寺伝によれば光仁・桓武天皇(776・780年)の勅願寺とされているが異説も多いようだ、いずれにしても奈良朝廷が建立した最後の寺である。
西大寺所蔵の「京北班田図」に依れば、元は内経寺と呼ばれたが付近を流れる川の名称から秋篠寺と呼ばれると言う説と、香水閣(閼伽井屋)と呼ばれる霊泉の湧く井戸が朝廷の「御香水所」とされた様である、すなわち「閼伽水(注4)」から命名されたと言う説もある。
美しい響きの名を持つ秋篠寺は奈良朝廷最後の官寺に相応しく金堂・講堂・東西両塔など、いわゆる七堂伽藍を備えていた。
光仁天皇の勅願を受け、玄昉の弟子で法相六祖の一人で法相学の礎を構築し、後に秋篠の僧正と呼ばれた唯識・仏法の碩学・善珠を開基として桓武天皇の平安遷都と時を同じくして完成したとされる。
秋篠寺が帝の寿命延長を祈願する
光仁・桓武・嵯峨の三天皇の帰依を受けて発展した当寺は780年頃の創建と考えられ平安時代には真言宗の道場として、南都佛教が復活した鎌倉時代には興福寺の傘下に入り法相宗の寺であった、その後浄土宗(西山派)を経て現在は真言・法相兼学の単立寺院である。
平安時代、1135年兵火により講堂を残して主要伽藍が焼失する、鎌倉時代に仏像など修復が行われたが、明治初年の廃仏毀釈でダメージを受ける、残った講堂が鎌倉時代に改修された現在の本堂である。
また桓武天皇の忌斎を行った記録があり禁裏との絆を感じさせるが、境内に佇むと南都佛教の終焉を見た思いがする。
伝、伎芸天・大元帥明王と希少な尊像が重文として存在し、特に奈良時代に作られた脱乾漆像が多いが、伎芸天は天平時代作の頭部に鎌倉時代に躯体を木造で修復されている。
特に伝・伎芸天は製作年代が異なるが、この尊像は秋篠寺の象徴であり堀辰雄、中村汀女、川田順等が最大級の讃辞をいている、中でも堀辰雄氏は大和路・信濃路に於いて耽美主義とも言える「東洋のミューズ」(注1)「わけてもお慕わしい」とまで称歎(Saṃstuta) する、重文指定の像は当寺にしか存在せず特に芸道の上達を目指す人々の信仰は篤い、しかしシバ神の髪の生え際から発生したとされる伎芸天は経軌に拠れば左手に一天華を持ち右手は下に下ろし衣を捻ると記述されており姿形的に疑問は残る。
秘仏で毎年6月6日のみ開扉される、大元帥明王は戦勝・外敵降伏・鎮護国家の呪術を行う「太元御修法」は極秘とされ秘術の本尊で、日本に於いては空海の弟子で入唐八家(注3)の一人である小栗栖常暁が習得した秘術の本尊である、他に渡航してこの秘術を習得しても門外不出の秘法の為に多くの僧侶が帰国を許されず殺害されたと言う。
また国宝の本堂の屋根は平三斗の斗栱に支えられた大棟が低く作られ、通常置かれる鬼瓦でなく鳥衾が設置され装飾を省いた純和様の代表建築として貴重である。
所在地 奈良市秋篠町757 宗派 単立 ℡ 0572-45-4600
注1, ミューズ ギリシア語でMousai(ムーサイ)・英語でMuse(ミューズ)と記す、ギリシャ神話上の女神で芸能・音楽・舞踏などを司る神であり英語のMusic(音楽、ミュージック)・Museum(美術館・博物館、ミュージアム)等の語源となる。
注2, 堀辰雄 (1904~1953年)東京生れ、東京帝国大学・国文科卆 芥川竜之介と知遇がありフランス文学を意欲的に吸収、また日本古典にも造詣が深い。代表作に菜穂子・美しい村・風立ちぬ・かげろふの日記・大和路・信濃路(随筆集)などがある。
注3、入唐八家 唐に留学した高僧を言い 最澄(天台宗) ・空海 ・円仁(天台宗) ・円珍(天台宗) ・円行(真言宗) ・常暁(真言宗) ・恵運(真言宗) ・宗叡(真言宗)を言う。
常暁は9世紀中盤の僧・空海の弟子で元興寺に於いて三論(中論・十二論・百論)を習得し、唐に於いて三論と大元御修法を学び禁裏に重用され権律師となる。
注4、閼伽井屋 閼伽は佛を供養する水を言う、梵語arghya、ラテン語でaquaの音訳で閼伽井屋を意訳すれば聖水の在る所となる、水は色、声、香、味、触の五塵を五智の徳で清める、また閼伽は遏伽とも記述し仏が口を漱ぎ足を洗う等の為に供養する聖水を言い、原語は「価値あるもの」を意味する。
秋篠寺の文化財 表内は国宝 ●印重要文化財
名 称 |
仕 様 |
時 代 |
本 堂 |
桁行5間 梁間4間 寄棟造 本瓦葺 |
鎌倉時代 |
●伝伎芸天 立像 木造(躯体)脱活乾漆(頭部)204、5cm 天平時代一部鎌倉時代
●薬師如来 三尊 木造 脇侍彩色 中尊140,5cm 左脇侍156,7cm 右脇時155、1cm 室町時代(脇侍・平安時代) 本尊
●十一面観音 立像 木造彩色 166,0cm 平安時代(東博寄託)
●地蔵菩薩 立像(二尊)立像 木造96,7cm 92,9cm 藤原時代(1尊京博寄託)
●梵天 立像 木造(躯体)脱活乾漆(頭部)204,8cm 天平時代一部鎌倉時代(奈良博寄託)
●帝釈天 立像 木造(躯体)脱活乾漆(頭部)206,0cm 天平時代一部鎌倉時代
●大元帥明王 立像 木造彩色 六臂 229,5cm 鎌倉時代(6月6日開扉・人間を呪い殺す為に作られた像とも言われる。 たいげんみょうおう)
●脱活乾漆残闕(奈良博寄託)
●伝・救脱菩薩 木造彩色 頭部乾漆(天平時代) 243,9cm 鎌倉時代
●その他帝釈天納入品・脱活乾漆像残闕 彩色52,9cmがある。
最終加筆日2004年10月1日 2016年8月11日 2018年1月7日 2022年4月14日