奈良時代  
  
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青丹(あおに)よし寧楽(なら)(奈良)京師(みやこ)は咲く花の(にほ)ふがごとく今盛りなり」 (小野老 万葉集3-328)奈良後半期には仏教文化は無論の事、佛教美術面に於いて大輪を開花させた時代である *万葉集3-328の原典「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」。     
律令国家の確立期であり禁裏中心の国分寺や大佛建立等の護国仏教と貴族仏教の最初の全盛期を迎える事になる、概ね大化の改新の頃から蘇我氏中心の仏教から、大王(帝)を中心に護国隆盛を目的に加え管理主導を徹底した国家体制護持の為の仏教となる。 「転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)」の功徳であると教えられています。 *(転重軽受とは、「重きを転じて軽く受く」) 
この時代は諸説があるが、644年〜710年までを白鳳時代、710年〜794年を天平時代と呼ばれていたが近年は前後期に分類されている、しかし此処では白鳳・天平時代を呼称する、この時代ピンチも多くあり、 *長屋王の変、 *藤原広嗣の乱、 *国分寺建立の詔、 *東大寺毘盧遮那仏の造像、等々があった。
奈良時代は南都六宗の時代であるが、経典が最も重要視された仏教中心すなわち学問仏教の時代でもあり法華経金光明経を機軸とした護国三部経が信仰の中心とされた、因みに平安時代には天台、真言を中心とした加持祈祷の仏教であり、鎌倉時代は一神教的な哲学を内包した仏教と言える。
また波乱の時代であり藤原一門の権謀術策が花開いた時代でもある。藤原不比等(ふひと)は娘を文武天皇の夫人に送り込み元明天皇の時代には自身は右大臣に、更には安宿媛
(光明子・あすかべ媛)を聖武天皇の皇后に送り込み、長屋王達のライバル達を陥れることに成功する。
この時代は中央集権制度が確立し僧侶は一部の私度僧(しどそう)を除き総て度牒(どちょう)(証明書)を受けた国家公務員(公験)となる、また遷都が行われ官寺の大規模な移転が為され興福寺(厩坂寺)薬師寺大安寺(大官大寺)元興寺(法興寺)などが移り奈良の都が形成された。
仏像
に関しては飛鳥寺代の木造彫刻像や金銅彫刻像に対し塑像・柿佛像・乾漆像などが現れるようになる、代表作に
法隆寺 、阿弥陀三尊像(橘婦人念持佛)、夢違観音、  興福寺仏頭薬師如来 薬師寺、薬師三尊像、 東大寺不空羂索観音等が挙げられる。
天平時代の後半になると大安寺に居たインド僧や鑑真の請来した技法の為か木造彫刻に針葉樹が多く使用される様になると手法にも前期の檀像風を残しながらも多様化が見られる、また730年編纂の「開元釈経目録(開元録)」に拠れば密教経典が将来されている、また中国西明寺で三論、法相を学んだ道慈(744年没)、玄ム(746年没)等により雑密(ぞうみつ)即ち空海以前の密教像が現れ始める、すなわち十一面観音千手観音如意輪観音、不空羂索観音等の変化観音が密教と深く関連して造像される、この時期インド言於いては両部の大経が完成しており密教全盛期に移行している。

絵画に於いての作品は少なく法隆寺の金堂壁画・高松塚古墳の壁画が存在する程度である。

代表的な事例としては下記の事例等があげられる。                                              
645
年、 大化の改新、                                                              
672
年、 壬申の乱(じんしんのらん)                                                               
694
年、 藤原京遷都(せんと)、                                                              
701
年、 大宝律令(たいほうりつりょう)、                                                               
710
年、 平城京遷都、                                                              
752
年、 大仏開眼、                                                              
784
年、 長岡京遷都などが行われた。                          
奈良時代は光明子により東大寺・正倉院に寄贈された聖武天皇の遺品をはじめ、多くの貴重な文化財を残しており、彫刻にも優美さと奥行が加わり、天衣等にも変化が現れる。


