 南北朝時代

●東京国立博物館 騎獅子像五躯木造彩色 木造彩色 玉眼 文殊46、1cm 善財童子46,1cm 優填王(うてんおう)69,4cm 仏陀波利三蔵(ぶつだはりさんぞう)66,5cm 最勝老人70,8cm 鎌倉時代 康円作
●僧形文殊像  善水寺(滋賀)78,8cm   法金剛院 78,0cm(伝賓頭盧尊者)   教王護国寺 70,9cm  平安時代  木造  
  承天閣美術館(相国寺) 絹本着色  210.0cm:111.3cm  釈迦三尊図の一幅  伊藤若冲

●大光寺 騎獅文殊像脇侍 木造彩色 玉眼 50.0㎝~66.7㎝ 鎌倉時代 (宮崎県宮崎郡佐渡原町上田島)
薬王寺  木造  彩色 中尊 84.8cm  左脇侍101.5cm 右脇侍101.5cm 藤原時代  (福島県いわき市薬王寺字(はなわ)74) 
 



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最終加筆日 2004年7月31 20051025日台座部分加筆 1220日注3、陀羅尼 2008418日 200919日  115日頂髻 2014年3月22日関連経典他 2015年3月11日五台山へ向かう文殊 2016年1月28日 2017年4月12日 2020年1月29日 8月19日 12月5日 2022年4月4日  7月12日 2023年10月31日

年10月31日加筆


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