白鳳時代の代表的文化財として

彫 刻  

法隆寺
薬師如来、百済観音、救世観音、夢違観音、四天王阿弥陀三尊
(橘夫人念持佛)
中宮寺
弥勒菩薩、    
興福寺
・仏頭、   
薬師寺
聖観音、薬師三尊、  

当麻寺・弥勒佛、  

広隆寺、弥勒菩薩(泣き弥勒)、  飛鳥、白鳳時代に造像去れた仏像は *釈迦如来、*薬師如来、*阿弥陀如来、*弥勒如来、菩薩、*観音菩薩、程度である。     


建築物
  法隆寺の五重塔、回廊、法起寺・三重塔  など、


工芸品
  法隆寺・玉虫厨子、
当麻寺
 ・妙心寺 ・梵鐘   
護国之寺
(岐阜市長良おぶさ)獅子唐草文金銅鉢(護国之寺サイト)  など


天平時代
の文化財は 


彫 刻  
法隆寺・阿弥陀三尊、九面観音、四天王、 五重塔内の塑像  
東大寺
不空羂索観音、執金剛神、 毘盧舎那仏、 四天王、 梵天、 帝釈天   
新薬師寺
・薬師如来、  
唐招提寺
毘盧舎那仏、鑑真和上像、   
聖林寺
・十一面観音、   
観音寺
・十一面観音、   
蟹満寺
釈迦如来   
清凉寺 
・釈迦如来、   
興福寺・八部衆、十大弟子、仏頭、   
葛井寺
・千手観音、  
野中寺・弥勒菩薩  等が挙げられる。


建造物
  
法隆寺・夢殿、東大門   
東大寺・法華堂、  
唐招提寺・金堂、講堂、経蔵、宝蔵、  
薬師寺・東塔、  
栄山寺
・八角堂、

当麻寺・東塔、西塔、   
新薬師寺・本堂等を挙げる事が出来る。


工芸品
 
東大寺・燈籠 、梵鐘、   
興福寺・梵鐘、燈籠、 華原磬   
長谷寺
・法華説相図、   
観世音寺
梵鐘  等がある。     

    

南都六宗(奈良六宗)が出揃う(華厳宗は少し遅れる)三論宗・成実宗・律宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・の六宗である。(南都七大寺はほぼ六宗兼学の道場であった)この時代には宗派の集団を衆と書き宗となったのは平安時代から以後と言はれる。
 成実宗・三論宗の基礎論理の研究が主で、佛法僧の三宝論を唱え四諦も論ずることで中国では小乗と断定されて衰退した、8世紀前半には三論宗に吸収される。

法相宗(ほっそうしゅう) 玄奘三蔵がナ−ランダ寺で戒賢に学び漢訳した(じょう)唯識論(ゆいしきろん)の学説を基に開いた宗派で識以外は何物も存在しないと説く非常に難解な哲学である。唯心論即ち五性(ごしょ)(かく)(べつ)を論ずるインド直輸入の宗派である、大乗と小乗の中間的思想で権大乗と言はれている、日本では658年頃道昭が玄奘から教えを受け帰国後元興寺でこれを広めたと言はれる、その後興福寺において義淵・玄肪・賢憬・修円・徳一・等逸材が輩出したことにより法相宗は興福寺を中心に発展する事になる、過去に於いて五摂家の強力な後ろ盾があり今日でも南都六宗で一番の隆盛を極めているのは当宗である。 

主な寺院として大本山 興福寺・奈良市登大路町  大本山 薬師寺、奈良市西の京町  大本山 法隆寺(昭和26年・聖徳宗として独立)奈良県生駒郡斑鳩町 現在聖徳宗には末寺として中宮寺・   法輪寺・  法起寺がある(何れも奈良県生駒郡斑鳩町)
大本山 
北法相宗として清水寺 京都市東山区清水などがある、信徒数約100万人。
 
倶舎宗(くしゃしゅう) 佛教哲学の基礎・基本問題を整理し迷いの世界解明をする宗派で後に法相宗に吸収となる。
 
華厳宗(けごんしゅう)  法相・三論(さんろん)・倶舎などが識や空の理論を重要視したに対して華厳経を奉ずる宗派で、覚りを開いた佛の心境を表わし歴史上実在した釈迦を超越した宇宙の構造
(三千大千世界)を説き一即多、全てに佛性があると説く(一乗主義)。大本山に○東大寺がある。但し東大寺は明治維新廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)により浄土宗知恩院派の末寺になっていたが1886年華厳宗大本山として独立した。

他に末寺として、 新薬師寺 奈良市高畑町    聖林寺 桜井市大字下   文殊院 桜井市大字阿倍などがある。

信徒数四万五千人。 

律 宗 律とは教団の戒律を意味し佛典とは別に律蔵として成立させたもの
(男僧250戒 尼僧348戒、等)でその後中国において大乗経典全てを律蔵に加えての研究機関として成立した。鑑真和上により日本に出家受戒が成立する。  

総本山、唐招提寺、奈良市五条町     法金剛院 京都市右京区花園扇野    信徒数約3万5千人。




1、 南都六宗とは上記・三論宗(さんろんしゅう)(じょう)実宗(じつしゅう)法相宗(ほっそうしゅう)倶舎宗(くしゃしゅう)華厳宗(けごんしゅう)律宗(りっしゅう)を言う、又八宗とは上記に・天台宗・真言宗・を加えたもので十宗は更に禅宗・浄土宗加えることによる。


2、 五性各別・人間が成仏出来るか否かはその人の素質による、これと逆の解釈が一切(いっさい)偕成(かいじょう)で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)等と後に論争することになる。
これは唐の天台宗と法相宗の間において繰り返し行はれた論議で三一権実論争と呼ばれる。 一乗(一つの乗り物)対三乗(声門乗・縁覚乗・菩薩乗)  
最澄は会三帰一を称える、法華経を最高と経典とした天台宗創始の学説である、対して徳一の法相宗は解深密経等々を依経として五性各別を説く、本来衆生にはレベル格差があり総てが成仏可能ではない、三乗とは声聞・縁覚・菩薩の為に説いた三乗教(総てに相当する)を言い、一乗とは唯一仏になる教義を言う。

 


3、 中論・十二門論・百論・(四百論・百字論などもある)とも大乗経典の書で竜樹とその弟子による作とされる、空の哲学を論理化したもので特に中論は三論宗の中核をなしている。  


4竜樹とは大乗佛教の基盤の作成者で注Bの三論の他般若経の製作者であり、竜樹の般若経に倣い華厳経・法華経等の経典が作りだされる嚆矢となる、また密教の創設者と言はれる龍猛と同一人物とされる。 


5、南都七大寺 天皇の発願により造営された寺で全てが官給の為国の監督を受けた官寺で七堂伽藍(西大寺など例外も在る)を備えた大寺を言う、大安寺(大官大寺)・薬師寺・元興寺(法興寺)・興福寺・法隆寺・東大寺・西大寺・の事を言いほとんどが六宗兼学の道場であった。
諸説があるが八世紀後半に四天王寺・唐招提寺・東寺・西寺(現在は無い)新薬師寺・嵩福寺・弘福寺・不退寺などを加えて十五大寺と言う呼び方もされた。
 

6、受戒 僧侶として戒律の履行を誓う儀式で代表的な大乗戒として三聚浄戒1、攝律儀戒 2、攝善宝戒 3、攝衆儀戒(鑑真が開いた戒壇を東大寺戒壇堂が引き継いだもの)がある。  


7、七堂伽藍とは塔・講堂・回廊・経蔵・鐘楼・僧房を言うが七,は全ての意味に通ずるとされる。   


8、護国三部経 法華金光明経・仁王般若経を言い、特に金光明経は鎮護国家に対する思想を強調したもので陳の文帝が取り入れたとされる。日本に於いては天武天皇が律令制国家建設の為に仁王般若経と共に重要視したと思はれる

9、 仏像彫刻に於いて飛鳥時代の正面観照性に加え左右相称性を重視するようになる。

 

 

       
   
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